71a 菅公に因む伝説
 
〈岩石の部〉
 
△腰掛石
 若宮の拝殿の脇に菅公が歌を詠んだとき、腰を掛けた菅公腰掛石がある。「大和の伝
説」奈良市手向山八幡の境内
 
 天満宮を休天神と云うが、この社の境内の菅公腰掛石は、道真公が園部の武部源蔵に
逢いに来て、此処で別れたたと云うが、そのとき腰を掛けられた石であり、本梅村西加
舎久保ケ原の判官畷に義経が一の谷攻略のとき此処を通ったと云い、其処にある送石は、
義経が腰掛けた石と伝えている。同じ郡の亀岡町の其家にも腰掛石がある。昔、藩主紀
伊守が、同家の庭先の松を見ようとして来られた時、腰を掛けられた石である。「丹波
の伝承」京都府南桑田郡千代川村小林
 
 この地に休天神と云うのがある。道真が左遷の途次、此処に休んだと云い、境内に菅
公腰掛石と云うのがある。「史蹟と伝説」兵庫県明石郡大蔵谷村(源明石市大蔵谷)
 
 かつて此処は入海であったが、菅公が此処に上陸し、この石に憩うたと云うので、菅
公腰掛石の名がある。今も年々神幸のとき神輿をこの石の上に置き奉ると云う。「遠賀
郡誌」福岡県遠賀郡浅木村(源遠賀町)
 
〈水の部〉
 
△歌の橋
 荏柄天神の前の橋を云う。渋川六郎兼守が実朝の罪を得て、十首の和歌を天神に献じ
て罪を許された。よってこの橋を架けて神徳を謝したと云う。「鎌倉攬勝考」神奈川県
鎌倉市
 
△硯水
 道真が筑紫に左遷せられると、その子女も各地に配流されたが、菅原村もその一つで、
道真の子女は父君の赦免を祈り、誓書して神明に奉ったとき、この水を使用したと云う。
「北甘楽郡史」群馬県北甘楽郡妙義町菅原村
 
△産湯水
 西洞院高辻北入にある。菅大臣社があって、昔、菅公の邸宅の跡と云い、また菅公産
湯の水と云うのがある。「史蹟と伝説」京都市下京通
 
〈祠堂の部〉
 
△孕天神
 孕ハラミ天神と云う社がある。子のない者はこの社に小石を持って来て祈ると、子を得る
と信ぜられている。「郷土研究四」静岡県小笠郡掛川町の辺(現掛川市)
 
△沓脱天神
 菅公左遷のとき、桜井浜に上陸して暫くこの郡に留まり、朝使勘責し、密かに左の沓
を脱いだまま、此処を立ち退きたまうと云うのでこの名がある。「伊予温故録」愛媛県
温泉郡久保田村(現久保田町)
 
△衣掛天神
 上木城の道の傍に衣掛天神の祠がある。菅公が太宰府へ行かれる途中、此処で衣を改
め、古い衣を脱いで石に掛けられたので、関守佐田某がこれを乞い承け、一首の歌と共
に保存していたのを、後人がその側に祠を建てたと云う。「筑前伝説集」福岡県筑紫郡
水城村(現太宰府市)
 
△綱敷天神
 菅公左遷のとき、この地の梅を見て樹下に船綱を敷いて賞せられた古跡と云う。摂津
須磨の東五町の処にもこれと殆ど同じ伝説がある。「史蹟と伝説」大阪市北野東町
 
 菅公が左遷のとき風波に遭い、この海岸に漂着されたので、村人が迎えて船の纜トモヅナ
を曲げて座を設け、菅公はその家に滞在して楫の柄を以て自像を造った。後、この像を
神体として此処に社を建てた。綱敷天満宮とも云っている。「愛媛県誌稿上」愛媛県越
智郡桜井村国分(現今治市)
 
 菅公が博多の浜に上陸されたとき、敷物がなかったので、白太夫は船の綱を巻いて公
の座りものとしたので、後年此処に綱輪天神を建てた。この宮は初め海辺にあったが、
慶長元年に今の処へ遷された。「筑前伝説集」福岡市下士居町

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