10a [海幸・山幸]
 
〈海の中の宮殿〉
 
 弟の火遠理命ホヲリノミコトは、すごすごと兄神の許を去ると、かなしみに暮れて、宛てどな
く海辺を彷サマヨっていました。
 すると、後ろからひたひたと砂を踏む足音が近付いて来ました。
「もし、前を行く若いお方。」
 声を掛けられ、火遠理命が振り向きますと、其処には顎髭アゴヒゲを永く垂らした年寄
りの神が立っています。
 すると、年寄りの神は、既に日の御子であることを見抜いて深く一例すると、言葉優
しく尋ねられました。
「おう、あなたは虚空津日高ソラツヒコ様ではございませぬか。私は、この海の潮を司ってお
ります塩椎神シホツチノカミと申す者でございます。
 ところで、何か酷くお悲しみのご様子、いかがなされたのですか。訳をお話下さされ
ば、出来る限りお力になりましょう。」
 
 山幸彦の天津日子アマツヒコは、虚空津日高とも呼ばれていました。
 そこで、火遠理命はさっと涙を振り払って打ち明けました。
「私は、兄の海幸彦にお願いして、私の弓矢と、釣り針を取り替えて頂いたのです。私
は喜んで、兄の釣り針を持って海に出たものの、慣れないことで、魚は一匹も掛からず、
その挙げ句、とうとう大事な針を海の中に失くしてしまいました。無理に私がせがんで
借りたもの、どうしても返せと兄に責め立てられ、私は、自分の大切な刀を潰し、五百
本、更に千本もの釣り針を作って弁償しようとしましたが、受け取って貰えず、あくま
で、
『元の、あの釣り針でなくてはだめだ。』
と言われ、困り果てて、ただ嘆き悲しんでいるところなのです。」
「それはそれは、お気の毒なこと。それでは、私が一つあなた様のために、これからど
うしたら良いか、良いことをお教え致しましょう。」
 こう言って、塩椎神は、竹でびっしり編んだ、隙間のない小船を造り、
「さあ、この無間勝間マナシカツマの小船にお乗り下さい。私が、この舟を押し流して上げま
すから、やや暫くの間、そのままお進みになるとよろしゅうございます。必ず、良い潮
の路ミチが見付かります。
 そこで、その潮路を乗り切って行きますと、やがて魚の鱗ウロコのような形をして、並び
立っている光り輝く宮殿が見えて参ります。それが、綿津見神ワタツミノカミの宮殿でございま
す。
 さあ、宮の御門にお着きになりましたならば、側に湧き出ている泉の上に、見るから
に神聖な桂カツラの木が茂っていることにお気付きになるでしょう。その木の上に登って、
じっとお座りになっていらっしゃれば、海の神の娘が、あなた様を見つけて、きっと御
相談に乗って下さる筈です。」
と、詳しく教えて呉れました。
(とにかく、これで分からずやの兄神の目の届かない処に行けるのだな。)
 火遠理命は喜んで、塩椎神に教えられるままに船出をしました。
 
 すると、全くその通りになり、やがて、あの桂の木に登って、じっと待ち構える身に
なりました。
 目を凝らしていますと、間もなく茂みの下に若い女の影が揺らぎました。そっと茂み
を分けて見ますと、素晴らしい器を抱えています。海の神の娘である豊玉比売命トヨタマビメ
ノミコトの侍女に違いありませんでした。
(多分水を汲みに来たのだな。)
 命ミコトが、木の上で息を顰ヒソめていることなど知らず、侍女はさりげなく水を汲もうと
しました。と、
「あらっ!」
 侍女は、驚いて声を立てながらも、澄んだ泉の底に引き付けられました。
「どなたか、お顔が・・・・・・。」
 泉の水面には、一際輝くばかりの若者の姿が映っていました。
 侍女が、はっとして振り仰いで見ますと、美しい若者が、にこやかに微笑を投げ掛け
て来ましたので、何とも不思議な気持ちになりました。
 
「どなた様でしょうか。」
 桂の木の上の火遠理命は、侍女の問いには答えず、
「いや、それよりも、まず、泉の水を頂きたいものよ。」
と、申し出されました。
「はい、それではどうぞ。」
 侍女は、直ぐに水を汲み上げますと、あの見事な器に入れて、恭しく差し上げました。
 ところが、火遠理命は、何を思われたものか、泉の水はお飲みにならず、ご自身の首
飾りの玉を緒から外され、ゆっくり口に含まれると、その見事な器の中に吐き出されま
した。
 すると、魔法を掛けるれたように、玉はぴたりと器に付いてしまって、侍女が幾ら手
を掛けても、引き離すことが出来ませんでした。
「困ったわ。どうしたことでしょう。」
 侍女は、妖しく胸を震わせながら宮殿に戻り、玉の付いたままの水の器を、豊玉比売
命に差し上げました。
 
 豊玉比売命は、早速玉に気付かれ、水汲みの侍女にお尋ねになります。
 「もしや、どなた様か、御門の外にお出でになられたのではないの。」
「はい、若々しい男の方が、泉の側に茂っている、あの桂の木に登って、お座りになっ
ていらっしゃいました。大変美しいお方でございます。この宮殿を治められている海の
神様より、一層尊いお方のようにお見受けしました。
 それで、水をご所望ショモウになられましたので、汲み立ての水を差し上げましたところ、
水はお飲みにならずに、この玉を口に含んでから、器の中に吐き入れになって戻された
のです。玉は、幾ら手を掛けても離れません。ですから、玉を付けたままを持ち帰り、
差し上げるほかなかったのでございます。」
「ほっ、これは、真に不思議なことよ。では、美しいお方が、どのようなお姿か、私の
目で確かめさせていただきましょうか。」
 
 侍女に案内された豊玉比売命は、内心浮き浮きとして、泉の辺ホトリに歩み寄りました。
桂の木の上の火遠理命と、見上げる豊玉比売命の視線は、一瞬ぴたっと結ばれました。
(何と美しいお方・・・・・・)
 姫の声にならない言葉が通じて、命ミコトのこぼれるような微笑が返って来ます。嬉しい
沈黙の交歓の中で、姫の胸は次第に高鳴ってきました。
「ほんに、暫くの間お待ちなさりませ。」
 豊玉比売命は、やっとそれだけ言うと、御殿に駆け戻り、息を弾ませて、綿津見神ワタ
ツミノカミである父の海の神に知らせました。
「ほう、大分お気に入りのようだが、はて、どなたであろう。迎えてみよう。」
 海の神が出掛けて行きますと、火遠理命も桂の木から下りて、静かに泉の辺にお立ち
になっています。
 と、海の神は、逸早くその美しい若者のご身分を覚られました。
「これは、これは − 。」
 丁寧に一礼した海の神は、傍らに付き従って来た豊玉比売命に向かって言いました。
「このお方は、天津日子アマツヒコの御子であられる虚空津日高ソラツヒコ様ですぞ」
「まあ・・・・・・」
 姫は、俄ニハカに頬を染めます。恐れ多い気持ちなど更に忘れて、一段と麗しい命ミコトの
お姿に見入りました。
 
「さ、さ。御殿の中へ参りましょう。」
 海の神の先導で、眩マバユいばかりに磨かれた宮殿の奥に入ります。
 早速広い御殿中がひっくり返ったような大騒ぎ。火遠理命をお迎えする準備が、賑や
かに進められました。
 葦鹿アシカの皮の敷物を何枚も敷き、その上に絹の敷物を折り重ねます。
「どうぞ、この上にお座りになって下さい。」
 海の神に導かれ、火遠理命がお座りになると、その前に、沢山の結納の品々が山と積
まれます。飛び切りのご馳走が並びます。
 こうして、とんとん拍子に、火遠理命と豊玉比売命の盛大な結婚式が行われました。
 目出度く豊玉比売命と結ばれた火遠理命は、このときから三年の間、海の神の国で、
来る日も来る日も幸せに、楽しく暮らして来ました。
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