徒然想問

ジェンダー・フリーと補うこと


△種の永続
「或る人問う」
 先生(先生の定義は既述のとおり)は、閉鎖された教室で説教するので、ともす
れば傲慢になりやすいことは理解したが、それと種の永続との関係は?
 
「我は想う」
 先生は自己の仮説に没頭〜埋没してしまう傾向にあるため、自分自身の存在を見
失うと云うか、意識的に棚上げしてしまうことがある。
 
「或る人問う」
 先生は、自分には配偶者も親も子もその存在を意識せず、まして人類の一員とし
て、今現在を生きていること、などを白紙として説教をすると云うことだね。自分
は中立なんだ、と云うことを強調したいんだね。
 
「我は想う」
 そのとおり。
 
「或る人問う」
 先生自身、子供から青年、成人、老人と云う「時」の流れに応じて、死に至るこ
とに中立を装うんだね。
 世の中は、幼時から老人までで構成され、老人はやがて消え、幼児が成人にな
り、新たな赤ん坊が生まれくると云う、人類は絶えず消長を繰り返し、更新されて
いることに無頓着になってしまうと云うことだね。
 
「我は想う」
 まあ、そのように理解出来よう。
 
「或る人問う」
 生物は生まれながらにして、食と性の本能が備わっている。その故に、自然界の
生物は「円環の思想」(輪廻)の如く、消長を繰り返しながら更新され、それぞれ
の種の永続が図られてゆくのだね。
 
「我は想う」
 輪廻とは、「生あるものが死後、迷いの世界である三界・六道を次の世に向けて
生と死とを繰り返すこと」で、仏教の基本的な概念とされている。
 ところで、仏教などに関して「三教の味とは]と云う寓話を紹介する。

[三教の味とは]
 
 『酢を味わう三人の聖人(「三教の味」とも)』と云う宋の寓話は、仏教と儒教
と道教の三つの教えの違いを見事に説明している。
 
 釈迦と孔子と老子の三人があるとき、酢の瓶の前に立っていた。
 それぞれ自分の指を突っ込んで、味わってみた。
 事実に忠実な孔子は酸っぱいと言い、釈迦は苦いと言い、老子は甘いと言った。
 
 即ち孔子は、感情を交えないで事実をそのまま述べた。
 釈迦は暗い面に焦点を当てて、苦い点を指摘した。
 それに対して老子は、なんとか美点を見つけて肯定的に考えようとした。
 
 この話の『酢』は、まさしく人生の象徴(三人三様)である。

「或る人問う」
 本稿のような散文には、仏教の説く文言を引用することは、物事の本質を見失う
恐れがあるようだが………
 
「我は想う」
 ………
 
「或る人問う」
 更にまた仏教には、「自給自足」に関する教義は見当たらないようだが………
 
「我は想う」
 釈迦は生来、自給自足をしなければならない環境で育たなかったからであろう。
 
「或る人問う」
 [自給自足]をしない、と云うことは自力で生活出来ないことであり、ひいては
独立国を建設することは、出来得ないと云うなのだろうか?………
 
「我は想う」
 ………

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