120 菅家後草〈傷野大夫〉
 
                  参考:太宰府天満宮学業講社発行「菅家後草」
 
〈傷野大夫〉   −  野大夫ヤダイフを傷む
我今遠傷野大夫     我今遠く野大夫を傷む
不親不疎不門徒     親しからず、疎からず、門徒にもあらず
聞昔労農歎農廃     聞く、昔労農農の廃せんことを歎くと
詩人亦歎道荒蕪     詩人も亦歎く、道の荒蕪クワウブせんことを
沈思雖非入神妙     沈思と神妙に入るに非ずと雖も
如大夫者二三無     大夫の如き者は二三も無し
紀相公応煩劇務     紀キの相公ショウコウは応マサに劇務に煩はさるべし
自余時輩惣鴻儒     自余の時輩は惣て鴻儒コウジュ
況復真行草書勢     況んや復マタ真行草書の勢セイ
絶而不継痛哉乎     絶えて継がず、痛ましい哉乎カナ
 
 「野大夫」は大内記小野美材のこと。当時藤原を藤、大江を江、清原を清のように、
一字姓にして唐めいて呼ぶことが流行していた。「大夫」は五位の称。大内記は正六位
相当官だが、美材は従五位上に叙せられていた。彼は参議小野篁の孫、刑部大輔俊成の
子、本朝文粋、和漢朗詠集に彼の詩が散見する。また日本記略の寛平四年六月二十九日
の条に、「太政官の渤海国に賜ふ牒二通、一は左近少将藤原朝臣敏行をして之を書せし
め、一は文章得業生小野美材をして書かしむ」とあるによって、彼が能筆家であり名文
家であったことを知り得る。公とは年齢も階級も、相当の開きがあったが、公はこの新
人に大いに期待していたことが窺われる。
 
 遥かに大内記従五位上小野美材君の死を悼む。彼とは親しい間柄と云う訳でもなけれ
ば、自分の門人でもないのだが、傑出した詩人であったから、その死を悼むのである。
 昔、篤農の老人は農の衰えるのを見て慨嘆したとのことであるが、私は詩人だから、
詩道が衰微するのを見ては悲しまざるを得ない。
 かの野大夫は沈思を以て賦する型の詩人、係る肌合の詩人は神妙の域に達し得ないけ
れども、彼位卓越した詩人は、当代稀である。他に詩人を求めるなら紀長谷雄が居るけ
れども、彼は参議の職にあることゝて役目の忙しさに詩作の暇もあるまい。この外三善
清行・大蔵善行なども居るが、これらは詩人と呼ぶよりは寧ろ漢学者と云う方である。さ
れば野大夫を失ったことは、返す返す惜しまれる訳である。まして真書行書草書何れも
神技に入る能書に至っては、今後継承する者は出まい。
 今、この稀代の詩人にして能筆家、倏忽として去る。痛恨に堪えぬ次第である。
 
 祖父清公の頃から文章院を創建して門弟の教育に当たり、東の大江氏と並んで儒学の
宗家であつた菅家の当主として、流されてもなお斯の道のために休戚もするのである。
 「紀相公」は、当時参議であった紀長谷雄のこと。公の愛弟子であって、かつて公が
遣唐大使に任命された時、副使に彼を推したこともあった。この延喜二年正月二十六日
に参議に任ぜられていた。同門の三善清行は、長谷雄を無才の博士と呼んで悪声を放っ
たが、篤学敦厚の君子であった。後に中納言に進み、延喜十二年二月十日、六十八を以
て没した。なお、この菅家後草は、公が死するに先立ち、長谷雄に送ったものとされて
いる。
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