96 歴代天皇
96 後醍醐ゴダイゴ天皇(その一)
鎌倉末期・南北朝時代の天皇。後宇多天皇の第二皇子。名は尊治タカハル。親政を志し、
北条氏を滅ぼして建武新政を成就。間もなく足利尊氏の離反により吉野入りし、南朝を
樹立したが、失意の間に没す。
(在位1318〜1339)(1288〜1339)
元応ゲンオウ 皇紀1979 AD1319
元亨ゲンコウ 皇紀1981 AD1321
正中ショウチュウ 皇紀984 AD1324
嘉暦カリャク 皇紀1986 AD1326
元徳ゲントク 皇紀1989 AD1329
元弘ゲンコウ 皇紀991 AD1331
建武ケンム 皇紀1994 AD1334
延元エンゲン 皇紀1996 AD1336
〔神皇正統記〕 第九十五代、第四十九世、後醍醐天皇。諱は尊治タカハル、後宇多第二の
御子。御母談天ダンテン門院、藤原忠子タダコ、内大臣師継モロツグの女、実は入道参議忠継
タダツグノ女なり。御祖父亀山の上皇やしなひ申給き。
弘安に、時うつりて亀山・後宇多世をしろしめさずなりにしを、たびたび関東に仰給し
かば、天命の理コトワリかたじけなくおそれ思ければにや、俄に立太子の沙汰ありしに、亀
山はこの君をすへ奉らんとおぼしめして、八幡宮に告文カウモンをおさめ給しかど、一イチの
御子さしたる故なくてすてられがたき御ことなりければ、後二条ぞゐ給へりし。されど
後宇多の御心ざしもあさからず。御元服ありて村上の例により、太宰帥ダザイノソツにて節
会などに出させ給き。後に中務卿を兼せさせ給。後二条を世をはやくしましまして、父
の上皇なげかせ給し中にも、よろづこの君にぞ委附イフし申させ給ける。やがて儲君チョクン
のさだめありしに、後二条の一のみこ邦良クニヨシノ親王居給べきかときこえしに、おぼしめ
すゆへありとて、此親王を太子にたて給。「かの一のみこおさなくましませば、御子の
儀にて伝させ給べし。もし邦良親王早世の御ことあらば、此の御すゑ継体たるべし。」
とぞしるしをかせましましける。彼親王鶴膝カクシツの御病ありて、あやうくおぼしめしけ
る故なるべし。
後宇多の御門こそゆゝしき稽古の君にましまししに、その御跡をばよくつぎ申させ給
へり。あまさへもろもろの道をこのみしらせ給こと、ありがたき程の御ことなりけむか
し。仏法にも御心ざしふかくて、むねと真言をならはせ給。はじめは法皇にうけましま
しけるが、後に前大僧正禅助ゼンジョに許可コカまでうけ給けるとぞ。天子潅頂クワンヂャウの例
は唐朝にも見えはべり。本朝にも清和の御門禁中にて慈覚大師に潅頂をおこなはる。主
上をはじめ奉りて忠仁公などもうけられたる、これは結縁ケチエン潅頂とぞ申める。此度は
まことの授職ジュシキとおぼしめししにや。されど猶許可にさだまりにきとぞ。それなら
ず、又諸流をもうけさせ給。又諸宗をもすてたまはず。本朝異朝禅門の僧徒までも内に
めしてとぶらはせ給き。すべて和漢の道にかねあきらかなる御ことは中比よりの代々に
はこえさせましましけるにや。
戊午の年即位、己未の夏四月に改元。元応と号す。はじめつかたは後宇多院の御まつ
りことなりしを、中二とせばかりありてぞゆづり申させ給し。それよりふるきがごとく
に記録所ををかれて、夙にをき、夜はにおほとのごもりにて、民のうれへをきかせ給。
天下こぞりてこれをあふぎ奉る。公家のふるき御政にかへるべき世にこそとたかきもい
やしきもかねてうたひ侍き。
かゝりしほどに後宇多院かくれさせ給て、いつしか東宮の御方にさぶらふ人々そはそ
はにきこえしが、関東に使節をつかはされ天位をあらそふまでの御中らひになりにき。
あづまにも東宮の御ことをひき立申輩ありて、御いきどをりのはじめとなりぬ。元享甲
子の九月のすゑつかた、やうやう事あらはれにしかども、うけたまはりおこなふ中にい
ふかひなき事いできにしかど、大方はことなくてやみぬ。其後ほどなく東宮かくれ給。
神慮シンリョにもかなはず、祖皇ソクワウの御いましめにもたがはせ給けりとぞおぼえし。いま
こそ此天皇うたがひなき継体の正統にさだまらせ給ひぬれ。されど坊には後伏見第一の
御子、量仁カズヒトノ親王ゐさせ給。
かくて元弘辛未の年八月に俄に都をいでさせ給、奈良の方に臨幸ありしが、其所よろ
しからで、笠置カサギと云山寺のほとりに行宮カリミヤをしめ、御志ある兵ツハモノをめし集らる。
たびたび合戦ありしが、同九月に東国の軍おほくあつまりのぼりて、事かたくなりにけ
れば、他所にうつらしめ給しに、おもひの外のこといできて、六波羅ロクハラとて承久より
こなたしめたる所に御幸ある。御供にはべりし上達部カンダチメ・うへのをのこどももあるひ
はとられ、或はしのびかくれたるもあり。かくて東宮云につかせ給。つぎの年の春隠岐
国にうつらしめまします。御子たちもあなたかなたにうつされ給しに、兵部卿護良モリヨシノ
親王ぞ山々をぐり、国々をもよほして義兵をおこさむとくはたて給ける。河内国に橘正
成マサシゲと云者ありき。御志ふかゝりければ、河内と大和との境に、金剛山コウガウセンと云
所に城をかまへて、近国ををかしたひらげしかば、あづまより諸国の軍をあつめてせめ
しかど、かたくまぼりければ、たやすくおとすにあたはず。よの中みだれたちにし。
次の年癸酉の春、忍て御船にたてまつりて、隠岐をいでて伯耆ハウキにつかせ給。其国に
源長年ナガトシと云者あり。御方ミカタにまいりて船上フナノウヘと云山寺にかりの宮をたててぞす
ませたてまつりける。彼あたりの軍兵グンピャウしばらくはきをいてをそひ申けれど、みな
なびき申ぬ。都ちかき所々にも、御心ざし有る国々のつはものよりよりうちいづれば、
合戦もたびたびになりぬ。京中さはがしくなりては、上皇も新王も六波羅にうつり給。
伯耆よりも軍をさしのぼせらる。こゝに畿内キダイ・近国にも御志ある輩、八幡山ヤハタヤマに
陣をとる。坂東よりのぼれる兵の中に藤原の親光チカミツと云者も彼山にはせくはゝりぬ。
つぎつぎ御方にまいる輩おほくなりにけり。源高氏タカウヂときこえしは、昔の義家朝臣が
二男、義国ヨシクニと云しが後胤なり。彼義国が孫なりし義氏ヨシウヂは平義時ヨシトキ朝臣が外孫
なり。義時等が世となりて、源氏の号ある勇士には心ををきければにや、をしすへたる
やうになりしに、これは外孫なれば取立て領ずる所などもあまたはからひをき、代々に
なるまでへだてなくてのみありき。高氏も都へさしのぼせられけるに、疑をのがれんと
にや、告文をかきをきてぞ進発しける。されど冥顕をもかへりみず、心がはりして御方
にまいる。官軍力をえしまゝに、五月八日のころにや、都にある東軍みなやぶれて、あ
づまへこゝろざしておちゆきしに、両院・新帝おなじく御ゆきあり。近江国馬場バンバと
云所にて、御方に心ざしある輩うち出にければ、武士はたゝかうまでもなく自滅しぬ。
両院・新帝は都にかへし奉り、官軍これをまぼり申き。かくて都より西ざま、程なくしづ
まりぬときこえければ還幸せさせ給。まことにめづらかなりし事になむ。
東アヅマにも上野カミツケノ国に源義貞ヨシサダと云者あり。高氏が一族也。世の乱におもひを
おこし、いくばくならぬ勢にて鎌倉にうちのぞみけるに、高時タカトキ等運命きはまりにけ
れば、国々の兵つきしたがふこと、風の草をなびかすごとくして、五月の二十二日にや、
高時をはじめとして多の一族みな自滅してければ、鎌倉又たいらぎぬ。符契フケイをあはす
ることもなかりし筑紫の国々・陸奥・出羽のおくまでも同月にしづまりにけり。六七千里
のあひだ、一時におこりあひにし、時のいたり運の極ぬるはかゝることにこそと不思議
にも侍しもの哉。君はかくともしらせ給はず、摂津国西の宮と云所にてぞきかせましま
しける。六月四日東寺にいらせ給ふ。都にある人々まいりあつまりしかば、威儀をとゝ
のへて本の宮に還幸し給。いつしか賞罰のさだめありしに、両院・新帝をばなだめ申給
て、都にすませましましける。新帝は偽主ギシュの儀にて正位にはもちゐられず。改元し
て正慶と云しをも本モトのごとく元弘と号せられ、官位昇進せし輩もみな元弘元年八月よ
りさきのまゝにてぞありし。
平治より後、平氏ヘイジ世をみだりて二十六年、文治の初、頼朝権をもはらにせしより
父子あひつぎて三十七年、承久に義時世をとりおこなひしより百十三年、すべて百七十
余年のあひだおほやけの世を一にしらせ給ことたえにし、此天皇の御代に掌をかへすよ
りもやすく一統し給ぬること、宗廟の御はからひも時節ありけりと、天下こぞりて仰奉
りける。
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