08 森林の思考・砂漠の思考〈一神教の成立〉
 
             参考:日本放送出版協会発行「森林の思考・砂漠の思考」
 
△5000年前の乾燥化
 6000年前を中心とする湿潤な「高温期」は,5000年前に終わって,気温が低下し始め
ましたが,それに伴って湿った状況も終わりとなり,次第に乾燥して,3000年前頃まで
に,ほぼ現在見られる乾燥地帯がアフリカからアジアにかけて出現しました。
 その乾燥地帯の拡大の仕方に注目する必要があります。前述のように,湿った赤道西
風が北上することによって「高温期」の「緑のサハラ」が出現しましたので,乾燥地帯
の拡大は,赤道西風の南下によるものであることは理解されるでしょう。しかし,その
赤道西風の南下の仕方が,単純な平行後退ではないのです。サハラ付近の南下が最大で,
東へ行くにつれてその南下量は少なくなり,インド北部では,殆ど南下しなかったこと
に注目していただきたい。その結果,乾燥地はサハラで広く,東へ行くに従って狭くな
り,インド北西部で乾燥地帯は終わっています。
 
 これは,別の表現を執りますと,赤道西風と云うものが,現在では緯度と完全には平
行せず,エチオピアの付近から,インド北東部に向けて北東に向きを変えていると云う
ことを示しています。それはどうしてかと云いますと,インドの北部に世界で最も高い
ヒマラヤ山脈があり,その背後にも世界の屋根と云われるチベット高原が拡がっており,
大気の中に突き出したこの巨大な山塊が,夏に熱を吸収して,周囲の空気より温度が高
くなり,山塊に沿って盛んな上昇気流が起こるために,赤道西風が吸い寄せられるため
です。
 一方,ヒマラヤ・チベット山塊に沿って上昇した空気は,またどこかで地表まで下がり
ませんと,対流が完結しません。その山塊の上部では東寄りの風が卓越しており,下降
気流の起こっているのは,そのため西側になって,具体的には,サハラ付近で下降して
います。空気が下降すると云うことは,雲を作らないことで,それのよって乾燥すると
同時に,その下降気流は地面に下りた後は,四方に拡がらざるを得ませんので,その拡
がる力によって,赤道西風の北上を抑えており,それによってもサハラでは雨は降らず,
乾燥が続きます。
 
 サハラで,赤道西風が5000年前から南下を開始して砂漠が拡がったと云うことは,具
体的には,最近西アフリカで起こった旱魃の状況を思い出して下さい。1968年から1973
年までの6年間,赤道西風の北上は例年より少なく,その結果,北上の限界付近の諸地
方は,緯度に平行した方向に帯状に旱魃の被害を受けました。北上が少ないと云うこと
は,赤道西風の平均位置の南下と云うことです。草木は枯れ果て,人々は南へ水を求め
て移動して行きました。この旱魃の原因は明らかではありません。それ以前にも,矢張
り数年ずつの旱魃が何回か起こっており,自然のうちにある何らかの原因によるもので
しょう。これは,その数年が過ぎますと再び元に戻る短期的な現象ですが,そういう短
期的な変動を繰り返す一方,徐々に,一方的に,砂漠が拡大してきたと云うのが,ここ
で述べています,5000年前以降の乾燥化と云うことなのです。
 
△主神から唯一神へ
 湿潤な「高温期」を舞台として拡がった初期農耕は,人間の力を超える諸力を意識し,
ときに崇拝し,ときに呪術でそれに働きかける多神教の時代でしたが,多神教と云うの
は,人間の論理によりますと,抑も矛盾的存在です。現実的な現象として,火山の近く
の人々は火を恐れて神とし,川の近くの人は川の神を信じたのですが,一方,人間には,
あるものよりも他のものが勝っている,よい,強い,と云う判断が常にあります。一ケ
所に居る人間を取り巻く諸力,即ち諸神のうちの比較でもそうですが,特に生活空間が
拡大して,自分とは違う処の他の神の存在を知ったときに,神々の間の順位を決めるこ
とが,必然的に行わざるを得ません。こうして,神々のうちの主位を占めるもの,即ち
主神,或いは最高神が生まれざるを得ません。
 
 論理的に考えて,最高神から唯一神への移行は微妙です。最高と云う概念は,それ自
身,唯一のものです。他の神々も,結局はその最高神の力の許モトにあって動いていると
考えますと,それは事実上既に一神教と云うことになりましょう。
 多神教から唯一神教への移行は,このように人間の論理の生長だけからも起こり得ま
すが,実際にそれを起こさせたのは,5000年前以降進行した乾燥化による神々の脱落で
した。
 多神教の世界では,山川草木,日月旦辰,いろいろなものが神に成り得ます。草木が
繁茂し,多数の動物が棲息する湿潤地帯では,沢山の神々が考えられましたが,乾燥が
進むにつれて,森林が消滅し,草原が後退して行きますと,神々もまた消滅せざるを得
ないのでした。
 
 サハラでは,「高温期」には,高地には森林が茂り,低地には草原となっていました
が,乾燥が進行すると共に,それらはことごとく無くなって,一筋のナイル川と,灼熱
の太陽だけが残りました。そういう状況で,最高神が唯一神に移行するのは,あまりに
も当然と云うことになりましょう。面白いのは,その残った二つのものの順位です。初
めは,直接的に肥沃な土壌をもたらす川の神が重視されていましたが,その川の水位を
司るものが太陽であることが分かるにつれて,太陽神が優位となり,唯一神の位置に近
づいて行きました。
 
 こうして唯一神教に最も早く移行したのは,赤道西風の南下が最も顕著で,乾燥化が
最も激しかったサハラを流れるナイル川の辺ホトリでした。サハラ自身は,今でこそ若干の
人間の住居となっていますが,それは比較的新しいこと(後述)で,5000年前以降の乾
燥化は徐々に進行したいは云え,砂漠化した土地は,人間の全く進入することの出来な
い空間となってしまった訳で,「砂漠的人間」と云うのは,本稿の主題てもあるように
存在しても,「砂漠の人間」と云うのは,あり得ない存在でした。
 ただ砂漠の中を流れるナイル川の辺に生き残った人々が,初めて唯一神へ到達するこ
とが出来たのです。
 
△イスラエルの嵐の神
 ナイル川の辺ホトリが,世界最大の乾燥地帯の中央に位置しており,其処で唯一神への移
行が最初に行われたことを述べました。砂漠の中に人は住めませんでしたので,ナイル
川の辺の他に,唯一神に進行することの出来たのは,砂漠の縁辺部においてでした。
 
 砂漠の縁辺部は広範であり,その意味では唯一神へ移行する可能性も広範ですが,唯
一神への移行と云うことは,前述の通り,基本的には人間の論理の問題であり,従って,
その人間の論理がその時代としては最高に発展し得る処でなければならず,それは即ち
文明の先進地帯でなければなりません。5000年前と云うのは,いわゆる古代文明の発生
した時であり,その処は,広義でヨーロッパ,アジア,アフリカの三大陸の接する処で
した。古代文明の発祥の時と処については必ずしも本稿の主題ではありませんので,こ
こでは詳論を省きますが,一言にして云いますと,それも5000年前以降の赤道西風によ
る乾燥化によるのであり,拡大する砂漠に追われた避難民の人口圧を吸収して余剰労働
力を持った大河の辺と,それらの間の流通路上の要所がその「処(所)」でした。
 
 正確な時代は明らかではありませんが,恐らくエジプトにおける唯一神への移行に触
発され,それに引き続いて,狭い意味でのアジア大陸とアフリカ大陸の接する辺アタりに
遊牧の生活をしていたイスラエルの民が,明確な唯一神教への移行を示しました。
 其処でも,かつては多神教があって,主神が唯一神へ移行したのですが,甚だ興味深
いことには,エジプトでは太陽神が主神となったのに対して,イスラエルでは,嵐の神
が主神から唯一神に移行したのです。エジプトではナイル川によって生活しており,従
って川乃至川を司る太陽が主神になったのに対し,イスラエル人は,砂漠の縁辺部で生
活していたために,嵐の神が主神から唯一神に進んだのでした。砂漠の縁辺部で,イス
ラエルの民は,定着をしていたのではありません。驢馬ロバを利用して砂漠の縁辺部で,
僅かな草を追って移動し,その草を山羊や羊に食べさせてその乳を採り,定着の農耕民
と交易をしつつ,寄生と云う表現は適当ではないとしても,共生の生活を送っていまし
た(契約と云う概念が重要になったのは,そういう寄留的な生活のためで,それが現在
の欧米人の思考の中核になっています)。彼等にとって生活の根源は草であり,その草
を成育させるものは,嵐とともに遣って来る雨でした。嵐の神が唯一神の座に就くのは
当然の成り行きでした。
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