12 仏教
 
〈修験道とは〉
 
                       参考:吉川弘文館発行「古事類苑」
 
〈修験道とは〉
修験道は一に修験宗と云ひ、また雑宗ザウシウとも云ふ。
修験とは修持得験の義にして、其の行者を修験者と呼び、また験者若しくは山伏とも称
せり。
役小角エンノヲヅヌを以て宗祖とす、小角、姓は賀茂、大和葛城の人なり、少くして敏悟博
学、兼て仏乗に通ず。遂に家を棄て葛城山に入り、岩窟に練行すること三十年、藤葛を
以て衣服となし、松果を以て食物に充て、孔雀明王の呪を持ち、呪術を以て称せらる。
文武天皇三年、讒を以て伊豆に配流せらる。
大宝元年放免せられて京師に還り、益々之を修行す。小角の徒弟遂に諸国に蔓延し、霊
地を開創し、或は大峯、葛城等に入りて、苦行を修め、其の風甚だ盛なりしが、年序を
経て漸くに衰たり。
 
然れども其の嗣法絶えず、宇多天皇の御宇、釈聖宝と云ふものあり、真言の徒なり。
博く諸宗に渉り、尤も修練を好む。
金峯の嶮径、役君の後、榛莽塞りて行路なし。
聖宝葛ルイを攀ぢて之を踏み開く。是より苦行の者再び此山に入る。是を当山派の祖と
なす(当山は大峯を謂ふ)。
 
堀河天皇の御宇、釈増誉と云ふものあり、天台の徒なり。園城寺行観僧正を師とし、得
度研学す。抖薮を愛し、聖跡を歴尋し、大峯葛城の嶮に修練し、其の名都鄙に高し。
寛治四年、後白河上皇、紀伊の熊野に御幸ありし時、増誉先達を奉仕す。其の賞により、
熊野三山検校職に補せらる。
此時に当て、小角の末徒諸国に散在せるもの、多く増誉の門下に属従す。是を本山派の
祖となす(本山は熊野山を云ふ)。
 
以来当山本山の二流、嗣法絶えず。
徳川幕府時代に至りては、当山派は聖護院を以て本山とし、本山派は三宝院を以て本山
とす。
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