31a 秋田の獅子頭
△一人立獅子
一人律獅子は、舞い手が一人で、獅子、鹿、龍、猪などの頭に幕を垂れた被りものを
し、腹に太鼓或いは羯鼓(中国で軍事に用いられた拍板ハクハンの変化したものと云う)を
付けて打鳴らしながら踊る風流芸系の獅子踊である。一人立獅子は、古くは万葉の世界
にも登場し、鹿や猪の扮装で踊った様子が歌に詠まれ、わが国古来の伝統的な獅子舞で
南方渡来系と云われている。
一人立獅子は、神奈川県を南限とし関東や東北地方に多く分布している。宮城県や岩
手県には鹿の獅子頭を被った者が八頭や十二頭で一組となり激しく飛び跳ねて踊る一人
立獅子が分布し、八鹿踊ヤツシカオドリと云っている。二つの係類に大別され一つは腹部に付
けた締太鼓を打鳴らしながら踊る太鼓系踊と、いま一つは布幕を垂らして手に持ち踊る
幕踊系である。太鼓系踊は、踊手の背に白紙で飾った腰竹か神籬ヒモロギ("ささら"とも)
を背に負って踊るのが特徴的である。社寺の祭礼やお盆に踊られる。民家や社寺の境内
で中立鹿シシの先導により、雄鹿、雌鹿が隊形を変えながら踊る。演目は、「案山子舞」
「鉄砲踊」「土佐」など多彩である。
一人立獅子には、この他にも新潟県に伝えられる越後獅子・角兵獅子や関東地方、秋田
県に広く分布する三匹獅子がある。越後獅子・角兵獅子は、芸能では大道芸系芸能に類系
されている。
△秋田県の獅子舞・獅子頭
秋田県では、獅子神楽のことを獅子舞とも番楽とも呼んでいる。この二人立獅子は、
架橋、お宮の新築、五穀豊穣祈願、先祖供養などの時に修法の獅子舞として舞われる。
終了後に既述のような番数の古風な舞曲が演じられる。獅子舞全体が数多くの舞曲で構
成されていることから、また修法としての獅子舞終了後に演じられる舞曲の中で、特に
人々を魅了して止まなかった武士舞の演目が番数構成されていることから、番楽と称さ
れるようになったと伝えている。
番楽には、演目毎に多種の仮面が用いられる。鳥海山麓の由利郡地方の獅子舞・番楽
は、京都醍醐寺三宝院を本拠とする当山派(修験道二派の一。醍醐三宝院を本山とする。
当山は大和の大峰山を指し、三宝院は、この執行。聖宝ショウボウを祖とすと云う)の修験
僧本海行人が、天正年間(1573〜92)から寛永年間(1624〜44)にかけて伝習の直伝の
獅子舞と伝えている。
二人立獅子のいま一つが伊勢神楽(太神楽・太々神楽)の獅子舞である。既述のよう
に、江戸時代から明治時代にかけて信仰の普及、講の成立や神社建立により県内一円に
信仰基盤が整って行く中で獅子舞が普及浸透してきた。
秋田県内には、踊りに囃される楽器の名に冠して"ささら"と称する一人立の三匹獅子
が広く分布している。雄獅子二頭(うち一頭を中立と云う)と雌獅子一頭が一組となり、
天狗(仙北地方ではオーセーと云う)や"ひょっとこ"、それに"ささら"を手にした踊り
手(ジァッチアカ、カッキリとも云う道化)が加わり、鉦や笛、羯鼓(米代川流域では
打つ所作だけのもの、また羯鼓を付けないものもある)などの囃子で踊る。謡い手によ
る歌も入るが、歌詞は関東地方に類似していて、ささらの故事に殆ど佐竹氏の入部の折
の伝承を伝えている。
ささらは、現在も五穀豊穣祈願、新築祝い、先祖供養(供養ざさら、墓ざさらとも)
の際などに踊られる。仙北地方の国見ささらには神立カンダチ、神楽、霊慕レンボ・レイボ、眠
りネマリ、また能代地方の常州下御供佐々楽には、並佐々楽、鳥居佐々楽、墓前佐々楽、ユ
ザ佐々楽、本荘地方の日役町獅子踊には、寄せ、独り立、回れや車、恋慕、大霧、志賀
崎、岡崎、花踊、のようにその地域により様々の演目があり、神社、寺院、路上、民家、
墓前などで演じられる。
ささらは行列(県北では通り、打ブっ込み、県南では畷ナデ渡り、由利では小路コジ渡
りとも)、棒術、奴舞、万歳、駒踊などが習合する複合芸能であるが、駒踊は県南に見
られない。三匹獅子によるささら踊は一般に恋の葛藤を表現したものとも伝えている。
獅子舞・獅子頭の変遷を明らかにするためには、獅子舞・獅子頭に深く結び付く神社信
仰との関わりについての調査研究が必要と考えられる。ここでは秋田県における神社信
仰の歴史的推移を概括的に述べる。
古代においては、様々な地主神の存在する中から、やがて国幣小社保呂羽山波宇志別
神社(山の神 大森町)、同御嶽ミタケ山塩湯彦神社(温泉の神 山内村)、同高岳山副川
神社(川の神 神岡町)の三社が県内における有力な神社として他に君臨してきたと云
う。
中世になると、鎌倉幕府の支配している武士団によって関東地方の神々が移入され、
地方の神々と習合してきた。中でも応神天皇(誉田別ホンダワケ尊)、神功皇后(息長帯
オキナガシタラシ比売)を祀り尊信する八幡神社信仰は、この期を経て近世佐竹氏の入部によ
り、佐竹氏が源氏を祖とすることから、県内の八幡神社の建立とその信仰が広まってき
た。
土着の山神社に対して、移入したものには八幡神社・神明社・稲荷神社が多く、次いで
熊野神社・愛宕神社・白山神社・諏訪神社・日吉神社・菅原神社などがある、との調査報告も
ある。
即ち八幡神社の武神崇敬が最も多く、神明社と稲荷神社の自然神も多くの尊崇を得て
きた。
この期にはまた、比叡山山王社(日吉・日枝)の天台宗信仰ももたらされて堂社の建立
も行われ、大日如来を本地とし、天照大神を垂迹とする神明社や熊野神社、諏訪神社、
白山神社等の信仰も浸透すると共に、神仏習合が盛行した。
近世になると堂社の増設の一方、社格の権威付けが盛んとなり、藩主の領内神社の再
建、修理、代参、寄贈などが頻りに行われるようになった。一方民間における信仰も隆
盛となり、武家は武運長久を八幡神社に、農民階層は五穀豊穣を神明社に、また商人は
商売繁盛を稲荷神社に祈願した。
これらの数多くの移入創建の神社に、どのようにして獅子舞・獅子頭が導入されて今日
に至ったか、その縁起や歴史的変遷については、今後の詳細な調査が必要である。
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