徒然想問

ソフトウエアと原罪


△原罪の本当の意味
「或る人問う」
 では、キリスト教で云う「原罪」とは?
 
「我は想う」
 そもそも罪と云う言葉は、ギリシャ語で「ハマルティア」、的から外れると云う
意味とされる。即ち神の定めた律法を破ることによって、本来の、人間の在り方か
ら外れてしまったことと定義される。
 
 三省堂提供「大辞林 第二版」に拠ると、罪とは、法律的・道徳的・宗教的な規範
に反する行為とされ、宗教の教えに反する行為としてキリスト教では神の意志に背
く行為を云い、仏教では法に背く行為と戒律を犯す行為を云う。
 
「或る人問う」
 では(キリスト教で云う)人間は、何故罪を持つようになったのか?
 
「我は想う」
 神は、最初の人間であるアダムとイブを創られた後、エデンの園に住まわせた。
そして神は、一つの戒めを与えられた。
 『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の
木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死
ぬ。』
 
 アダムとイブは、この戒めを守っていたなら、神との愛と信頼の交わりを永遠に
持つことが出来たのであるが、堕落した天使であるサタン(蛇)の「善悪の知識の実
を食べれば神のようになれる」と云う誘惑に負けて食べてしまった。そこには、神
のようになろうとする人間の罪の本質があったのであった。
 
 即ち、(キリスト教で云う)罪とは、人間が知識を得て、神のようになろうとす
ることなのである。
 
「或る人問う」
 と云うことは、人間が神になれば、唯一絶対神と肩を並べることにもなるんだ
ね。
 そうなれば、唯一絶対神としての意味がなくなるからなんだね。
 
「我は想う」
 …………

[次へ進む] [バック]   前画面へ戻る