66 歴代天皇
66 一条イチジョウ天皇
平安中期の天皇。円融天皇の第一皇子。名は懐仁ヤスヒト。
(在位 986〜1011)( 980〜1011)
永延エイエン 皇紀1647 AD 987
永祚エイソ 皇紀1649 AD 989
正暦ショウリャク 皇紀1650 AD 9905
長徳チョウトク 皇紀1655 AD 995
長保チョウホウ 皇紀1659 AD 999
寛弘カンコウ 皇紀1664 AD1004
〔神皇正統記〕 第六十六代、第三十六世、一条院。諱は懐仁カネヒト、円融第一の子。御
母藤原詮子センシ(後には東三条院と申。后宮コウグウ院号の始也)、摂政太政大臣兼家カネイヘ
の女也。花山の御門神器をすてて宮を出給しかば、太子の外祖にて兼家の右大臣おはせ
しが、内ウチにまいり、諸門をかためて譲位の議をおこなはれき。新王もおさなくましま
ししかば、摂政の議ふるきがごとし。丙戌年即位、丁亥に改元。
そののち摂政病により嫡子内大臣道隆ミチタカに譲て出家、猶准三宮ジュサングウの宣センを蒙
カウブル(摂政の人出家の始也。その比は出家の人なかりしかば、入道殿となむ申。仍源の
満仲マンヂュウ出家したりしをはゞかりて新発シンボチとぞいいける)。此道隆始て大臣辞て前
官にて関白せられき(前官の摂政もこれを始とす)。病ありて其子内大臣伊周コレカタしば
らく相かはりて内覧せられしが、相続して関白たるべきよしを存ぜられるけるに、道隆
かくれて、やがて弟右大臣道兼なられぬ。七日と云しにあへなくうせられにき。其弟に
て道長、大納言にておはせしが内覧の宣をかうぶりて左大臣までいたられしかど、延喜・
天暦の昔をおぼしめしけるにや、関白はやめられにき。三条の御時にや、関白して、後
一条の御世の初、外祖にて摂政せらる。兄弟おほくおはせしに、此大臣のながれ一に摂
政関白はし給ぞかし。昔もいかなる故にか、昭宣公の三男にて貞信公、貞信公の二男に
て師輔の大臣のながれ、師輔の三男にて東三条のおとゞ、東三条の三男にて(道綱ミチツナ
大将は一男歟。されど三弟にこされたり。仍道長を三男としるす)このおとゞ、みな父
の立たる嫡子ならで、自然ジネンに家をつがれたり。祖神ソジンのはからはせ給へる道にこ
そ侍りけめ(いづれも兄にこえて家をつたえらるべきゆへありと申ことのあれど、こと
しげければしるさず)。
此御代にはさるべき上達部カンダチメ・諸道の家々・顕密の僧までも優れたる人おほかりき。
されば御門も「われ人を得たることは延喜・天暦にまされり。」とぞ自歎ジタンせさせ給け
る。
天下を治給こと二十五年。御病の程に譲位ありて出家せさせ給。三十三歳おましまし
き。
67 三条サンジョウ天皇
平安中期の天皇。冷泉天皇の第二皇子。名は居貞オキサダ。藤原道長が権勢をふるう。
(在位1011〜1016)(976〜1017)
長和チョウワ 皇紀1672 AD1012
〔神皇正統記〕 第六十七代、三条院。諱は居貞ヲキサダ、冷泉第二の子。御母皇太后藤原
超子テウシ、これも摂政兼家の女也。花山院世をのがれ給しかば、太子に立給しが、御邪気
のゆへにや、おりおり御目のくらくおはしけるとぞ。辛亥年即位、壬子に改元。
天下を治給こと五年。尊号ありき。四十二歳おましましき。
68 後一条ゴイチジョウ天皇
平安中期の天皇。一条天皇の第二皇子。名は敦成アツヒラ。母は藤原彰子。
(在位1016〜1036)(1008〜1036)
寛仁カンニン 皇紀1677 AD1017
治安チアン 皇紀1681 AD10213
万寿マンジュ 皇紀1684 AD1024
長元チョウゲン 皇紀1688 AD1028
〔神皇正統記〕 第六十八代、後一条院。諱は敦成アツヒラ、一条第二の子。御母皇后藤原
彰子シャウシ(後に上東ジャウトウ門院と申)、摂政道長の大臣の女也。丙辰年即位、丁巳に改
元。外祖道長のおとゞ摂政せられしが、後に摂政をば嫡子頼通ヨリミチにおはせしにゆづり、
猶太政大臣にて、天皇御元服の日、加冠カクワン・理髪リハツ父子ならびて勤仕キンシせられしこそ
めづらしく侍しか。
冷泉・円融の両流かはるがはるしらせ給しに、三条院かくれ給てのち、御子敦明アツアキラ
の御子、太子にゐ給しが、心とのがれて院号かうぶりて小一条院と申き。これより冷泉
の御流はたえにけり。冷泉はこのかみにて御すゑも正統とこそ申べかりしに、昔天暦ノ御
時元方モトカタの民部卿のむすめ御息所ミヤスドコロ一のみこ広平ヒロヒラノ親王をうみたてまつる。
九条殿の女御まいり給て、第二の皇子(冷泉にまします)いできたまひし比より、悪霊
になりてこのみこも邪気になやまされましき。花山院の俄に代をのがれ、三条院の御目
のくらく、此東宮のかくみづからしりぞき給ぬるを怨霊のゆへなりとぞ。円融も一腹の
御弟におはしませど、これまではなやまし申さざりけるもしかるべき継体の御運ましま
しけるにこそ。東宮しりぞき給しかば、此天皇同母の御弟敦良アツヨシノ親王立給き。天皇も
御子なくて、彼東宮の御末ぞ継体せさせ給ぬる。
天皇天下を治給こと二十年。二十九歳おましましき。
69 後朱雀ゴスザク天皇
平安中期の天皇。一条天皇の第三皇子。名は敦良アツナガ。母は藤原彰子。
(在位1036〜1045)(1009〜1045)
長暦チョウリャク 皇紀1697 AD1037
長久チョウキュウ 皇紀1700 AD1040
寛徳カントク 皇紀1704 AD1044
〔神皇正統記〕 第六十九代、第三十七世、後朱雀院。諱は敦良アツヨシ、後一条同母の弟
也。丙子年即位、丁丑に改元。天皇賢明にましましけるとぞ。されど其比執柄シッペイ権を
ほしきまゝにせられしかば、御政のあときこえず。無念なることにや。長久の比コロ内裏
に火ありて、神鏡焼ヤケ給。猶霊光レイクワウを現じ給ければその灰をあつめて安置せられき。
天下を治給こと九年。三十七歳おましましき。
70 後冷泉ゴレイゼイ天皇
平安中期の天皇。後朱雀天皇の第一皇子。名は親仁チカヒト。在位中に前九年合戦が起る。
(在位1045〜1068)(1025〜1068)
永承エイショウ 皇紀1706 AD1046
天喜テンギ 皇紀1713 AD1053
康平コウヘイ 皇紀1718 AD1058
治暦ジリャク 皇紀1725 AD1065
〔神皇正統記〕 第七十代、後冷泉院。諱は親仁チカヒト、後朱雀第一の子。御母贈皇太后
藤原嬉子キシ(本モトは尚侍ナイシノカミ)、摂政道長のおとゞ第三の女なり。乙酉年即位、丙戌
改元。此御代のすゑつかた、世の中やすからず聞えき。陸奥にも貞任サダタフ・宗任ムネタフな
ど云し者、国をみだりければ、源頼義ヨリヨシに仰て追討せらる(頼義陸奥守に任じ、鎮守
府の将軍を兼す。彼家鎮守将軍に任ずる始なり。曾祖父経基ツネモトは征東副将軍たりき)。
十二年ありてなむしづめ侍ける。
此君御子ましまさざりし上、後朱雀の遺詔ユイゼウにて、後三条東宮にゐ給へりしかば、
継体はかねてよりさだまりけるにこそ。
天下を治給こと二十三年。四十四歳おましましき。
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