19長年寺 鹿角市花輪字上花輪一三
鳳林山長年寺 曹洞宗通幻派
由 緒 中野氏(文政元年以降南部氏を称す)の菩提寺として、延宝二年同氏の花輪入
部とともに、もと長福寺城に建立された。加賀国金沢龍光山宗徳寺末、開山は宗徳寺四
世大陰恵全で、文亀二年九戸郡に長興寺を創建したのに始まるという。
当寺の古鐘は享保四年銘のもので、時鐘として有名。
明和四年(1767)鹿角三十三番観音霊場第六番札所。
田中庵(久保田) 長年寺末 延宝二年創建。
頓悟庵 長年寺末。
--------------------------------------------------------------------------
参考(出典):花輪まちづかいサポーター資料
鳳林山長年寺
開創 文亀二年(一五〇二)
開山 加賀・宗徳寺(弘前市)四世大陰慧全大和尚
開基 花輪南部氏始祖・中野康実(やすざね)(休庵知公大禅定門)
「寺伝」
南部御三家、花輪南部氏の香華院として建立されたもので、歴代の当主采地を転
ずるに随い寺もその処を移し号を替え今日に歴史を伝えるものである。
戦国時代、加賀宗徳寺(大正元年弘前市に移転)四世大陰慧全禅師、衆生済度の
為奥州九戸に到り、郡主九戸家の篤い帰依を蒙り、文亀二年(一五〇二)九戸村に
長興寺を開創。是が当山薙草の因縁なり。
天正九年(一五九一)五世岳翁林賀和尚の代、九戸家・南部家不和の間となり九戸
政実の乱が起る。豊臣中央軍の加勢を頂く南部軍の前に九戸城は落城、一族滅亡の
悲劇となる。茲に九戸舎弟康実君、幼少より南部家に仕え采地を西中野・東中野に受
けて中野吉兵衛康実を名のる。九戸の乱には恩義を順じ兄の暴挙を諌め開城に功を
為す。後に南部公厚く是を賞するも康実君受けず。代わりに兄政実公の遺骸を請い
長興寺に厚く葬る。又林賀和尚を伴い長興寺を采地郡山に移して其の冥福を祈らん
とするも、和尚是を辞し、代わりに弟子梅岩嶺雪長老を使わしむ。文禄二年(一五
九三)六世梅岩嶺雪和尚を請して寺を郡山に移し、号を長岩山と改め、自ら開基と
なり先祖霊供養の菩提処と為す。
中野氏三代元康君、采地を彦部に受けるとき長徳寺を菩提処と為す。
四代康敬君、南部藩鎮花輪城代となり、この時長岩寺・長徳寺の本尊仏・古法・経典
・法器・開基康実君の位牌を花輪に移し、十世雨外楚雲和尚を請して延宝二年(一六
七四)長年寺を建立す。
中野氏は一時花輪を離れるも寺は移る事なく現在に至り、又文政元年(一八一八)
藩命により南部姓と双鶴御紋使用となり、遠野南部・北家と共に南部御三家と称され
た。
明治以降は結縁の檀信帰崇和睦の菩提寺として護持興隆、長興寺に始まる法燈は
今日愈々増輝を見るものである。
--------------------------------------------------------------------------
[画像表示] [碑文]
[文化財 「YU10017 花輪南館の時鐘」]
[地図上の位置→]