『日本書紀 巻五』(崇神天皇)
 
                         参考:堀書店発行「神道辞典」
 
「大物主神」
七年春二月、丁丑朔。辛卯カノトウノヒ、(十五日)詔ミコトノリして曰ノタマはく、昔、我アが皇祖
ミオヤ、大オホキに鴻基アマツヒツギを啓ヒラきたまひき。其の後、聖業ヒジリノワザ逾イヨイヨ高く、王風
キミノノリ博く盛サカリなり。意オモはざりき、今、朕アが世ヨに当りて、数シバシバ災害ワザハヒ有らむ
とは。恐らくは朝ミカドに善政ウルハシキマツリゴト無くして、咎トガメを神祇アマツカミクニツカミに取るか。
盍イカにぞ命神亀ウラヘて以て災ワザハヒを致せる所由コトノヨシを極めざらむやと。是ココに於オキて、
天皇スメラミコト、乃スナハち神浅茅原カムアサヂハラに幸イデマして、八十万神ヤソヨロヅノカミタチを会ツドへて
卜問ウラドひたまふ。是の時、倭迹迹日百襲姫命ヤマトトトヒモモソヒメノミコトに神憑カミガカりて曰ノりた
まはく、天皇、何イカにぞ国の治らざるを憂ふるや。若し能ヨく我アレを敬イヤマひ祭らば、必
ず当自平タヒラギナムと。天皇、問ひて曰はく、如此カク教へたまふは誰イヅレの神ぞや。答へて
曰はく、我は是れ倭国の域内サカヒノウチに居る神、名を大物主神オホモノヌシノカミと為イふ。時に神
語カミノミコトを得て教ヲシヘの随マニマに祭祀イハヒマツりたまふ。然シカれども猶ほ事の験シルシ無し。天
皇、乃ち沐浴ユカハアミ斎戒モノイミして、殿内ミアラカノウチを潔浄キヨめて、祈ノみて曰はく、朕、神を
礼イヤマふこと尚ほ尽コトゴトくならずや。何ぞ不享ウケタマハヌコトの甚ケヤケき。冀ネガはくは、亦夢
裏イメノウチに教へて、神恩カミノウツクシビを畢ツクしたまへと。是の夜、夢に一貴人ヒトリノウマヒト有り。
殿戸ミアラカノホトリに対ムカひ立ち、大物主神と自称ナノりて曰はく、天皇、復マタ、国の治らざる
ことを為愁ウレヘましそ。是れ吾が意ココロぞ。若し吾が児大田田根子を以て吾を祭らしめた
まはば、立ちどころに平タヒラぎなむ。亦海外ワタノホカの国有りて、自オノヅカラに帰伏マイシタガひ
なむと。(中略)天皇、即ち親ミヅカら神浅茅原に臨イデマして、諸王卿オホキミタチマヘツギミタチ及
マタ八十諸部ヤソモロトモノヲを会ツドへて、大田田根子に問ひて曰はく、汝イマシ其れ誰タが子ぞ、対
へて曰マヲさく、父カゾをば大物主大神と曰イひ、母イロハをば活玉依姫イクタマヨリヒメと曰ふ。陶津
耳スエツミミの女ムスメなり。天皇曰はく、朕、当栄楽サカエムトスルカナと。乃ち物部連モノノベノムラジの祖
オヤ伊香色雄イカシコヲをして、神班物者カミツモノアカツヒトと為セむと卜ふに吉ヨし。又、便タヨリに他神
アダシカミを祭らむと卜ふに吉からざりき。十一月、壬申ミヅノエサル朔。己卯ツチノトウノヒ、(八日
)伊香色雄に命ミコトオホせて、物部八十手モノノベノヤソデが作れる祭神カミマツリの物を以て、即ち
大田田根子を以て、大物主大神を祭イハふ主カムヌシと為す。又、長尾市ナガヲチを以て、倭大国
魂神ヤマトノオホクニタマノカミを祭ふ主と為す。然る後に他神を祭ふことを卜ふに吉し。便スナハち別
コトに八十万ヤソヨロヅの群神モロガミを祭ひたまふ。仍ヨりて天社アマツヤシロ・国社クニツヤシロ及神地
カムドコロ・神戸カムベを定めたまふ。是に於て、疫病エヤミ始めて息ヤみ、国の内ウチ漸ヤヤヤヤに謐
シヅマり、五穀イツツノタナツモノ既ハヤく成ミノりて、百姓オオミタカラ饒ニギハひぬ。
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