02 「修理固成シュリコセイ」とは
 
 古事記天地初発の段のあとを承けて、天つ神諸々の命もちて、伊邪那岐命・伊邪那美命
二柱の神に、「是のただよへる国を修理固成せよ」と詔りして、天の沼矛ヌホコを賜いて言
コト依さしされた、と云う条に見える言葉である。本居宣長は古事記伝においてこれを「
ツクリカタメナセ」と読むが、他に「オサメカタメニセ」と読む本もある。宣長のそれ
は神産巣日神カミムスビノカミの少名毘古名神スクナビコナノカミに対して「葦原色許男命アシハラシコヲノミコト
と兄弟アニオトとなりて其の国を作堅ツクリカタめよ」と云う事があり、また其の二柱の神が相並
びて「此の国を作り堅む」との記事から考えついた読み方であろうが、いづれにせよこ
の「修理固成」は、古事記初段の「国稚く浮かべる脂の如く」云々を承け、且つは日本
書紀冒頭の「渾沌コントン」乃至は洲壌クニツチの「浮漂ウカビタダヨフ」と云うに対応する考えであ
る。事物は、その本源に於ては漂えるものであるにしても、その漂えるがまゝでは、事
物にはいつまでもなるべくもない。それを事物にまで形成するところに、歴史の営みが
ある。およそ人間の努力は、大なり小なり渾沌を形勢にまで導くところにあるのであっ
て、こう云う関係は人が行為し決断しようとするときには、あらゆる時代を通じて体験
せしめられる事実である。渾沌乃至は浮漂と云われるものを眼前に見ると云うのは、つ
まりそれだけ人の行為や意志が、真摯であると云うことを表すものである。このように
考えてくるときは、この修理固成と云う観念が、高い次元の歴史意識乃至は歴史認識を
反映するものであり、これを神皇正統記は「天地の始は今日を始とする理あり」と云う
言葉で表し、慈遍は「神代今にあり、往昔と言ふなかれ」と云い、庶民の感覚では「元
日や神代のことも思はるる」と云うのである。この修理固成の仕方として、国土その他
を生んだと云うことは、注目すべき考え方であり、自然界の事物と人間との一体感をこ
ゝに見るべく、日本書紀による国土草木八百万の神を生み畢えた後、いかに天下の主(
王キミ)を生まざらんやと天照大御神を生み、「功コト既に至り徳イキホヒ亦マタ大オホキ」なるとこ
ろから、天に登って報命カヘリゴトをしたと云う。即ち天下の主なる者を生むと云う一事を
以て、修理固成の復命が出来たと云うのであって、天下の主は神の言として出現せるも
の、人のさかしらによって出来たものではないと云うのである。主の無い処の天下は天
下でなく、天下は神の心に存し神の行為と意志により 実にせられるものがあるとする
ところ、わが国の道が存するのだとする考え方をば、こゝに見るのである。修理と云う
語意は「おさめ整える」という意と「つくろいなほす」と云う二つの意がある。また「
修理固成」という語の解釈も、「つくろい固めて完成せよ」(古典文学体系)とするも
のと、「作り固め成し終へよ」とする解釈があるが、古事記の「修理固成是多陀用幣流
之国」と云う文意からして、宣長が述べられているように「作り固め成し竟えよ」と解
釈することが妥当であろう。「作る」は「創造」という意ではなく、「多陀用幣流タダヨ
ヘル」ものを一つにつくり固める、と云う意であり、このことは『古事記伝』にも詳述さ
れている。[参考:堀書店発行『神道辞典』]
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