84 歴代天皇
84 順徳ジュントク天皇
鎌倉前期の天皇。後鳥羽天皇の皇子。名は守成モリナリ。佐渡院とも。承久の乱(1221年
)に敗れ佐渡に配流。その地で崩。和歌に秀で、「八雲御抄」「禁秘抄」「順徳院御集
」がある。
(在位1210〜1221)(1197〜1242)
建暦ケンリャク 皇紀1871 AD1211
建保ケンポウ 皇紀1873 AD1213
承久ジョウキュウ 皇紀1879 AD1219
〔神皇正統記〕 第八十四代、順徳院。諱は守成モリナリ、後鳥羽第三の子。御母修明シウメイ
門院、藤原重子シゲコ、贈左大臣範季ノリスエの女也。庚午の年即位、辛未に改元。
此御時征夷大将軍頼朝ノ次郎実朝サネトモ、右大臣左大将までなりにしが、兄左衛門督頼家
ヨリイエが子に、公暁クゲウと云ける法師にころされぬ。又継人なくて頼朝が跡はながくたえ
にき。頼朝が後室に従二位平政子マサコとて、時政トキマサと云ものの女也し、東国のことをば
おこなひき。其弟義時ヨシトキ兵権をとりしが、上皇の御子をくだし申て、あふぎ奉るべき
よし奏しけれど、不許にやありけむ、九条摂政道家ミチイエのおとゞは頼朝の時より外戚に
つゞきてよしみおはしければ、其子をくだして扶持し申ける。大方のことは義時がまゝ
になりき。
天下を治給こと十一年。譲国ありしが、事みだれて、佐渡国にうつされ給。四十六歳
おましましき。
(中略)
85 仲恭チュウキョウ天皇
鎌倉前期の天皇。順徳天皇の第四皇子。名は懐成カネナリ。半帝・九条廃帝とも。承久3年
(1221)4月即位。5月承久の乱が起り、7月退位。在位七十余日。
(1218〜1234)
承久ジョウキュウ 皇紀1879 AD1219
〔神皇正統記〕 廃帝。諱は懐成カネナリ、順徳の太子。御母東一条院、藤原立子リツコ、故摂
政太政大臣良経ヨシツネノ女也。
承久三年春の比より上皇おぼしめしたつことありければ、にはかに譲国したまふ。順
徳御身をかろめて合戦の事をも一ヒトツ御心にせさせ給はん御はかりことにや、新主に譲位
ありしかど、即位登壇トウダンまでもなくて軍やぶれしかば、外舅ハハカタノヲヂ摂政道家の大臣
の九条の第テイへのがれさせ給。三種ノ神器をば閑院の内裏にすてをかれにき。譲位の後七
十七ケ日のあひだ、しばらく神器を伝給しかども、日嗣にはくはへたてまつらず。飯豊
イイトヨの天皇の例になぞらへ申べきにこそ。元服などもなくて十七歳にてかくれまします。
さても其世の乱ミダレを思に、まことに末の世にはまよふ心もありぬべく、又下シモの上
カミをしのぐ端ともなりぬべし。そのいはれをよくわきまへらるべき事にはべり。頼朝勲
功は昔よりたぐひなき程なれど、ひとへに天下を掌タナゴコロにせしかば、君としてやすか
らずおぼしめしけるもことはりなり。況や其跡たえて後室の尼公ニコウ、陪臣の義時が世に
なりぬれば、彼跡をけづりて御心のまゝにせらるべしと云も一往イチワウいゝなきにあらず。
しかれど白河・鳥羽の御代ノ比より政道セイタウのふるきすがたやうやうおとろへ、後白河の
御時兵革ヒャウガクおこりて姦臣カンシン世をみだる。天下の民ほとんど塗炭トタンにおちにき。頼
朝一臂イチビをふるひて其乱をたひらげたり。王室はふるきにかへるまでなかりしかど、
九重ココノヘの塵もおさまり、万民の肩もやすまりぬ。上下堵トをやすくし、東より西より其
徳に伏せしかば、実朝なくなりてもそむく者ありとは聞えず。是にまさる程の徳政なく
していかでたやすくくつがへさるべき。縦タトヒ又うしなはれぬべくとも、民やすかるまじ
くは、上天よもくみし給はじ。次に王者の軍と云は、とがあるを討じて、きずなきをば
ほろぼさず。頼朝高官にのぼり、守護の職を給、これみな法皇の勅裁チョクサイ也。わたくし
にぬすめりとはさだめがたし。後室その跡をはからひ、義時久く彼が権をとりて、人望
にそむかざりしかば、下にはいまだきず有といふべからず。一往のいはればかりにて追
討せられんは、上の御とがとや申べき。謀叛おこしたる朝敵の利を得たるには比量ヒリャウ
せられがたし。かゝれば時のいたらず、天のゆるさぬことはうたがひなし。但下の上を
剋コクするはきはめたる非道なり。終ツヒにはなどか皇化に不順マツロハザルべき。先まことの徳
政をおこなはれ、朝威をたて、彼を剋するばかりの道ありて、その上のこととぞおぼえ
はべる。且は世の治乱のすがたをよくかゞみしらせ給て、私の御心なくば干戈カンクワをう
ごかさるゝ歟、弓矢をおさめらるゝ歟、天の命にまかせ、人の望にしたがはせ給べかり
しことにや。つゐにしては、継体の道も正路シャウロにかへり、御子孫の世に一統の聖運を
ひらかれぬれば、御本意の末スエ達せぬにはあらざれど、一旦もしづませ給しこそくちお
しくはべれ。
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