[詳細探訪1]
 
                      参考:小学館発行「万有百科大事典」
〈八幡信仰ハチマンシンコウ〉
 八幡信仰とは、八幡神に対する信仰である。大分県宇佐市の宇佐神宮(八幡宮)に起
こり、わが国の神社信仰では最も普及した信仰であるが、その発生、発達過程は複雑で
あるため従来諸説が多く、海の神、鍛冶神、幡を立てて祀る神、ヤハタ(地名)の神、
秦ハタ氏の氏神、焼き畑の神、朝鮮ハルマン信仰の神などと云われて来た。
 
 しかし、私見(この大事典の筆者)に拠ると、固有の信仰に朝鮮半島、大陸の信仰の
影響を受けて成立した信仰と云え、祭祀集団から見ると豊前国北部(田川、京都ミヤコなど
)を中心とする集団(トヨ国)と南部(宇佐、下毛など)を中心とする集団(ヤマ国)
の祭りが合体した神社信仰で、神事儀礼からすると、その創祀の社は豊前国筑紫郡綾幡
郷の矢幡八幡宮であり、ここにヤハタ神が発生すると間もなく社は宇佐地方に移り、転
々とする。この間にこれら祭祀集団の司祭者たちは、五世紀には豊国奇巫として参内し、
六世紀には仏教などの影響を受けて豊国法師となり、事あるごとに天皇治病に参内した。
これまでのヤハタ神の神格はヒメ神とされていたようであるが、蘇我馬子の頃、大和よ
り大神比義オオガノヒギと云うシャマンが宇佐に入り、ヤハタ神に応神天皇と云う神格を接
近させたようである。
 
 この神が中央に進出するようになったのは、天平十七年(745)聖武天皇が東大寺大仏
の鋳造を発願する頃からで、当時の司祭者大神田麻呂オオガノタマロが進んで朝廷に近付き、
八幡神の託宣により数々の問題が解決した。東大寺が出来ると、禰宜尼大神杜女オオガノ
モリメは上京して八幡神は一品イッポン、比売ヒメ神は二品ニホンを請け、千四百戸が施入される最
大の神社となり、以後国家の大事に関係するようになった。特に弓削道鏡の天位の野望
を退けた託宣は有名である。
 
 この神は天位に対する決定的力を持っていたし、早くから仏教や道教と習合していた
ので、天応元年(781)護国霊験の菩薩号が贈られ、神仏習合の先駆を示した。最澄、空
海が八幡神に近付き盛んに寺院鎮守に勧請するようになる頃、神功ジングウ皇后を併祀し
た。特に最澄が接近したので天台僧に親しまれ、金亀は天長四年(827)豊後の由原宮を
勧請し、宮寺と云う新しい信仰体制を創り上げ、この影響で貞観二年(860)京都の男山
に石清水イワシミズ八幡宮が勧請された。
 その頃から応神天皇、神功皇后の神格が強調され、王城鎮護の神として崇められるよ
うになり、伊勢の神宮に次ぐ第二の宗廟として崇敬されるようになった。その後間もな
く清和源氏は八幡神を氏神とし、関東地方、東北地方までも伝播するようになった。
 
 建久三年(1192)鎌倉幕府が開かれると、鎌倉鶴岡八幡宮が武士たちに崇敬されるよ
うになり、これが全国各地に伝わって武神の信仰が強くなつた。
 一方宇佐では、神功皇后が併祀されるようになる頃若宮が創祀されたが、その頃から
聖母子神の信仰が九州地方に現れ始め、聖母、神母、母子神の信仰が広がり、民衆に強
い支持を請けた。この信仰は比売神、若宮と結び付き、山岳信仰とも強力に結び付いて、
やがて八幡大菩薩に対して神母=人聞ニンモン菩薩と云う新しい信仰を創り上げ、九州地方
の一般民衆に固い信仰が生まれた。その本山とも云うべきものが豊後国国東半島の山で、
これを六郷山と云い、その信仰を六郷山修験道と云う。この人聞菩薩の信仰は比売神と
若宮を六所権現と呼び、その信仰は安産、生産、農耕など広く庶民の願望に応える信仰
として、一般大衆に浸透した。しかし全国的には、応神天皇を中心に神功皇后、仲哀天
皇などと組み合わされて広く信仰され、八幡宮に関係する神社は全国に四万社を数える。
 
[詳細探訪2]
 
                         参考:至文堂発行「神道美術」
 
〈八幡ヤハタ信仰〉
 「八幡」は「やはた」と読み、「はちまん」と読むのは略称であり俗称であると云う。
 八幡神ヤハタノカミは三座の神々から成るとされ、その主神は応神天皇を当てて、これを八
幡大神ヤハタノオオカミと称している。普通はその左右に二つの女神メガミを配して、その一つを
神功ジングウ皇后又は大帯比羊(口偏+羊)神オオタラシヒメノカミ、もう一つを比売ヒメ大神と称す
るが、左右を仲哀天皇と神功皇后に当てたり、比売大神を玉依姫神としたり、神功皇后
を住吉大神に代えたりする場合もある。
 
 八幡神の発源地は北九州で、豊前国宇佐郡馬城峯マキミネの山頂にある巨石を磐境イワサカと
して、初めて影向ヨウゴウされたと云う。この山を神体山として崇め、後にその山麓に祠を
建てて下宮を営み、これが今の宇佐八幡宮になり、これが八幡信仰の起こりであるとさ
れている。多少の異説はあるが、とにかくその起こりは、宇佐地方に住んでいた古代氏
族がその氏神信仰又は地域的な農耕神として祀り始めたことに発するものであろう。幡
ハタの名称については、そのような地域共同体を営んでいた氏族が、外来帰化の秦氏ハタウジ
であったことに由来する名称であるとする説と、地域共同体の信仰が古代における山畑
ヤマハタ農耕の儀礼に発することに由来する名称であるとする説がある。何れにしても「や
」は接頭語、又は「数の多いこと」を表す語と考えられる。
 またこの神の本質について、宇佐地方は古代における銅の生産、開発地であって、八
幡神と銅鉱産に携わる氏族等の氏神、つまり銅鉱産の守り神でもあったので、これが縁
故となって奈良時代には東大寺の大仏鋳造に際して大和に迎えられ、やがて東大寺の守
り神となって中央に固定し、其処からまた新しい信仰現象と神威を発揮することになっ
たのであるとも説かれている。
 
 八幡神の中央進出についてはまた一説に拠ると、八幡神はいわゆる疫神エキガミ(志多羅
神シダラジン)の一つであって、当時の都の社会不安(怨霊オンリョウ・飢饉キキン・疫病エキビョウ・兵
乱・群盗など)を除くため都に迎えられ、これが新興宗教的な狂信を呼んで、逆にまた諸
国に広く伝わっていった。そしてこれが後に八幡信仰を広く庶民信仰の世界に流布せし
める遠因になったのであると云う説もある。
 とにかく早く奈良時代から神仏習合現象の先駆神となり、既に平安時代の初期には、
「八幡大菩薩」の称号を贈られたなどの発展を遂げたのである。宇佐・手向山タムケヤマ・石清
水イワシミズ、そして中世に入って鶴岡ツルガオカ・左女牛サメガイ・若宮・筥崎ハコザキなど、その信仰
現象は多くの問題を各時代に亘って引き起こしてきたが、矢張り石清水八幡宮における
神仏習合の色彩は極めて濃厚で、特に密教との関連も深まって展開されてきた。
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