[詳細探訪]
 
              参考:(株)青木書店発行阿部義平氏著「蝦夷と倭人」
 
〈大湯オオユ環状列石のこと〉
 大湯環状列石(秋田県鹿角市)のことに関しての説明として一般には、「大湯環状列
石の一配石単位は、日時計などと呼ばれて、教科書の写真図版としてもよく採り上げら
れ、人々の目に触れて来た。しかしその解説では考古学者は、この特異な遺構を縄文文
化の内なるものとして十分に位置付けて説明することが出来なかった。墓なのか、石自
体や山岳の信仰の一端なのかなどの、考古学者自らの持つ疑問点に引かれた論争に精力
をやすが、停滞した狩猟採集経済段階とする生活との隙間ギャップには触れないか、説明
出来ないままであった。」と筆者の阿部義平氏は述べている。
 それでは、大湯環状列石の解明について、もっと詳細に探訪してみよう。  SYSOP
大湯環状列石
〈大湯環状列石の解明〉  環状列石の謎は、漸く我々の前に扉を開き始めている。縄文時代の特別史蹟である大 湯環状列石の発掘成果から見て行くことにしよう。遺跡は1931年に発見され、第二次世 界大戦後直ぐに当時の文化財保護委員会の調査を経ていたが、1984年以降に鹿角市教育 委員会による継続調査が進められ、遺跡が大幅に解明された。石を大量に運んで立て並 べた石造遺構としてだけでなく、その周囲の広大な範囲に各種の遺構が広がっており、 複雑な構成があったことが分かった。外部の人が集まる遺跡だったのであり、其処には 都市的空間や賑わいの萌芽的要素すらも垣間カイマ見られたものと考えられる。    北に十和田湖を控え、南に八幡平を望む、奥羽山系の山合いの鹿角盆地の中程に大湯 環状列石がある。大湯環状列石は発達した舌状台地上に、東西400m、南北600m程の範囲 を占めて営まれた遺跡で、その中核部には外径42m余と48m余の2基の大環状列石があり、 各々がまた二重円環をなしている。環状をなす石群をよく見ると、径1〜2m程度の範囲で 石を組み合わせた配石単位があり、それが集合しているものであることが分かる。遺構 は火山灰で覆われた下から掘り出され、日時計の形が示すように完存するものや混雑し た石群の状況などから、縄文時代にも既に配石の形が動かされ、崩れていた部分があっ たものとみられる。配石単位として復元してみると、東側の野中堂、西側の万座のそれ ぞれの大環状列石を合わせて200基を超す配石単位の集合としてみられる。その各小単位 の下には、大半の試掘例で楕円形の墓壙が伴うことが知られている。単位となる石組に は、日時計の形を始め、4本或いは5本の立石を持つものや、外縁に縁石を立て巡らして、 その内部には石を置くものなど、幾つかの型があることが分かった。配石全体が造られ たときのまま完存するものでない上に、研究者によっては小単位の型の分け方が異なる ので、大きくは立石を持つものと持たないものの二大別やその細別類型があることは確 実で、然も二つの大環状列石の間では類別は共通するのに、内側の環状部での在り方が 対照的に違っている点なども指摘されている。全体の配置が整ったのは最後の時期頃で あろうが、当初から計画的に二大二重円環の配置がなされたことも認められる。そのこ とから、二つの円環構造は相補うように、同時に共存して築かれて行ったと云う考えが 出始めている。2基の大円環は、中心から放射状に引いた線で配石単位の纏まりが切れ、 更に外部に延長する出入口かとみられる石列が、互いに逆方向を向いているのである。 内帯と外帯、2基の大円環の各々に葬られる人にどのような配置意図があったのか、ま た全ての配石単位が土壙=墓と結び付くのかなど、今後の調査に期待する点も多い。    また日時計型などの特定の類型の位置が、縄文人の宇宙観や天体観測、或いは季節の 認識を表現するとの見方もあるが、円環の中心に立って辺り見渡すと、全方向に配石単 位があり、日時計型も一つや二つではないので、特定方位の指向の追求よりも、まず二 重円環の墓地集合が、東西に2基あることや、周辺の解明から始めなければならない。  円環が分割出来ることや、その外側に施設があることを手がかりに、発掘では円環の 外側を掘り広げてみた。野中堂環状列石の外側では、小穴や袋状貯蔵穴があることが分 かったが、調査は未だ一部に限定されている。万座環状列石の周囲は広く調査され、各 種の遺構群が見付かった。環状列石の外環のすぐ外側に、6本の柱からなる掘立柱建物 が環状に取り巻いている。この建物は長軸方向に棟持柱風に柱位置が置かれる亀甲形の 平面で、平地式の建物とみられるが、柱以外の遺稿痕跡が未だ知られていない。近接し ていたり、また建て替えられたことも考えられるので、配石単位の纏まりと対応するよ うに、円環を幾つかに分ける形で取り巻いている。建物の長軸は、環の中心に直交して いることが共通して認められる。亀甲形の平地式建物と一部重複し、その外側にまで分 布範囲を広げて、4本柱の掘立柱建物が建てられていた。この建物も、環状の中心への 方向性がみられる。同じ範囲内に数例だけであるが、川原石を縁石状に並べた方形の配 石遺構があり、これが4本柱の建物が入る規模であることや分布域から見て、本来4本 柱の建物の外側には四角く縁石列が設けられたものである可能性が高いが、炉があった かどうかは明らかでないので、平地式の壁立ちの建物として、何れも復元されることと なる。    これらの環状構造に規制された遺構群の外側に、更に100m程の範囲に広がって、円形 の住居趾が散在している。これは柄鏡状に入口部に敷石を持ち、外周にも狭い一定幅の 敷石状の環帯を巡らしたもので、石組の炉を中央に持つものが見られる。内部に5本或 いは4本の掘立柱が設けられるが、4本の場合は柱間が不揃いで不整方形を示している。 炉や焼土があって、後に柱が確認され、周辺の縁石等が失われていたとみられる例もあ る。この柄鏡形の住居趾は、先の四角の建物より大きく、径10mを超す例までみられてい る。柄鏡形の建物の周囲に土壙墓が多く見られており、それには環状列石の円環の中心 に向かうような規則性は認められていない。柄鏡形の建物の周囲に、それを中心に墓が 営まれていたことを窺わせている。土壙墓の一部には、配石の痕跡が認められるものも あった。環状列石内と大差のない配石単位が広がっていた景観が復元されることとなる。 以上の平地式の建物や土壙墓の他に、出入口や地域の区切りを示すかとみられる石列が あり、台地の縁辺部では竪穴住居趾数棟、落とし穴、台地の小高い所に集中した袋状貯 蔵穴群なども見付かった。    野中堂と万座の2基の大環状列石が営まれた遺跡中心地に相対して、台地上で浅い谷 地形を挟んで、東北と西南に別の配石墓群があり、発掘調査された。東北方の一本木後 ロ地区では、43基の配石墓があって、石列を挟んで二分された横に長い墓域をなしてお り、甕棺墓も認められている。西南方の旧営林署跡地では、遺存していた7基の配石墓 と袋状貯蔵穴群が調査されたが、墓の全体配置は未だ判明していない。
[次へ進んで下さい]