3001 イスラム思想2
 
               イスラム思想
 
                      参考:大阪書籍発行「イスラム思想」
 
【イスラムの律法】
 
〈イスラム法と信仰〉
 イスラム思想においては,宗教とは心において信仰するだけではなく,日常生活にお
いて実践しなければ正しい救いに至ることが出来ない,と考えられています。このため,
イスラムに基づいてどのように生活し,実践したら来世において救われるかを探求する
宗教的にイスラム法学が高度に発達しました。そして,このイスラム法学(フィクフ)こそ
が,何よりもイスラム教徒の主要な関心事となったのでした。こうした彼等の倦むこと
なき努力と営みからイスラム法(シャリーア,又はシャルゥ)が生まれ,発達し,体系化され,最
後に固定化されるようになりました。
 まず第一に,イスラム法においては聖と俗を統合的に一体の体系として観る立場(タウ
ヒード)から,世俗的な領域を律する法と,宗教だけの法とを区分しない原則に立ちます。
ですから近代法のように,特定の宗教から離れたところに法律が成立すると云う考え方
は,イスラム法には本来ありません。しかし現実的には,イスラム世界の何処でも国家
が独り歩きをするようになっていますので,国家の法体系の再イスラム化が提起される
傾向にあります。
 第二に,法は,全てに主権を持つ神が定めて立法するもので,人間はその神の意志に
ひたすら添い従って行くだけと考えられ,神の前に自分の無力を告白するすることが信
者の務めとなります。そこにおいては被造物の人間の手には,立法権は原則的には認め
られません。
 第三に,法が神から一方的に人間に授けられたものとしますと,人間の祖アーダム(
アダム)以来の一連の預言者等の啓示の中に法が含まれており,それぞれ地上の民に授け
られて来たことになり,イスラムも同様に預言者マホメットに降ろされたコーランの啓
示に法が含まれていることになるのです。
 第四に,イスラム法は徹底した個人主義的な性格を持っています。信仰は神と信徒個
人の契約と考えられており,現世の報いである来世の天国には,法を正しく守って生活
を送った者が入り,反対に地獄には法に反して罪を犯した者が堕ちるのです。他人の罪
や全人類の罪を自分に引き受けると云う贖罪の観念はありません。他人の罪は他人が負
い,自分の罪は自分だけが追わなければならないと云う原則が明白なのです。
 第五に,イスラム教には原罪説と云う観念はありませんですが,人間は悪魔(シャイターン
)の誘惑に負けて誤りを犯しやすいもので,イスラム法と云う規範を心して守らなけれ
ば直ぐに堕落する,と考えます。こうした人間の弱さに対して,イスラム法が外的に存
在するようになっているのです。
 第六に,イスラム法は一方において宗教的救済に至る道になりますが,反面,それに
反する行為は単に犯罪であるだけでなく,宗教的・道徳的な罪として受け取られ,罪は
宗教に結び付けられるのです。
 このように,宗教と法は不可分であり,法を持たない人間は人間以下とみなされ,誤
りやすく救われないものと云うことになります(無神論者とは,宗教を持たないために
人間以下の生活しか出来ない劣った存在とみなされるのです)。
 これらの性格を持つ法観念がイスラム法にはある訳ですが,宗教の実践面に重点を置
く律法主義的宗教の姿を観ることが出来ると思います。そこにはユダヤ教に近い性質が
観られ,律法主義を超えたと云われるキリスト教の立場からは,イスラムも同じように
律法主義的な宗教であり,乗り超えられなければならない宗教のように感じられるかも
知れません。
 そこで,日常生活の実践を「何」に基づいて行ったら良いか,具体的に「何」に従い,
どの道を歩んで生活したならば確実に来世において救われることになるのか,その「何
」がイスラム法・シャリーア(砂漠において水場に至る道)なのです。
 
 「神の語」であるコーランの啓示と,「預言者の規範・模範」であるマホメットの模
範的言行を後世に伝えるハディースの二つの法源としてイスラム法を確立する方法が,
宗教共同体(学者の代表)の全体的合意(イジュマー)です。この合意の原則の成立こそが
イスラム法の形成と確立を意味します。
 イスラム法の学問は,信徒のどんな行為が神に嘉ヨミせられるのか,逆にどのような行
為がそうでないのかを巡って人知をを傾けて詮索するのに終始して来ました。こうして,
具体的な行為についての五段階範疇が教団の合意として出来上がりました。
 第一に,神に嘉せられる方のプラスの極は,宗教的義務・強制を伴う行為(ファルド,ワー
ジブ)であり,これを回避することは許されず,必ず実践しなければならないものです。
それは,コーランの中において明らかに人に命じられたことで,最も重要な礼拝などの
宗教的実践がこれに相当します。
 第二に,宗教的義務ではないが,実行した方が良い行為の範疇(マンドゥーブ)です。例
えば,コーランには明らかに命じられていませんが,マホメットの樹立した慣行と云わ
れる割礼(ハナフィー法学派,マーリキー法学派の場合)などが挙げられます。
 第三に,是非を問われない中間的範疇の行為があります。特別にはっきりと義務付け
られたり,禁止されてもいない行為(マバーフ,ハラール)で,例えば,煙草はコーランの時代
には無く,16世紀から始まったので,この範疇に入ります。
 第四はマイナス評定に近い行為で,しない方が良いが,はっきり禁止されていない行
為の範疇(マクルーフ)です。
 第五が,はっきりと禁止されたイスラム法に反する行為(ハラーム)で,いわば宗教的タ
ブー,又は不浄に相当します。これにはコーランにおいて禁じられている行為が入りま
す。これを破ることはイスラムに反することなので,宗教的罰を受けるのです。この中
には不信仰,不義,賭博,飲酒,豚を食べること,利子を取る行為,などが入ります。
 
 このようなイスラム法の規定においては,イスラム教徒の生活は何もかも律法でがん
じがらめに縛られて身動き出来ないかのように思われがちですが,必ずしもそうではあ
りません。イスラムの律法においては,義務と禁忌との両極が判然としており,両者に
無条件に従わなければならないのですが,それらに該当する特定の行為は限られた事柄
だけなのです。寧ろ実生活においては,これらのプラスとマイナスの両極に相当しない
中間的部分の方が多くを占めており,これらについては「勧められ」,又は「しない方
が良い」と云う是非の段階付けがあるとしても,この中間的部分は信徒の自由な判断や
常識に委ねられている,と云っても良いでしょう。
 イスラム法は一見厳格ではありますが,人間の本性と自由を肯定した性善説に立って
いるのです。例えば刑罰のハッド刑においては,信徒の人格ををまず尊重し,それに「
制約」(ハッド)を付けたと云う考え方です。ですから,権利ある自由民の男性成人信徒
の方が刑が重いのに対して,隷属する奴隷の方は刑は軽く,それだけ個人の判断の自由
と責任が尊重されます。ただし,コーランにおいての明言やマホメットの規範において
定められてしまっている事柄は,何時までも変わらずに守らなければならない,とする
宗教と云えるのです。こうして,イスラム教徒は出来るだけプラスに近い事に励み,マ
イナスに触れないように心掛けて生活しているのです。
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