83 第二章 哀惜さるゝ老将軍の不時の死による深遠厳粛なる同感的な宗教心の目覚め
第一節 日本人の宗教心と聖なる人格者の没我的な聖行による霊感
上述にように、日本人の宗教心理と民族心理とは、超神主宰教的ではなくして、神人
即一教的である。そして、後年日本人は遂に文明教期の宗教の心的段階に到達した。日
本人の宗教心が神道の徳政をとって現れたのである。換言すれば、乃木時代の神道は既
に文明教期の宗教の段階に生長したのである。人々は、喜んで己を犠牲にして、その聖
天子に殉じた聖雄の没我的な聖行に感動した。この瞬間に、人間乃木は崇拝者達の目に
は後光のさした神人乃木と変ったのである。このようにして、聖列に入った乃木聖雄、
崇拝される乃木聖雄、神となった乃木聖雄は、神人即一教の性質をもち、文明教期の宗
教をもっていた崇拝者達の心を捕らえたのである。このようにして人間乃木は神に祀ら
れた。その夫と同様に、気高い心の持主であり、この世における愛する者の為に、喜ん
で自からを捧げた静子夫人も亦聖雄と共に祀られた。このようにして乃木聖雄は最早や
血肉の人に非ずして神である。聖雄は崇敬さるべき尊い存在であり、讃美すべき聖者で
あり、神の権化であり、文字通りの神人である。乃木聖雄の宗教的崇拝者には、その尊
敬すべきものは実に「道であり、真理であり、亦生命である」。或はロゴスの権化とも
云えよう。聖雄の熱心な崇敬者である前東京帝国大学名誉教授市川鑽(王偏の鑽)次郎
氏は聖雄を賞讃して曰く、
生きてだに死にたる人の多き世に 死にて生きたる君ぞ尊き
他の崇敬者万朝報紙の主筆黒岩涙香氏は乃木聖雄を讃えて曰く、
今日まではすぐれし人と思ひしに 人と生れし神にぞありける
山階宮の事務官香川秀五郎氏は次のような、感銘深い言葉を述べている。
世の人は何と云ふかは知らねども 我は神ともあがめまつらむ
日本人の間における、このような宗教的気分はかの古代猶太人の宗教と良く比較し得
られる。例えば、十二使徒や使徒パウロは、その尊敬する主イエス、神の子、油そゝが
れたる者、救世主その人に神の光を見ている。基督教は超神主宰教のセム族の伝統を有
するものであるから、人と神とを完全に同一視することは出来ない。それにも拘わらず、
イエス・キリストを神の子と呼んでいる。その精神は同じである。只だ云い方が違うだけ
である。
さて神人即一教に立ち帰って、仏教を一見しよう。ここに吾等は、その宗教の歴史上
の教主である仏陀釈迦牟尼そのものが実際に神即ち偉大なる存在、オーガスト・コントの
所謂「大存在」の地位を取っていること − その宗教上の先駆者波羅門教では神梵天と
呼んでいる地位を取っていることを知るのである。このように、吾々は人の中に神を見
るのである。実にそれが神人即一教の特質なのである。かの仏教的無神論、もっと厳密
に云えば、マックス・ミラーのいわゆる無天論(adevism)は、優れた有神論なのである。
何故なら、過去現在の一切の仏教信者は彼等の人間である教主を神として尊敬し崇拝し
て来たからである。
同様に、神人即一教的な宗教的性質を有する日本人の心は人間乃木を神として祀り、
又崇拝することは至極容易なことである。このようにして、吾々は神光赫如たる乃木聖
雄を祀ることになったのである。吾々が乃木神社で崇拝しているのは、厳密に云えば、
人間乃木ではなくして、神たる乃木聖雄即ち人間の形で現された神格即ち神たる乃木聖
雄であることを銘記せねばならぬ。更に疑問が起るかも知れない。即ち、何故歴史上の
人物たる仏陀又は人間乃木が神とした祀られ崇敬されるかと。その答は簡単である。一
方は「限りなき慈悲」の権化であり、他方は偉大なる道徳原理である。「至誠」「誠実
」又は「正直」が人間の形を取って現れたものである。この道徳原理が人間に体現され
たから、聖雄は神格であり神である。更に他の疑問が起るかも知れない。それは、何故
乃木崇拝又は乃木宗が神道の形式を取ったのであるかと。乃木聖雄は普遍的な道徳原理
である慈悲と同様に、普遍的道徳原理である至誠、誠実、又は正直が神格化されたもの
に外ならないのである。文明教期の段階における神道の神々は、その性質が道徳的であ
り、その共通な道徳原理は至誠である。そこで乃木聖雄の宗教は、その本質が至誠の宗
教であるから、自然と神道の形式を取ったのである。
更に銘記せねばならぬことは、神道は屡説したように、仏陀釈尊の普遍的な宗教に対
して、特殊な国民的宗教であると云うことである。乃木聖雄は宗教に関しては広く寛大
であったが、神道に対しては伝統的に忠実な信奉者であった。聖雄の信仰は少年時代か
ら受けて来た国民的宗教たる神社神道と一致していた。その結果とてし、聖雄は東京市
民並に多数の日本人の願いに依って、東京赤坂に神道の神として祀られたのである。
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