[詳細探訪] 参考:堀書店発行「神道辞典」 「宮中八神」とは、 @神祇官ジンギカン八神ハッシンとは、神祇官の八神殿に奉斎の八柱の神を云う。 A古語拾遺には高皇産霊・神皇産霊・魂留産霊・生産霊・足産霊・大宮売神・事代主神・御膳神 とあり、延喜神名式には神祇官の西院に坐す御巫等の祭る神として、神産日神・高御産日 神・玉積産日神・生産日神・足産日神・大宮売神・御食津神・事代主神とする。 御神格については種々の説があるが、高御産日神、神産日神は天御中主神と共に造化 主宰の神で、天地間の万物を生々化育するのはこの神の霊徳であり、玉積産日以下三神 は霊魂主宰の神で、就中玉積産日神は浮かれゆく魂を身体の中府に鎮め留むることを掌 り、生産日神は活動して止まざることを、足産日神は不足することなくして豊かに充足 することを掌り給う神であり、大宮売神は天照大御神の御前に近侍した神で、君臣の間 を和し宸襟シンキンを安んじ悦ばしめ給う神、御食津神は天皇の日々の供御の事を、事代主 神は忠孝兼備・朝廷守護の神と窺われる。 以上八神は何れも玉体(天皇の大御身)守護の神々として奉斎され、毎年の鎮魂祭に は特に宮内省に招じ、その前にて鎮魂行事が行われた。八神殿に奉仕の御巫は庶女の事 に堪えた者から選任する(臨時祭式)とあるので、門地系譜は問わなかったらしいが、 その待遇には時服の外、屋一宇と食田一町を給うた(延喜式)。 またその選替のときには八神殿の社宇の造営が行われ、神座を始め殿内装飾一切は新 任の御巫の手で供された。日常の奉仕については資料を欠くが、十一月の鎮魂祭には御 巫が神祇官斎院(西院)で稲を舂炊し、藺笥に盛り祭所(宮内省)に向かって供した。 この舂炊は同院柏殿で行われたものであろうから、このことは日々の奉仕の延長でもあ ったと推察される。鎮魂斎戸イハヒベ祭(祝詞式)とも関係があろう。 八神殿の大きさは、神殿各一宇長一丈七尺広一丈二尺五寸とあり、神座その他の殿内 装飾品も臨時祭式に見える。神祇官は平安季世安元三年焼亡後は形ばかりの復興であっ たらしいが(伯家部類)応仁の乱後は全く荒廃に帰した結果、その後は吉田家では吉田 神社内に、白川伯家では自邸に於いて八神殿を建てて奉斎するに至った。吉田の斎場所 は神祇官代として勅使発遣等の儀に用いられ、白川邸の八神殿は宮内省代として鎮魂祭 の斎場とされた。 明治二年、二重橋前の広場に神祇官が建設され、宮内に八神殿(単に神殿とも云う) がその十二月七日改めて鎮祭された。この八神殿には、八神に併せて天神地祇、御代々 皇霊の三座が奉斎された。これが、現在の宮中皇霊殿の起因をなすものである。