103 菅家後草〈不出門〉
 
                  参考:太宰府天満宮学業講社発行「菅家後草」
 
〈不出門〉    −   不出門フシュツモン
一従謫落就柴荊     一たび謫落タクラクして柴荊サイケイに就きて従り
万死兢々跼蹐情     万死バンシ兢々キョウキョウたり跼蹐キョクセキの情
都府楼纔看瓦色     都府楼纔ワヅニに瓦色を看
観音寺只聴鐘声     観音寺只タダ鐘声を聴く
中懐好逐孤雲去     中懐チウクワイは好し、孤雲を逐うて去り
外物相逢満月迎     外物相逢ふに満月迎ふ
此地雖身無検繋     此の地身に検繋ケンケイ無しと雖も
何為寸歩出門行     何為ナンスれぞ寸歩門を出でて行かん
 
 この七言律詩は、後出の「九月十日」の詩と共に、最も有名である。公の崇高な大精
神がよく発露されている。恐らく謫居後四ケ月の六月頃の作である。
 
 一度至尊の勘気を蒙って流され、このいぶせき配所に移り来てからは、ひたすら恐懼
謹慎の日を送っている。されば程近い所だけれど、都府楼には未だ登って見たこともな
く、僅かに此処から屋根瓦を望むだけ、観音寺もたゞ鐘を聞くだけである。
 「跼蹐の情」は、天に跼セグクまり地に蹐ヌキアシするの情の約で、高い天をも恐れ厚い地
をも怖れるのは、心に懼れを抱いていて天地間の置所のない気持を言う。
 「都府楼」は太宰府楼。唐の大都督府の楼に当たる。
 「観音寺」は観世音寺。この寺は天智天皇が斉明天皇の追善のために建立を誓われ、
和銅二年、元明天皇が詔を出して造営を急がせられ、沙弥満誓マンゼイや玄坊等がこれの造
営に当たり、約四十年の日子を経て落慶した。天平宝字五年には戒壇院を設けて、西国
の僧尼の受戒の場所としたので、以来日本三戒壇の一として、寺勢はいよいよ振るった。
当時は金堂・講堂・法塔・四十二区の僧坊・八十四間の廻廊・宝蔵・鐘楼・経堂・食堂等の堂塔
を具え、結構目を驚かすものがあったと云われる。現今も残っている鐘は、祇園精舎
ギオンショウジャの鐘と称せられている。
 
 都府楼纔に瓦色を看
 観音寺只鐘声を聴く
 
は、白楽天の、
 
 遺愛寺の鐘は枕を欹ソバダてて聴き
 香爐峯の雪は簾を撥カカげて看る
 
を模したものだが、それより「まざまざに作らしめ給へりとこそ、昔の博士どもは申し
けれ」と、大鏡にも激賞している。朗詠にも入れられている名句である。
 次の二句は難解だが、前に続いて、静かな面持、穏やかな慈眼で、大空を眺めておら
れる公の姿を想像して欲しい。
  − あれ一筋の雲が流れている。流れながら、雲は伸びる縮みして、あれこれに形が
変わる。何処まで流れる雲かしら。
 その雲を眺めて、あゝ広いかな天、自由なるかな雲と、融通無碍ムゲの雲の心を羨まし
いと思われるのである。自分も努めて、あんな徳を養いたいと思われるのである。
 やがて宝満の山頂から満月が出た。温かい色丸い形、眺めていて心が温まる思いであ
る。偉大な抱擁力、測り知れぬ徳だと驚く。自分も、不満や愚痴は止めて、あの月のよ
うに、丸い温かい心で外物に接しようと思う。
  − そんなお気持だと推察する。
 そして、別に此処で窮屈な束縛を受けている訳ではないが、配流の身なれば、門外に
気晴らしに出るような我侭はせず、方三間のいぶせき住居に閉じ篭もって、ひたすら謹
慎し徳を養おうと言われるのである。
 謹勅にして忠誠な、公の崇高な大精神が、自ずから迸り出た詩である。
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