116 菅家後草〈歳日感慨〉
 
                  参考:太宰府天満宮学業講社発行「菅家後草」
 
 − 延喜二年 − 
 
〈歳日感慨〉 −  歳日の感慨
故人尋寺去     故人は寺を尋ねて去り
新歳突門来     新歳は門を突いて来る
鬢倍春初雪     鬢ビンは倍マず、春初の雪
心添臘後灰     心は添ふ、臘後ラウゴの灰
斎盤青葉菜     斎盤サイバンは青葉の菜
香案白花梅     香案は白花の梅
合掌観音念     合掌して観音を念ず
屠蘇不把盃     屠蘇盃を把トらず
 
 この五言律詩から延喜二年の作になる。
 
 こんなあばら屋にも新年はやって来たので、親しい者達は寺詣りにとて出て行った。
 「故人」とは、京から付いて来た老僕白太夫や門人味酒安行などを指している。
 私は独り留守居の所在なさに、鏡を執って姿を写して見ると、鬢の毛は春初の雪にも
増して白いので、あゝめっきり老フけたことだと侘びしくなり、旧年のまゝの火鉢の灰を
せゝりながら、滅入り込むのであった。
 「心は添ふ、臘後の灰」は実に巧みである。迎春の準備もせずに、新年を迎えたので
ある。前句に「新歳は門を突いて来る」と対照している。喪に服していると同じ気持ち
だから、準備もせぬのに、元日ともなれば、矢張り周囲が浮き浮きして来る。我が家に
も突如として訪れた気持ちである。
  − 古灰を掻き廻しながら部屋の中を眺めると、仏前の斎盤には青菜を供えているだ
け、香机には白い梅花を一輪挿しているだけ、お粗末なこと、勿体ない − 思わず合掌
して観音様を念じた。そして遂に、屠蘇の盃も手にしなかった。
 
 在京の頃は、元日には清涼殿の四方拝、大極殿の朝賀、紫宸殿での節会セチエ等に参列な
さるし、二日には自宅での大饗や臨時客が引きも切らなかったので、どんなに晴れがま
しく、賑やかであったろう。今は火鉢の埋火も冷え冷えである。何等の惨絶であろう。
 
 
〈梅花〉     −  梅花
宣風坊北新栽処     宣風坊センプウバウの北新たに栽ウうる処
仁寿殿西内宴時     仁寿殿ニンジュデンの西、内宴の時
人是同人梅異樹     人は是れ同人、梅は異樹
知花独笑我多悲     知る、花の独り我が悲多きを笑はんことを
 
 「宣風亭」は公が十八歳の時から住まわれた京の邸、既出の山陰亭に同じ意。この邸
内に公寵愛の梅と竹とがあったことも述べたが、「新たに栽うる処」とあるに拠れば、
恐らく昌泰元年に門弟の山口谷風に梅を植え替えさせた事を指すのであろう。
 「仁寿殿の西、内宴の時」。内宴は宮中で行われた御私宴の一つで、一月廿一日から
廿三日までの三日間、仁寿殿で催される。この時には文人も参集し、大臣奏上の題によ
って詩を賦す習わしである。公の時代には清涼殿で催されたことも屡々であった。内宴
に侍して賦した公の詩が、多く菅家文集中に見えるが、配流の前年昌泰三年(五十六歳
)の折のものだけを次に挙げよう。
 
  早春内宴に侍し、同じく香風詞を賦し、製に応ず
 香風は半ばは是れ殿中の香
 綺蘿キラより吹きて万方に及ぶ(綺蘿は綾絹)
 草樹魚虫、寒風解く
 如何んぞ七八鬢辺の霜
 
 あの宣風坊に山口谷風をして植えさせた梅に対しても、また早春仁寿殿の内宴に侍し、
屡々製に応じて詩を賦したあの御苑の梅に対しても、自分は常に悲しみの情を以て対し、
それを詩に詠んだのである。相手の梅は、その時その時で異なるが、詠むのは同じ自分
なのだから、梅花はさぞや、道真は悲しみ多き者よと笑っているだろうと。
 
 この詩は、ふと悲しみの絶えぬ自分の姿を反省されて、この性格は昔からのものであ
った、特に大好きな梅に対しては、よく悲しみの情をぶちまけた詩が多かったなあと想
い起こされて、詠まれたものであろう。
 
 この延喜二年の作からは、前年の作に窺われた憤怒の情は殆ど影を潜め、悲しみも激
越なものはなく、段々と悲しみに堪え、自己に打ち克って行かれる様が顕著である。
 
 
〈奉哭吏部王〉  −  吏部王リブオウを哭し奉る
配処蒼天最極西     配処は蒼天の最も極西
恩情未見限雲泥     恩情未だ雲泥に限られず
去年真跡多霑潤     去年の真跡多く霑潤テンジュンす
今日飛聞甚惨悽     今日の飛聞甚だ惨悽サンセイ
元老応無朝位立     元老応マサに朝位に立つこと無かるべし
林亭只有夜禽棲     林亭リンテイは只夜禽の棲む有らん
世間自此琴声絶     世間此より琴声絶つ
不独人啼鬼亦啼     独り人の啼くのみにあらず、鬼も亦啼かん
 
 「吏部王」とは式部卿本康親王のこと、日本紀略には、「延喜元年十二月十四日、一
品式部卿本康親王(仁明皇子)薨ず」とある。公と親交があり、時に慰問の手紙を頂い
たりしたことが、本詩によっても明らかである。
 
 私の配所は天の極西、雲煙万里を隔てているに拘わらず、親王様は忝なくも、御恩情
を垂れさせられることを忘れ給わず、去年も御親ら認められた御文を頂いたのであるが、
今それを取り出して拝見するに、なお墨痕潤い生命通えるが如くである。
 御痛ましいかな、その君忽焉として薨じさせ給うとの悲報に接す。
 再び邦家の元老として廟堂にお立ちになさることはなくなられたし、お邸林亭は、哀
愁に鎖され人淋しくなって、夜禽の棲処スミカとかるだろう。琴の名手親王にお離れして
は、哀悼の余り世間に音曲が絶えるのみならず、再び真正の弾琴者は出ないだろう。動
哭するのは生身の人間だけでなく、鬼だって哭くに違いない。
 
 「雲泥」は天地、遠くて隔てること。漢書に「雲に乗り泥を行き、棲宿同じからずと
雖も、西風有る毎に、何ぞ嘗て歎かざらん」とある。なお、「鬼」は死者の霊魂のこと
で、容貌の怖ろしい想像上の動物としたのは後世のことである。
 親王が琴の名手であられたことは、菅家文章中の次の詩でも明らかである。
 
  吏部王の琴を弾ずるを感ず、応制
 栄啓が後身吏部王
 七条の糸上に百愁忘る
 酒酣にして奏する莫れ蕭々の曲
 峡水松風惣て腸を断つ
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