07 暦と迷信
 
                暦と迷信
 
                     参考:雄山閣発行渡邊敏夫著「暦入門」
 
〈迷信について〉
△迷信
 日常生活の中において,繰り返し行われる習慣は,古くから先祖代々承け伝えてきた
もので,普通民俗と呼ばれています。民俗の中で,呪術ジュジュツ・卜占・禁忌・宗教的慣
行風習・妖怪ヨウカイ・幽霊・憑物ツキモノの観念,民間医術などを「俗信」といっています。
その時代,社会における一般常識からみて,真実でなく合理的でないことがはっきりし
ている事実を,なお真実であり合理的と信ずる現象が俗信です。
 俗信と迷信とは混同されやすいですが,俗信の中でも社会の秩序を乱し,生活の幸福
自由を奪うような俗信が「迷信」であるといわれています。一口にいって,宗教的にも
科学的にも迷妄メイモウとしか考えられない信仰が迷信です。未開社会における非合理的な
恐怖から生まれ出た信仰や,これに関連した呪術的儀式,種々の縁起や,吉凶禍福に対
する信仰など,皆文化程度の低いため発生したものですが,その判定の基準は相対的で
あり,その時代の文化の程度や場所にもより,また,個人的見解により違ってきます。
科学的研究の領域が拡まった現代人の理性を以てすれば,迷信は消滅する筈ですが,な
お不合理と考えられる低級な迷信が現在も多く残っています。
 古代人にとって天変地異程神秘不可思議なものはなく,大いなる驚愕におののき,ひ
たすら神々を信仰し祈念するより外に術ワザはなかったでしょう。しかし,科学の進歩に
よって地震の原因が判ってきた今日,鯰ナマズ説を信ずる人がいるでしょうか。今日なお,
残存する多くの迷信は畢竟科学の進歩の程度が,人間生活の要求に応じきれなかったた
めでしょう。
 しかし科学とても絶対的なものではありません。科学はある仮定を前提として成り立
っているもので,ある意味からいえば,一種の信仰です。ある時代には当然真理と考え
られたことも,時代が進むとともに,根底から覆されることも稀ではありません。例え
ば,天文学において二千年前には天動説は誰も疑念を持たなかった真理でしたが,地動
説が出て,ニュートンの万有引力説によって解明されて以来,天動説は最早信ずる者は
いなくなりました。科学では新説が出て,それが正しいと判断されますと,旧説は打ち
捨てられて,歴史的なものとして処理されて仕舞いますが,俗信とか迷信はたとえそれ
が真実でないと判っていても,なかなか断ち切ることができないところに,俗信や迷信
たる所以ユエンがあります。
 迷信は比較的天文や,周囲の自然界に関するものが多いのは,天の広大無辺にして,
古代人に不可解なことが多かったためでしょう。天文学は農業のために季節を誤らぬよ
う努力した結果,科学的な暦法において充分な成功を修めたことは,前掲のとおりです。
然るに一方では,これに付随した星占き祥キショウの迷信の邪道に陥ってしまったのです。
 洋の東西を問わず,惑星の複雑な運行は,同様に複雑な人事現象と対照され,両者の
間に何らかの関係が想定されました。其処で生まれたのが,人の出生時における日月五
星の位置によって,その人の一生の運命が支配されるという西洋の占星術でした。また
東洋においても,中国で五星の運行から抽象チュウショウした五行の循環組合せにより,また
干支や九星の配当により,日の吉凶禍福から人の運命までも支配されるという諸種の占
術が生まれました。
 しかし惑星の運行と人事の現象とどんな関係があるのでしょうか。もし仮に関係があ
るとしますと,天王星・海王星・冥王星の発見された現在,これら惑星も同じく人事界
に影響がある筈です。それを考慮しない昔ながらの五行説が,現在の暦の中でも相も変
わらず用いられている現状をどう考えるべきでしょうか。非合理にも拘わらず,なお有
り難がられているところに五行説の迷信たる所以があるのでしょう。
 同じように,九星術といわれる卜占術も,名称こそ九星などと名乗って,如何にも星
に関係がありそうですが,天文学とは何の関係もないものです。古人が勝手に暦日,方
位に吉凶を符会したものであり,古代中国人が神秘と感じた数字の配列も,魔方陣と呼
ばれる数字の遊戯に過ぎないものなのです。
 その他暦注など暦日に割り付けられた干支・十二直・二十八宿なども,附会した組合
せによったもので,全く人為的であり,天理に応ずるようなものではありません。
 民に時を誤りなく授けるという,中国における暦の基本方針は,何時の間にかその主
たる目的が迷信的暦注に置かれることになって仕舞いました。そして,日常生活の便宜
のために作られた暦注が,逆に人間生活の行動を束縛し,人の行動の自由を奪うものと
なってくるのです。「宇治拾遺シュウイ物語」に,
 
 これも今は昔ある人のもとになま女房ニョウボのありけるが、人に紙こひてそこなれける
 若き僧にかな暦かきてたべといひければ僧やすき事といひてかきたりけり、始めつ方
 はうるわしく、かみほとけによし、かん日、くゑ日など書きたりけるが、やうやう末
 ざまに成て、或物くわぬ日などかき、又これぞあれはよくくふ日など書きたり、此女
 房やうかはる暦かなと思へども、いとかうほどには思ひよらずさることにこそと思ひ
 て其のまゝにたがへず、又ある日はこすべからずと書きたれば、いかにとは思へども
 さこそあらめとて念じて過ごすほどに、長凶会日のやうに、はこすべからずはこすべ
 からずとつゞけ書きたれば、二日三日まではねんじ居たる程に、大かた堪タゆべきやう
 もなければ、左右の手にて尻をかゝへて、いかにせんいかにせんとよぢりすぢりする
 程に、ものも覚えずしてありけるとか
 
とありますが,暦に書かれる迷信とはこんなものです。この女房を笑う前に,まず自ら
を省みる必要がありましょう。
 日の吉凶方位に冠する迷信的暦注は,中国から暦の伝来とともに日本に輸入されまし
た。更に「宿曜経スクヨウキョウ」の伝来によって仏教に関係した迷信も附加され,年の経過と
ともに,新来のもの新造のものが加わって,江戸時代にはその数も数百に及んでいます。
わが国において,具注暦グチュウレキだけしか頒行されなかった時代は頒暦の数も百数十巻
で,諸国の有司ユウシまでの極限られた者にだけ頒ワカたれ,一般諸民階級にまで及びません
でしたので,その弊害も少なかったようです。それでも既に平城ヘイジョウ天皇大同2年(
807)9月28日に,暦注禁止の詔書が発せられました。しかし嵯峨天皇弘仁元年(810)
9月28日,公卿より,
 
 臣等商量、暦注之興、歴代行用、男女嘉会、人倫之大也、農夫稼穡カショク、国家之基也
 伏して望むらくは物情に因り、旧に依り具注
 
との奏請ソウセイがあり,再び暦注を施すことになりました。如何に根強く,貴族階級の日
常生活に暦注が入り込んでいたかを物語るものといえましょう。
 貞享ジョウキョウ改暦に当たって,それまで各地で頒行されていた地方の仮名暦に,区々マチ
マチに記載されていました暦注を取捨選択して統一したことは,大きな功績というべきで
した。
[次へ進んで下さい]