102b 菅家後草〈読楽天北窓三友詩〉
 
(三)
無酒無琴何物足     酒無く琴無く、何物か足れる
紫燕之雛黄雀児     紫燕シエンの雛スウ、黄雀カウジャクの児ジ
燕雀殊種遂生一     燕雀種を殊コトにして遂に一に生じ
雌雄擁護逓扶持     雌雄擁護ヨウゴして逓タガヒに扶持フヂす
馴狎焼香散華処     馴狎ジュンコウす、焼香散華の処
不違念仏読経時     違はず、念仏読経の時
感応不嫌又不厭     感応嫌はず、又厭はず
且知無害亦無機     且知る、害無く亦機キも無きことを
喃々嘖々如合語     喃々ナンナン嘖々サクサクとして合語するが如し
一虫一粒不致飢     一虫チウ一粒リウ飢を致さず
彼是微禽我儒者     彼は是れ微禽ビキン、我は儒者
而我不如彼多慈     而も我は彼の多慈なるに如かず
 
 続けて言う − 
 私には、白氏のように酒友と琴友とは居ないが、それに代わる友達がいない訳ではな
い。それは燕と雀とである。可愛い燕と雀の雛である。
 燕と雀は、種類こそ違うが大の仲良しで、同じ場所に巣を架けて雛を生み落とし、雌
雄の親鳥が、代わるがわる餌を啄み来て哺育する和やかさ、愛情深さ。
 その情景にじっと見入っておられる、公の小禽に対する愛情の深さも、おさおさ親鳥
に劣らない。従って、これらの小鳥が何をしようと、邪魔にも覚えぬ、叱る気もしない。
  − 彼等は、仏間で焼香散華している時にも、念仏読経の時にも、決まり切って仏間
に来て、飛び回る、囀サエズる。けるど、一向に礼拝の邪魔にもならねば、煩わしくもな
い。
 「感応」は、信仰の誠が神仏に感通することで、茲では、礼拝中に仏人一如の三昧境
に浸る境地を指している。
  − 彼等が囀る様は、丁度仲良くお喋りし合っているようだ。或いは虫を啄ツイバみ、
或いは穀類を拾うて、飢うることなき羨ましさ、飢えさせることなき親鳥の尊さ。自分
は人倫を以て立つ儒者ではあるが、子に対する慈愛は、今としてはこの小禽にさえ及ば
ない。悲しいことである。
 
 茲に至って、公が燕雀に対して親近感を催すのは、「われと来て遊べや親のない雀」
の、境遇が同じところから来る同情感からではなくして、それとは全く逆の、「断腸の
思い」から来るものであることが察せられる。
 
(四)
尚書右丞旧提印     尚書ショウショ右丞ウジョウ旧モと印インを提ぐ
吏部良中新著緋     吏部リブ良中リョウチュウ新に緋ヒを著ツく
侍中含香忽下殿     侍中ジチュウ香を含んで忽ち殿を下る
秀才翫筆尚垂帷     秀才筆を翫モテアソんで尚ほ帷トバリを垂る
自従勅使駈将去     勅使の駈け将モて去りし自従ヨり
父子一時五処離     父子一時に五処に離る
口不能言眼中血     口にモノイふ能はずして眼中には血あり
俯仰天神与地祇     俯仰フギョウす、天神と地祇チギと
東行西行雲眇々     東行トウコウ西行セイコウ雲クモ眇々ベウベウ
二月三月日遅々     二月ゲツ三月ゲツ日ヒ遅々チチ
重関警固知聞断     重関ヂウクワン警固ケイゴ知聞チブン断つ
草寝辛酸夢見稀     草寝ソウシン辛酸シンサンにして夢見ること稀なり
山河貌(之繞+貌)矣随行隔 山河貌(之繞+貌)ハルカなり、行くに随って隔たる
風景黯然在路移     風景黯然アンゼンとして路に在って移る
平到謫所誰与食     平らかに謫所タクショに到るとも誰か食を与へん
生及秋風定無衣     生きて秋風に及ばば定めて衣無からん
 
 前に続いて、今四人の子等と五所に別れ別れに流されて住み、自身の衣食さえも不如
意な身とて、鳥の親と子とが同じ巣に仲良く住む境遇を羨み、親鳥の慈愛を施し得ぬ身
の現状をたゞ泣くばかりであると述べている条クダリであるが、ここらで、公左遷の事情
を聊か説明して置こう。
 
 端的に言うと、公が筑紫に左遷された理由は、藤氏の専横のため即位の始めに御苦杯
を嘗めさせられた宇多天皇が、これを抑圧して朝権を恢復遊ばされようがために、「門
弟数百宛サナガら朝野に満つ」底の隠然たる勢力があり、加うるに謹直な人柄と熟達した
識見で、上下の信頼の厚い公を、頻シキりに登用遊ばされ、遂には関白の密旨さえ下され
たことに原因がある。即ち、宇多天皇の藤氏抑圧の御目的に、公が最も条件を具えてい
る大人物であったために、犠牲になられたと言えよう。
 
 我将に南海に風煙に飽かんとす
 更に妬ウラむ、他人の左遷を道イはんことを
 倩々ツラツラ憶ふに、憂を分つは祖業に非ず
 徘徊ハイカイす、孔聖コウセイ廟門ビョウモンの前
 
 この詩は、仁和二年正月、遠く讃岐の国守となって赴任する時の作である。式部少輔
を罷め祖業の文章博士にも放たれて、先祖に例のない地方官になったので、公には左遷
のように辛かった。「心神迷乱し鳴咽」の極みだと述べておられる。ところが、後四年、
再び帰ってからの昇進の華々しさは、また目覚むるばかりであった。これは全く宇多天
皇の御殊遇の賜物で、宇多天皇が公を知られたのは、阿衡アコウ事件からである。
 
 天皇は桓武天皇の皇孫班子女王の御腹である。藤氏専横の時代に、藤氏に縁のない御
身で皇位に即かれたこととて、摂政基経を嘉せられたのであろう、御即位と共に基経に
関白の宣旨を賜った。基経は当時の儀礼として一応辞したから、天皇は更に左大弁橘広
相ヒロミをして勅答を草せしめられたが、その文中に、「卿はいはゆる社稷シャショクの臣にし
て朕の臣にあらず。宜しく阿衡の任を以って卿の任と為すべし」の語があった。阿衡と
は殷(中国)の湯王が宰相伊尹を尊んで呼んだ語で、摂政関白と同義の唐名だが、摂関
よりはなお崇めた意味がある。ところが起草者の橘広相と予カネて犬猿の間柄であった藤
原佐世スケヨは、「阿衡は位であるから職掌はない。空位に過ぎぬ。」と誣シいたので、基
経は嚇怒した。「今は世に仕える身でないから」とて、厩の馬を切り放って市中を走ら
せ、役人が太政官の奏を持って来ても覧ない。為に万機は停滞して諸国諸司の政は皆行
われない。公卿も病と称して参朝しない。由々しい大事になった。結局、天皇はやむな
く重ねて関白の詔を下されて事件は落着したが、「綸言リンゲン汗のごとし」とか、一度出
たら還るべからざる詔を取消すのやむなきに至った天皇の御心中御憤懣は、察するに余
りがある。この時、世を挙げて基経におもねって阿衡を非とする中にあって、たゞ一人
凛然義を持し、文を送って情誼と利害を以って諌め、ために傲頑な基経を動かし、広相
の断罪を救ったのが、讃岐なる公その人であった。
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