10 [海幸・山幸]
 
「この釣り針を兄の命ミコトにお返しになるとき、是非とも次のように仰って頂きたいので
す。
  『この釣り針は、
   おぼち、
   すすち、
   まぢち、
   うるち。』
 こう唱えられてから、後ろ向きになってお渡しになるのです。
   おぼちは、ぼんやりばり
   すすちは、あわてばり
   まぢちは、びんぼうばり
   うるちは、おろかばり
と、昔から海の国では言い慣らされて参りました。
 それから、兄の命が高い処の高田タカダを作られたならば、あなた様は低い処の下田シモ
ダをお作りなさい。また反対に兄の命が下田を作られたら、今度はあなた様の方は高田
を作られると良いのです。
 そうなされますと、私は水のことを取り締まっておりますので、兄の命の田には、水
を送らないようにすることが出来るのです。こうして三年経つと、兄の命はすっかり貧
乏になってしまわれるでしょう。
 もし、そんなことになったことを恨みに思って、戦いを仕掛け攻め込んで来ましたな
らば、ここにあります塩盈珠シホミツタマを取り出して向かわれれば良いのです。この玉の魔
法の力で、相手は、立ちどころに溺れてしまうでしょう。
 そのとき、もし兄の命が、嘆き悲しんで謝って来たならば、今度は、こちらの塩乾珠
シホヒルタマを使って水を引き、お助けなされると良いのです。
 こんな風にして、散々悩まし苦しめてお遣りになるとよろしゅうございます。」
 
 こう言って、綿津見神は、塩盈珠、塩乾珠を合わせて二つ、火遠理命に差し上げまし
た。
「ありがたく頂きます。長い間お世話になり、姫とお別れするのも辛ろうございますが、
・・・・・・。」
 命ミコトは、後の言葉を詰まらせました。
「いやいや、姫のことより、あなた様には、釣り針を返すと云う、大事なお役目がござ
います。それでは、早速にも国中の和邇魚ワニを呼び集めて、お送り申し上げる手立てを
調えましょう。」
 綿津見神の命令一下、和邇魚たちは吾れ先にと押し合い圧ヘシ合い、宮殿前にずらりと
並びました。
「よくぞ、早く揃ったな。ところで、これから天津日子の御子であられる虚空津日高様
が、地の上の葦原の中つ国にお帰りになられることになった。そこで、お送り役を誰に
決めるかだが − 。まず、誰が、何日がかりでお送りして、無事お届けしたことを、
私に知らせるか、聞くとしよう。」
 綿津見神に尋ねられますと、和邇魚たちは、長いものも短いものも、それぞれ自分の
身の丈を基にして、日数の計算を始めました。
 和邇たちは、出来たものが次々と日数を報告して来ます。
 と、そのうち、一尋和邇ヒトヒロワニが得意気に前に出て、
「私奴に仰せ付け頂ければ、一日のうちにお送りして帰って参ります。」
と、声高らかに申し上げました。
 それを聞きますと、身の丈を基にして、五日と数えた五尋和邇などは、とても適わな
いとし、尻尾シッポを巻いて押し黙ってしまいました。
 こうなりますと文句無しに、一尋和邇が選ばれることになりました。
 
「それでは、お前が虚空津日高の火遠理命様をお送り申すのだぞ。どんなことがあって
も、海の中を渡って行く途中、御子に怖ろしい思いをおさせするようなことがないよう
に、十分気を付けて参れよ。」
「はっ、ご心配ご無用でございます。」
 胸を張って海の大神の綿津見神に答えた一尋和邇は、命ミコトの側に横たわって申し上げ
ました。
「どうぞ、私の首の上にしっかり掴まってお乗り下さい。」
 こうして、俄な別れを惜しみながら、火遠理命は、海の国を後にしました。一尋和邇
は約束通り、その日のうちに地の国の海辺に着きました。
「いやはや、お前の泳ぎの達者なのには、全く感心した。苦労を掛けたな。」
 命は、和邇ワニの労を労いますと、腰に差していた紐の付いた小刀を抜き出して、その
首に巻き付け、海の国へお返しになりました。
 そこで、この一尋和邇は今でも佐比持神サヒモチノカミと云われ、その名を知られています。
 
 さて、元の国に戻られた山幸彦の火遠理命は、海幸彦の許へと急ぎました。
 ひょっこり帰って来た弟の元気な姿に驚いている間に、火遠理命はあの海の神綿津見
神に教えられた通り、間違いなく、
  『この釣り針は、
   おぼち、
   すすち、
   まぢち、
   うるち。』
と、呪文を唱え、後ろ向きになったまま、釣り針を渡してしまわれました。
 元の釣り針を返して貰って喜んだのも束の間、それからの海幸彦の火照命ホデリノミコトは、
何を遣っても旨く行かず、愈々貧しい暮らし振りに落ちぶれてしまいます。
 遂には、気持ちまで荒スサびに荒び、事毎に火遠理命ホヲリノミコトに敵対して攻め寄せて来ま
した。
 すると、塩盈珠が、攻め立てて来る火照命を瞬く間に溺れさせ、命からがら助けを求
めて来れば、塩乾珠が活躍して救い出して遣ります。
 こうして、幾度となく悩まされ、苦しめられましたので、流石に執念深い兄の火照命
も、とうとう頭を下げて、降伏を願い出て来ました。
「最早、私の敵ではない。これから後は、そなたを昼となく夜となくお守り申し上げる
者として、心からお仕え致します。」
「それならば一本の釣り針のために苦しめられて来た、これまでの辛い思いは、一切忘
れて、許すことにしよう。」
 こうして、海幸彦、山幸彦の兄弟の長い年月に亘った仲違いに終止符が打たれました。
 このことがあってから、今に至るまで、火照命の子孫は、あの溺れたときの、もの狂
わしい程の仕種を採り入れた舞を奉納して、宮廷にお仕えしているのです。

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