05b 修験道と山岳信仰
 
〈修験道〉
 古代の山岳信仰においては,山麓から数多くの祭祀遺跡が発掘されていることから判
るように,神霊の鎮まる山岳を里から拝し,その守護を祈ると云う形態が執られていま
した。山岳は神霊や魔物の住まう処として怖れられ,里人が其処に入ることは殆ど観ら
れませんでした。僅かに狩猟者などが山中に入って行くに過ぎなかったのです。こうし
た狩猟者の中には,熊野の千与定,立山の佐伯有頼,伯耆大山の依道などのように,山
の神の霊異に触れて宗教者となって山を開いた者もいました。やがて仏教の頭陀行や道
教の入山修行の影響を受けた宗教者や帰化人が山岳に入って修行するようになって行き
ました。彼等が修行した山岳は,一般の里人等からは,死霊,祖霊,邪霊,神々などの
鎮まる他界として捉えられ,人々の一生,年間の行事などに超自然的な影響を与えるも
のとして畏敬されていました。それ故こうした山岳で修行した宗教者が,山岳の霊威を
体得した宗教者として崇められたことは十分推測されるのです。
 奈良時代の山岳修行者は山中において法華経を誦し,陀羅尼を唱えて修行することに
よって,超自然力を獲得し,出峰後はその力を用いて呪術宗教的な活動をしました。尤
も彼等の大部分は半僧半俗の優婆塞・優婆夷で,当時の政府からは公認されない私度僧
でした。後に修験道の開祖に仮託された役小角エンノオヅヌにしても,こうした宗教者の一人
に過ぎませんでした。
 平安時代に入りますと最澄,空海によって山岳仏教が提唱され,比叡山,高野山など
の山岳寺院が修行道場として重視されました。天台・真言の密教僧等は,山岳に篭もっ
て厳しい修行に勤しんだのです。修行者は勿論,信者の間でも,山岳で修行すれば呪験
力を得,優れた密教僧に成り得るとの信仰が生み出されて行きました。山岳修行によっ
て験ゲンを修めた密教僧(験者)は,加持祈祷の効果が著しいと信じられました。験を修
めることが修験シュゲンと呼ばれ,験を修めた宗教者は修験者と呼ばれたのです。やがて全
国各地の山岳の寺社にも修験者が集まるようになって行きました。東北地方の羽黒山,
北陸地方の立山・白山,関東地方の富士山,大和地方(吉野)の金峰山,紀州の熊野,
伯耆の大山,四国の石槌山,豊前の彦山などはその代表的なものです。これらの諸山は,
独自の開山を持ち,それぞれの地域の修験者の拠点として栄えて行きました。中でも熊
野と白山は次第に勢力を伸ばし,全国各地に末社が勧請カンジョウされて行ったのです。
 平安時代には,中央に近い吉野の金峰山や熊野三山には皇族や貴族等も参詣するよう
になりました。藤原道長の御岳詣,宇多法皇を始め歴代の院や皇族,公家などの熊野詣
は特に有名です。こうした際,山中の道に詳しい修験者が参詣の先達を勤めたのです。
寛治四年(1090),白河上皇の熊野御幸の先達を勤めた園城寺の長吏増誉が,熊野三山
検校に任ぜられて以来,熊野三山検校職が園城寺長吏の兼職となり,その結果熊野関係
の修験者は,天台宗寺門派の園城寺に掌握されるようになって行きました。
 鎌倉時代末になりますと,園城寺の聖護院が熊野関係の修験者を統轄するようになり,
本山派と呼ばれる集団を作り上げて行きました。一方吉野の金峰山からは,大和の法隆
寺・東大寺・松尾寺,伊勢の世義寺などの近畿地方の諸寺院に依拠した修験者がその奥
の大峰山に入って行きました。これらの修験者は大峰山中の小笹を拠点にして,当山三
十六正大先達衆と云われる修験集団を形成して行くのです。
 室町時代末になりますと,聖護院を本寺とする本山派,醍醐の三宝院と結び付くよう
になった当山三十六正大先達衆の二つの修験集団は,峰入りを中心とした教義や儀礼を
次第に整えて行きました。また羽黒山,白山,彦山など地方の諸山も大きな勢力を持つ
ようになりました。こうして室町時代末に到って修験道は,一定の教義・儀礼・組織を
持つ教団として確立したのです。
 修験道の教義は,修行道場である山岳の宗教的意味付けや,峰入り修行による験力の
獲得に論理的根拠を与えるためのものでした。金峰山や熊野,更に羽黒山・白山・彦山
などの諸山の縁起が創られ,それぞれの起源,開山の伝承,山中の霊所などの説明が試
みられました。またこうした各山毎の個別的な説明とは別に,山岳を阿弥陀,観音,弥
勒などの浄土とするとか,地蔵や虚空蔵の霊地とするとの説明も生み出されました。中
でも山岳を金剛界,胎蔵界の曼陀羅と観たり,法華経二十八品を納めた霊地とするとの
説明は,特定の山岳に限らず,より広く用いられたのです。
 修験者は,本来仏性を持つ聖なる存在であるから,峰中において地獄・餓鬼・畜生・
修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏の十界に充当された,床堅(自己の仏性を悟る修
法)・懺悔・業秤(修行者を秤に架けてその業を測る)・水断・閼伽(水汲みの作法)
・相撲・延年・小木(護摩木の採集)・穀断・正潅頂の十種の修行をすれば成仏するこ
とができるのである,と云う思想も創られました。彼等は死を象徴する儀礼の後に峰中
に入り,十界修行をすれば仏として再生し得ると信じて修行に勤しんだのです。仏とし
ての能力 − 験力 − を獲得した修験者は,それを誇示するために出峰後は験競べ
をしました。尤も験競べには,火の操作能力や剣の階段を昇って天界に達することを示
す刃渡りなどのような奇術めいたものが多かった。
 神霊や魑魅魍魎が住むとされた山岳において修行し,全国各地を跋渉した修験者は,
不思議な呪験力を持つ宗教者として怖れられていました。多くの災厄が修験者の邪悪な
活動の所為セイにされました。逆に修験者の呪力に頼れば,除災招福,怨霊退散などの勝
れた効果をもたらし得ると信じられました。源平の争い,南北朝時代などの戦乱が相続
き,人々が不安におののいたとき,験力を看板にした修験者は宗教界のみでなく,政界
にも大きな影響を与えたのです。更に修験者は山中の地理に詳しく,敏捷であったこと
もあって武力集団としても重視されました。源義経が熊野水軍を,南朝が吉野の修験を,
戦国武将が間諜として修験者を用いたのは,こうした彼等の力に頼ろうとしたからなの
です。
 江戸時代に入りますと,江戸幕府は修験道法度を定め,全国の修験者を,聖護院の統
轄する本山派と,醍醐の三宝院が統轄する当山派に分属させ,両者を競合させる政策を
採りました。尤も羽黒派は東叡山に直属し,彦山も元禄九年には天台修験別本山として
独立しました。更に幕府は,修験者が各地に遊行することを禁じ,彼等を地域社会に定
住させようとしました。こうして村や町に定住した修験者は,それぞれの地域の人々に
よって崇拝されている山岳において修行したり,神社の別当となってその祭を主催する
などしました。また加持祈祷や符術などの種々の呪術宗教的な活動をしたのです。
 明治五年政府は,権現信仰を中心とし淫祠を与る修験道を廃止し,修験者を聖護院,
三宝院両本山所属のまま一括して天台・真言の僧侶としました。その際に還俗したり,
神官となった修験者も少なくありませんでした。例えば吉野修験は仏教寺院として存続
しましが,熊野・羽黒・英彦山などはその主力が神社になりました。また全国各地の修
験者が依拠した諸山の社寺においても,その殆どが神社に主導権に握られて行きました。
こうして教団としての修験道は姿を消したものの,近代を通じて修験道は民間の山岳信
仰と習合した形で存続し続けました。
 第二次大戦中には,皇民錬成運動の一齣ヒトコマとして修験道が再評価されました。大戦
終了後,旧本山派・当山派の修験集団,諸山に依拠した修験集団は,相続いて修験教団
として独立しました。また各地の諸山の社寺では,修験道の面影を伝える行事が盛大に
行われるようになりました。
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