22b 哲学のすすめ[科学の限界は何か]
〈価値判断にも二種類ある〉
△具体的事物についての価値判断
これまで、概ね科学は決して価値判断を与えないと云うことを述べてきました。しか
しこのことについて、念のために付け加えて置きたいのは、私の言う価値判断とは原理
的な価値判断であって、具体的な事物についての価値判断ではない、と云うことです。
具体的な事物についての価値判断は、事実についての知識とは無関係に成り立ち得ま
せん。例えば、Aと云う人が良い人か悪い人かを判断する場合を考えてみましょう。我
々はこの判断を下す場合、Aがどういう行為をしているかと云う事実をよく知る必要が
あります。
この事実について我々の知識が変わってくると、Aについての価値判断も変わってき
ます。もし今私が「Aは何時も他人に親切で思い遣りがある」と思っていれば、私は「
Aは良い人である」との価値判断を下すでしょう。ところがもし或る人が私に「いや、
Aは人前では確かに親切で思い遣りがあるように振る舞っているが、蔭では全く違った
態度を執っている」と言いますと、Aについての私の事実的な知識が変わります。そし
て私のAに対する価値判断も当然変わるでしょう。このように具体的な事物についての
価値判断は、事実についての知識に因って大きく左右されるのです。寧ろ、この種の価
値判断は、事実についての知識が主役を演ずるのです。
△原理的な価値判断
しかし、事実からは導き出せない価値判断があります。それは原理的な価値判断です。
例えば前例では、「親切で思い遣りがある」と云う原理的な価値判断を前提として、
その後の或る人の忠告によって第二次的な価値判断のとき困惑しました。
では、次のことに注意してみましょう。
Aは@親切で思い遣りがある。
A故に良い人である。
ところが忠告に因って、
Aは@実際は親切ではなく、思い遣りもないと思う。
A従って、良い人ではない。
この価値判断においては、原理的な価値判断は共通です。同一の原理的な価値判断が
前提されているのです。この価値判断そのものは、此処では、何の問題ともなっていま
せん。Aについての具体的な価値判断において、事実についての知識が主役を演ずるよ
うに見えるのは、実はこの原理的な価値判断を初めから絶対に確実なものとして、疑っ
ていないからなのです。
△人生観における価値判断
原理的な価値判断と、具体的な事物についての価値判断の、この二種類の価値判断の
区別は、はっきりさせておく必要があります。我々はともすると、この二つを混同しま
すが、前者が純粋な価値判断であるのに対して、後者は、前者を前提とした上で行われ
る、いわば二次的な価値判断です。私が価値判断は科学的知識からは導き得ないと主張
するのは、原理的な価値判断のことなのです。
もし、この私の考えに間違いがあるとその人が思うと、
「親切で、他人に思い遣りのあることは決して良いことではない」と価値判断したこ
とになります。この場合、私は自分の価値判断の正しさを、果たして事実についての知
識によって、相手に証明出来るでしょうか。
即ち、「多くの人は、親切で他人に思い遣りのあることを良いことと考えている」と
云う事実は、証明にはならないのです。
何故なら、たとえ多くの人がそのように思っていることが事実でも、このことは決し
て多くの人の抱いている「この価値判断は正しい」と云うことを証拠立てるものではあ
りません。我々は決して、事実についての知識からは、原理的な価値判断を導くことは
出来ないのです。
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