く 熊野神社
〈くまのじんじゃ〉
熊野神社
和歌山県の熊野三山を本宗として諸国に分祀された氏神・産土神で、北は北海道から南
は沖縄に及んでおり、その数は三千社をこえる。その中には本宮とは関係なく創祀され
たものもあるが、多くは平安期以降の熊野信仰の全国的な流布によって勧請分祀され、
或いは上代以来の祀職の後裔である熊野三黨が、宇井・鈴木・榎本エノモトの姓をもって諸国
に分布して熊野社を奉祀したのである。
歴朝中で最も熊野を信仰せられた後白河上皇の御分祀にかかる京都市東山区今熊野の
新熊野神社は、永禄元年(1161)二月の鎮斎である。
熊野三山
①熊野那智大社クマノナチタイシャ 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山に鎮座
式下社で旧官幣中社。那智権現と呼ばれ、紀伊国神名帳には熊野夫須美フスミ神社とあ
り、仁徳朝の創建と云う。祭神を熊野夫須美大神と云い、伊弉冉尊イザナミノミコトである。
「那智」は梵語から出たもので、捺地・難地とも書き、那提ナダイとも云い、「河」又は
「江」の意味であることからすると、天下に聞こえた那智滝が中心となった聖地である
ことが知られる。
那智山は、千古の密林に覆われ山中の水流集まって所々に潭フチをつくり、それはやが
て飛瀑となって、その大きなのが三所にあり、上のを三瀧、次を二瀧、最終のは高い岩
壁にかかり、これを一瀧と云い、高さ四十九丈、幅三丈五尺で、熊野の沖合からも望見
され、その荘厳神秘によって神格視せられたのは古い時代に遡るのであるが、修験道が
起こってこの滝場が世に聞こえ、飛瀧権現と呼ばれて特に滝本執行が置かれた。
那智山に神社の建立を見るのは本宮・新宮より遅れているが、この自然の大瀑布に対す
る信仰は古代から継続していたのであって、今日それが地主神として崇められているこ
とも往古の信仰を物語っている。
なお、那智の滝壷の水は延命長寿の霊薬と信ぜられ、白河法皇の熊野御幸の理由はこ
こにあったと云われており、御願文にもその由が見え、法皇は七十七才の長寿であった。
②熊野速玉大社クマノハヤタマタイシャ 和歌山県新宮市新宮に鎮座
熊野新宮と通称され、また新宮権現とも呼ばれた。式内大社で熊野早玉神社と称し、
元官幣大社。伊弉諾尊の御子速玉之男神を祀り、景行天皇五十八年の創始と云う。旧社
地の神倉山には天磐盾アマノイワタテと呼ばれる巨岩があり、これは神武紀に「到熊野神邑、且
登天磐盾、仍引軍漸進海中」とあるのに該当し、高倉下命の神庫の趾と伝え、摂社神倉
神社がある。新宮市は熊野川口にあり、熊野三党の根拠地であって、川上の本宮に対し
てここに新宮の創建をみたのである。明治以前には二十一度の火難に遭ったけれども、
熊野三社中最も多く社宝古文書を襲蔵している。三山は各独自の経済によって維持され
て来たが、権現の神威のもとに統一され、上首として三井寺派修験の相承者が検校とな
ったのは、白河法皇の熊野御幸の先導の任に当たった権大僧都増誉にはじまるが、全山
の管理者としては新宮から別当が選出されていた。中世以降三社は僧職によって支配さ
れるようになって、本宮が三昧別当・権少別当・通目代・正権寺主であり、那智が執行・在
庁・社壇承仕・瀧本執行と云う職制であったのに対して、新宮は在庁・禰宜・宮主ミヤジの神
職によって組織せられて古代の姓氏が祠職として命脈を保った。
③熊野本宮大社クマノホングウタイシャ 和歌山県東牟婁郡本宮町に鎮座
熊野本宮大社は熊野三山の根本宮で、式内の名神大社。旧官幣大社として熊野坐クマノニ
マス神社と称し、熊野本宮と通称したが、第二次世界大戦後は項目の社名に改称した。
神社考詳説に引く『古今皇代図説』には崇神朝六十五年の創祀と云う。熊野国造クニノ
ミヤツコの祭祀した古社で、祭神を家都美御子ケツミノミコと云い、素戔嗚尊とする。成務朝に国
々の境界を定めた時に、饒速日命ニギハヤビノミコトの五世孫にあたる大阿斗足尼オオアトノスクネが国
造を賜ったと云う国造本紀の所伝は、天孫本紀の物部系図や新撰姓氏録に、饒速日命の
孫味饒田命アヂニギタノミコトの後裔阿刀宿禰アトノスクネとあるのに合致している。これらの所伝
は、阿刀宿禰が熊野国造に任ぜられる以前から熊野一円の領主であったことを示すもの
である。阿刀宿禰の祖饒速日命は天孫火明命の別名で皇孫瓊瓊杵尊の兄に当たる。この
命の御子に天香語山命アマノカゴヤマノミコトと宇麻志麻治命ウマシマヂノミコトとがあって、前者は尾張
オワリ氏の祖となり、後者が物部モノノベ氏の祖となったので、阿刀宿禰は物部氏の系譜につ
ながっている。
天孫本紀や記紀の伝承によると、神武東征以前にはすでに天神の御子が大和国に天降
ったと云うことからすると、この熊野の地に住みついていた天孫系が祖先伝来の日神信
仰によって創立したのがこの本宮であったことが知られる。それで熊野の神使とされる
烏カラスが日神祭祀族のトーテムであることも、本宮祭神の始元が日神であったことを示し
ているばかりでなく、神武天皇が熊野神邑において天皇孫系の高倉下命タカクラジノミコトから
神剱を得られたことや、八咫烏ヤタガラスのみちびきによって大和を平定したとの伝承は、
もともと熊野国造家の伝えた神話であるが、熊野の神威とこの地の天皇孫系族の協力と
を物語っている。
本宮の社地は熊野川の上流音無里オトナシノサトにあるが、その河口に速玉ハヤタマ社が新宮とし
て鎮座するに至ったのは海上運輸に伸展したためであり、更に那智山の一社の建立を見
たのは大滝を飛瀧権現ヒロウゴンゲンとして神格化した修験道の信仰からであって、ここに三
社が鼎立することとなったが、本宮は三山の本宗として最も尊崇されたのである。
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