56 歴代天皇
 
 56 清和セイワ天皇
 
 平安前期の天皇。文徳天皇の第四皇子。母は藤原明子。名は惟仁コレヒト。水尾帝とも。
幼少のため外祖父藤原良房が摂政となる。仏道に帰依し、879年(元慶3)落飾。法諱は
素真。
(在位858〜876)(850〜880)
 貞観ジョウガン 皇紀1519 AD 859
 
〔神皇正統記〕 第五十六代、清和天皇。諱は惟仁コレヒト、水尾ミヅノヲの帝とも申。文徳第
四の子。御母皇太后藤原の明子アキラケイコ(染殿ソメドノの后と申)、摂政太政大臣良房の女
也。我朝は幼主位にゐ給ことまれなりき。此天皇九歳にて即位。戊寅年即位。己卯に改
元。
 
 践祚センソありしかば、外祖グワイソ良房の大臣はじめて摂政せらる。摂政と云こと、もろ
こしには唐尭の時、虞舜を登用と、政をまかせ給き。これを摂政と云。かくて三十年あ
りて正位をうけられき。殷の代に伊尹と云聖臣セイシンあり。湯トウ及太甲を輔佐す。是は保
衡ホウカウと云(阿衡とも云)。其心は摂政也。周の世に周公丹シュウコウタン又大聖タイセイなりき。
文王の子、武王の弟、成王の叔父シュクフなり。武王の代には三公につらなり、成王わかく
して位につき給しかば、周公みづから南面ナンメンして摂政す(成王を負オヒて南面せられけ
りとも見えたり)。漢昭帝又幼にて即位。武帝の遺詔ユイゼウにより博陸ハクリク侯霍光クワククワウ
と云人、大司馬大将軍にて摂政す。中にも周公・霍氏をぞ先蹤センショウにも申める。本朝に
は応神うまれ給て襁褓キャウホウにましまししかば、神功皇后天位にゐ給。しかれども摂政と
申伝たり。これは今の儀にはことなり。推古天皇の御時厩戸ウマヤドノ皇子摂政し給。これ
ぞ帝は位に備て天下の政しかしながら摂政の御まゝなりける。斉明天皇の御世に、御子
中の大兄オホエの皇太子摂政し給。元明の御世のすゑつかた、皇女浄足姫キヨタラシヒメの尊(元
正天皇の御ことなり)しばらく摂政し給き。この天皇の御時良房の大臣の摂政よりして
ぞまさしく人臣にて摂政することははじまりにける。但此藤原の一門神代より故ありて
国王をたすけたてまつることはさきにも所々にしるし侍りき。淡海公の後、参議中衛
チュウエノ大将房前フササキ、其子大納言真楯マタテ、その右大臣内麿、この三代は上カミ二代のごと
くさかへずやありけむ。内麿の子冬嗣の大臣(閑院カンインの左大臣と云。後に贈太政大臣
)、藤氏トウジの衰ぬることをなげきて、弘法大師に申あはせて興福寺に南円堂ナンエンダウを
たてゝ祈申されけり。此時明神役夫エキフにまじはりて、
 補陀落フダラクの南の岸に堂たてて今ぞさかへん北の藤なみ
と詠エイジ給けるとぞ。「此時源氏の人あまたうせにけり。」と申人あれど、大オホキなるひ
がことなり。皇子・皇孫の源ミナモトの姓シャウを給て高官・高位にいたることは此後のことなれ
ば、誰人かうせ侍べき。されど彼一門のさかへしこと、まことに祈請キセイにこたへたりと
見えたり。大方この大臣とほき慮オモヒハカリおはしけるにこそ。子孫・親族の学問をすゝめん
ために勧学院を建立す。大学寮に東西の曹司ザウシあり。菅クワン・江ガウの二家これをつかさ
どりて、人を教る所也。彼大学の南にこの院を立られしかば、南曹とぞ申める。氏ウジノ
長者たる人むねとこの院を管領して興福寺及氏の社ヤシロのことをとりおこなはる。良房の
大臣摂政せられしより彼一流につたはりてたえぬことになりたり。幼主の時ばかりかと
おぼえしかど、摂政関白もさだまれる職になりぬ。をのづから摂関と云名をとめらるゝ
時も、内覧の臣ををかれたれば、執政の儀かはることなし。
 
 天皇をとなび給ければ、摂政まつりことをかへしたてまつりて、太政大臣にて白河に
閑居せられにけり。君は外孫にましませば、なをも権をもはらにせらるともあらそふ人
あるまじくや。されど謙退ケンタイの心ふかく閑適をこのみて、つねに朝参テウサンなどもせら
れざりけり。其比大納言伴善男トモノヨシヲといふ人寵ありて大臣をのぞむ志なむありける。
時に三公闕ケツなかりき(太政大臣良房、左大臣信マコト、右大臣良相ヨシスケ)。信の左大臣を
うしなひて、其闕にのぞみて任ぜむとあひはかりて、まづ応天門を焼しむ。左大臣世を
みだらんとするくはたてなりと讒奏ザンソウす。天皇おどろき給て、糾明キウメイにをよばず、
右大臣に召仰メシオホセて、すでに誅せらるべきになりぬ。太政大臣このことをきゝ驚オドロキ
遽アハテられけるあまりに、烏帽子直衣ナホシをきながら、白昼に騎馬して、馳参じて申なだ
められにけり。其後に善男が陰謀あらはれて流刑に処せらる。此大臣の忠節まことに無
止ヤンゴトナキことになむ。天皇仏法に帰給て、つねに脱徙(尸冠+徙)ダッシの御志ありき。
慈覚大師に受戒し給、法号を授たてまつらる。素真ソシンと申。在位の帝、法号をつき給こ
とよのつねならぬにや。昔隋煬帝ヤウダイの晋王シンワウと云し時、天台の智者チシャに受戒して
惣持ソウヂと云名をつかれたりし、よからぬ君の例タメシなれど、智者の昔のあとなれば、な
ぞらへもちゐられにけるにや。又この御時、宇佐の八幡大菩薩皇城の南、男山石清水に
うつり給。天皇聞食キコシメシて勅使をつかはし、その所を点じて、もろもろのたくみにおほ
せて、新宮をつくりて宗廟に擬せられる(鎮坐の次第は上カミにもみえたり)。 
 
 天皇天下を治給こと十八年。太子にゆづりてしりぞかせ給。中みとせばかりありて出
家、慈覚の弟子にて潅頂うけさら給。丹波の水尾と云所にうつらせ給て、練行レンギャウし
まししが、ほどなくかくれ給。御歳三十一歳おましましき。
 
 57 陽成ヨウゼイ天皇
 
 平安前期の天皇。清和天皇の第一皇子。名は貞明サダアキラ。藤原基経により廃位。
(在位876〜884)(868〜949)
 元慶ガンギョウ 皇紀1537 AD 877
 
〔神皇正統記〕 第五十七代、陽成天皇。諱は貞明サダアキラ、清和第一の子。御母皇太后
藤原高子タカキコ(二条の后と申)、贈太政大臣長良ナガラの女也。丁酉年即位、改元。右大
臣基経モトツネ摂政して太政大臣に任ず(此大臣は良房の養子なり。実マコトは中納言長良の
男。此天皇の外舅ハハカタノヲヂなり)。忠仁公チュウジンコウの故事のごとし。
 
 此天皇性悪にして人主ジンシュの器ウツハモノにたらず見え給ければ、摂政なげきて廃立のこ
とをさだめられにけり。昔漢の霍光クワククワウ、昭帝をたすけて摂政せしに、昭帝世をはや
くし給しかば、昌邑王シャウエウワウを立て天子とす。昌邑不徳にして器にたらず。即廃立をお
こなひて宣帝センテイを立奉りき。霍光が大功とこそしるし伝はべるめれ。此大臣まさしき
外戚の臣にて政をもはらにせられしに、天下のために大義をおもひてさだめおこなはれ
ける、いとめでたし。されば一家にも人こそおほく聞えしかど、摂政関白はこの大臣の
すゑのみぞたえせぬことになりける。つぎつぎ大臣・大将にのぼる藤原の人々もみなこの
大臣の苗裔ベウエイなり。積善シャクゼンの余慶ヨキョウなりとこそおぼえはべれ。
 天皇天下を治給こと八年にしてしりぞけられ、八十一歳までおましましき。
[次へ進んで下さい]