53 神話伝説に見る日本人の死生観
 
               参考:新人物往来社発行『日本「神話・伝説」総覧』
 
[神話伝説に見る日本人の死生観]
 
〈生死対決の神話と死の克服の神話〉
 記紀神話には、死の世界に関する二つの対照的な物語が伝えられています。一つは、
女神イザナミがわが国の島々を生んだ後、最後に生まれた火神に女陰ホトを焼かれて死ぬ
物語です。この話は地母神の死を主題テーマにしています。女陰は新しい生命が出現する入
口です。その意味でこの物語には、生と死の関係について問おうとする古代人(未開人
)の心が感じられます。
 男神イザナギは死んだ妻への想いに堪えかねて、死者の国を訪ねて行きます。現れた
女神は、「死の国の食物を口にした者は最早生の世界には戻れないが、あなたの愛に応
えたい、暫く待っていて欲しい」と言って奥に隠れます。待ちかねた男神は、火を灯し
て暗い奥を覗き込みます。妻の死体は腐敗して蛆虫ウジムシが集タカり、身体中に八つの雷神
が蠢ウゴメいていました。恐怖と驚きに捉えられた男神は、必死になって死の国から生の
国へ逃げ帰ろうとします。女神は恥辱を与えられたのを怒り、醜女シコメたちと共に追って
来ます。死の国と生の国の境にあるヨモツヒラサカまでやっと辿タドり着いたイザナギ
は、巨石を間にしてイザナミと問答します。イザナミは汝の国の人々を一日に千人殺す
と言い、イザナギは、それなら私は一日に千五百の新しい生命を生もうと答えます。
 
 この物語は、古代人が死を恐れ、暗黒と醜悪の心像イメージによって死の世界を捉えてい
たことをよく示しています。男神はこの後、水辺(川か海)で身を洗い浄めます。その
とき、一切の災厄の源泉であるマガツヒの神が出現します。しかし、汚れを清めること
によって、災厄を打ち消すナオビの神が生まれます。この話は古神道の禊ミソギ・祓いの
習俗の起源説話にされています。死は負マイナスの価値の最大の源泉であり、生は正プラスの
価値です。
 死を恐れるこのような心理は、わが国の古代人と限らず人間にとって普遍的な性質の
ものと思います。生の国と死の国を巨石(千引石チビキノイハ)で塞サエぎったことについて、
『古事記』は、『出雲風土記』に見える海辺の洞窟が、死の国への通路と言い伝えられ
ていた例を挙げています。古代人にとって死者の国は暗い世界でした。またこの物語は
神々を主人公としていますが、男神も女神も人間の心像イメージそのもので描かれており、
普通の人間以上のところは見られません。
 
 死の世界に関するもう一つの物語は、青年アシハラシコヲが地下の国(根堅洲国ネノカタス
クニ)のスサノヲ大神の許に至って数々の試練を受けた後、大神の娘スセリヒメを奪って
逃げ出し、ヨモツヒラ坂で大神から「大国主」と云う称号を与えられる話です。根堅洲
国とはスサノヲの母(イザナミ)の国、つまり死の国(黄泉国ヨモツクニ)です。スサノヲが
アシハラシコヲに大国主の称号を与えた場所はヨモツヒラ坂ですが、この場所はイザナ
ギ・イザナミが対決した前述の物語に出てくる、死の国と生の国の境界です。
 この物語の発端は、アシハラシコヲが兄たちから数々の試練や苦難を与えられるとこ
ろから始まっています。多くの研究(者)が指摘しているように、この話は古代(未開
)社会における成人儀礼イニシエーションの習俗を反映したものです。ただしアシハラシコヲは
その後に死の国まで送られ、大神の与える試練にも勝って、大神からスセリヒメを与え
られ、兄たちを征服して新しい国を造り、宮殿を建ててその国の王になるよう命じられ
ます。この話は、古代社会における王(首長)の即位儀礼に関する伝承を示したものと
解釈されています。ここではスサノヲは「大神」と呼ばれ、単なる死の国の住人に留ま
らず、いわば霊格の高い神聖な存在と見なされています。アシハラシコヲはスセリヒメ
と共に、大神の手許にあった大刀・弓矢及び琴(天詔琴アメノノリゴト)を持ち帰ります。こ
れらの道具は王の精神的権威を象徴するものですが、中でも琴は、古代の巫女が神憑り
(憑霊)の状態に入るときの道具です。「天詔琴」と云う名前には、神霊の言葉を告げ
る、と云う意味が篭められていると思います。スセリヒメは大神の娘とされており、神
と特別な繋がりを持つ巫女シャーマン的女性です。アシハラシコヲは彼女を正妻とすることに
よって、死者の国の大神の霊的加護を得て、政治的君主としての権力を樹立します。『
魏志倭人伝』が伝える邪馬台国では、神霊と通じる女王卑弥呼の精神的権威によって政
治秩序が保たれていたと云います。王としての大国主の支配権の根拠は、彼が死の国の
力を我がものとし、其処に由来する霊的な力を生の世界と結び付け得たところにありま
す。
 この第二の物語では、死者の国は第一の物語に見えるような、単なる恐怖と嫌悪の対
象ではありません。霊的世界には通常の死者の霊とは区別される霊格の高い神聖な存在
(大神)があり、生者はその加護を得ることによって、権威と力を備えことが出来る、
と云う考え方が見られます。
[次へ進んで下さい]