03a 乃木神社由緒記
 
一、祭神の御事歴
 
年号       歳 事 項
 
嘉永   二   一 十一月十一日江戸麻布日が窪長府毛利侯上屋敷内にて、同藩士
           乃木十郎希次(代々侍医の家柄であるが、希次は馬廻役)の第
           三子として出生。母寿子(常陸国土浦藩士長谷川金太夫の女)。
           幼名無人、後源三、又は文蔵とも称す。明治四年希典と改名。
安政   五   八 島田松秀に就いて句読習字を開始。十一月父母弟妹と共に長門
           国豊浦に移住。
 〃    六   九 松岡義明に就いて小笠原流礼法を習う。
           静子夫人、十一月二十七日鹿児島城下新屋敷にて、薩摩藩士湯
           地定之の第七子として出生。母天伊(池田氏)。幼名阿七、乃
           木家に嫁して後、静子と改名。
 〃    八  十一 結城香崖に就いて漢学を、江見後藤兵衛に就いて武家礼法及弓
           馬故実を学ぶ。
文久   一  十三 工藤八右衛門に就いて人見流馬術を、小島権之進に就いて日置
           流弓術を、多賀鉄之丞に就いて洋式砲術を学ぶ。
 〃    二  十四 中村安積に就いて宝蔵院流槍術を、黒田八太郎に就いて田宮流
           剣道を、福田扇馬に就いて兵書歴史を学ぶ。
 〃    三  十五 藩学敬業館内の集童場に入学。武教講録を学ぶ。
元治   一  十六 玉木正温(韋+温(三水のない温))の門に入り修学、士規七則
           を学ぶ。
慶応   一  十七 明倫館文学寮に通学、栗栖又助に就いて一刀流剣道を学ぶ。
 〃    二  十八 四月豊浦にて初めて兵務につき、六月山砲一門の長として豊前
           国に出戦。
 〃    三  十九 明倫館文学寮に入学。
明治   一  二十 一刀流目録伝授。
 〃    二 二十一 報告隊の漢学助教に就任。
 〃    四 二十三 一月豊浦藩陸軍練兵教官を拝命。陸軍少佐に任ぜられ、正七位
           に叙される。
 〃    五 二十四 東京鎮台第三分営大弐心得に補せらる。
           この年静子夫人十四歳で、父母に従い上京。
 〃    六 二十五 名古屋鎮台大弐心得に補せらる。従六位に叙せらる。
 〃    七 二十六 休職四ケ月。(軍職在任中四回の休職の内第一回の休職)
           この年静子夫人十六歳で、麹町元園町麹町女学校に入学され、
           翌年卒業。
 〃    八 二十七 熊本鎮台歩兵第十四連隊長心得に補せらる。
 〃    九 二十八 十月秋月の乱に出動。
 〃    十 二十九 小倉営所司令官勤兼。西南役に参加、二月植木の戦にて、軍旗
           を敵に奪われ、将軍生涯の痛恨事となる。また同戦にて銃創を
           受く。熊本鎮台幕僚参謀となる。十月父希次病没。
 〃   十一  三十 歩兵第一連隊長となる。八月二十七日静子夫人と結婚。
 〃   十二 三十一 八月二十六日長男勝典誕生。十一月赤坂区新坂町五十五番地に
           移転。正六位に叙せらる。
 〃   十三 三十二 陸軍歩兵大佐となる。従五位に叙せらる。
 〃   十四 三十三 十二月十六日次男保典誕生。
 〃   十六 三十五 東京鎮台参謀長に補せらる。
 〃   十八 三十七 陸軍少将となる。歩兵第十一旅団長となる。勲三等に叙し、旭
           日中綬章を賜ふ。正五位に叙せらる。
 〃   二十 三十九 ドイツ留学。二十一年六月帰朝。
 〃  二十二 四十一 近衛歩兵第一旅団長に補せらる。
 〃  二十三 四十二 歩兵第五旅団長に補せらる。
 〃  二十五 四十四 休職九ケ月。十二月歩兵第一旅団長に補せらる。
 〃  二十七 四十六 十月日清戦争に参加(旅順攻略)。
 〃  二十八 四十七 陸軍中将、第二師団長となる。功三級金鵄勲章及旭日重光章を
           賜ひ、男爵を授けられ、華族に列せられる。
 〃  二十九 四十八 十月台湾総督となる。従三位に叙せらる。十二月母寿子台湾に
           て病没。
 〃  三十一  五十 休職七ケ月、第十一師団長に補せらる。
 〃  三十四 五十三 休職
 〃  三十五 五十四 同上
 〃  三十七 五十六 日露戦争参加、第三軍司令官として旅順攻撃、陸軍大将となる。
           五月南山にて勝典戦死。十一月保典戦死。乃木家の継子絶える。
 〃  三十八 五十七 一月旅順陥落。奉天戦に参加。
 〃  三十九 五十八 一月十四日凱旋。功一級金鵄勲章及桐花大授章を賜ふ。宮内省
           御用掛となる。
 〃   四十 五十九 学習院院長となり、伯爵、従二位に叙せらる。
 〃  四十一  六十 満州差遣。
 〃  四十四 六十三 東伏見宮依仁親王殿下に随行し、英国皇帝戴冠式に参加、帰路
           欧州旅行。
大正   一 六十四 明治天皇の葬儀参列のため来朝された英皇族コンノート殿下の
           接伴員となる。九月十三日午後八時、明治天皇の御大葬儀御挙
           行の当日御霊轜宮御発引の時刻に夫妻自邸居間にて殉死。
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