[詳細探訪]
 
                      参考:小学館発行「万有百科大事典」
 
〈天神信仰テンジンシンコウ〉
 天神信仰とは、菅原道真公の神霊に対する信仰である。本来、天神は地祇クニツカミに対す
る称で、天神アマツカミを指し、特定の神を意味するものでなかったが、菅公カンコウの霊を天満
大自在天神として神格化した。かくて天神信仰は京都市上京区馬喰町の北野天満宮(旧
官幣中社)とその同系の神社に独占されるに至った。当時一般に流布した雷神信仰と習
合、また無実の罪に薨じた公の怨霊オンリョウに対する恐怖から御霊ゴリョウ信仰と混交し、公
の霊の活動はすさまじい雷火を以て象徴された。
 北野には早くから天神社があり、雷公を祀っていたが、託宣頻発し、公を雷神として
信ずる思想が流布して、火雷天神の神号が捧げられた。公の非運が同情をそそり追惜の
念が高潮し、また古来の豊作を祈願する農耕民の雷神信仰と固く結合し、また雷除けの
信仰がここに寄せられた。その畏怖、慰霊が昂じて太政威徳天神となり、福岡県筑紫郡
の太宰府や京都北野に天満宮を造立していよいよ霊威を畏れ、世人は御霊会ゴリョウエを行
って慰霊した。
 
 時代が降るに連れて、その猛威がやや鎮静すると、神格は次第に円満になり、平安末
より人格神として文道の祖神となり、学に志す者に文章、詩歌の神徳を顕わし、また和
歌の神として鎌倉末には柿本人麻呂と共に、その肖像画を拝する風習が盛んになった。
この信仰は足利将軍家により代々北野社を中心に展開して全盛を極め、北野連歌法楽が
長く行われた。当時世上に流行した連歌は当然文学神と結合し、菅神は特に連歌を好む
と信ぜられ、連歌道の守護神へと発展した。
 救世クゼの観世音菩薩垂迹観スイジャクカンより、天神の慈悲の神格が導入されて観音信仰と
習合し、また、知恵を司る文殊への信仰と結合して文殊天神法楽も行われた。更に公の
神格を崇拝する中に神筆景仰の気運が醸成され、北野は弘法大師(空海)の後身、小野
道風は北野の後身と云う説があって、菅公は能書であると信ぜられるようになった。か
くて書道の神として菅神は一般民衆に浸透し、「天皇満書き(天神書き)」と云って、
寺子が特別に清書を奉納して一般の展観に供する風習が成立し、また「手とらべ」と云
って手の上がることを競い合った。
 
 また正直の徳を守る神とする信仰も早く発生し、至誠、正義の守護者として誓約の神、
冤罪エンザイを救う神とされ、起請文キショウモンに北野牛王宝印を用い、文中に特に天皇満大自
在天神の名号を挙げるのが普通である。また極楽往生をも擁護する神となったのは、欣
求ゴング浄土、正念往生の鎌倉期思想の反映である。
 天神講は鎌倉中頃から始まった天神礼賛の祭りを営む会式であるが、天神信仰の団体
を指す場合もある。
 南北朝期末には宋の無準禅師(1177〜1249)に参じ、衣鉢を受けたと云う説が行われ、
菅神の性格は幽遠神秘となり、神儒仏の合体した信仰に発展した。仙冠、道服に袋を帯
び、手に一枝の梅花を翳カザす立像の渡宋(渡唐とも)天神像が盛んに制作され、誌文
の題目ともされ、五山学僧はもとより一般にも流布して行った。
 王城鎮護の神として歴朝の篤い崇敬を請けて全国殆どの地に奉斎され、アマツカミの
天神より菅神信仰の盛行に便乗して転身し、天満宮(天神)となって祭神を菅公とした
天神社も少なくない。
 
 近世には一般庶民に寺子屋を中心として信仰が拡大し、『天神経』を読誦することも
行われた。また浄瑠璃の『天神記』(近松門左衛門作)、『天神御出記』(竹田出雲ら
作)、義太夫や歌舞伎で有名な『菅原伝授手習鑑』などが出現し、社会教化の上に大き
な影響を与えた。鎌倉初期の『北野天神縁起』は神徳の伝播を助け、それが次第に大衆
向きなものへと展開して行ったことにも注目される。
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