0603東山桜荘子
 
                    参考:小学館発行「万有百科大事典」ほか
 
〈東山桜荘子ヒガシヤマサクラソウシ〉
「桜」
 バラ科サクラ属の落葉高木又は低木の一部の総称。同属でもウメ・モモ・アンズなどを
除く。中国大陸・ヒマラヤにも数種あるが、わが国に最も種類が多い。園芸品種が非常に
多く、春に白色・淡紅色から濃紅色の花を開く。八重咲きの品種もある。古来、花王と称
せられ、わが国の国花とし、古くは「花」と云えば桜を指した。材は均質で器具材・造船
材などとし、また、古来、版木に最適とされる。樹皮は咳止薬(桜皮仁)に用いるほか
曲物マゲモノなどに作り、花の塩漬は桜湯、葉の塩漬は桜餅に使用。また桜桃オウトウの果実は
食用にする。ヤマザクラ・ソメイヨシノ・サトザクラ・ヒガンザクラなどが普通。
 
「東山桜荘子」
 歌舞伎脚本。三世瀬川如皐ジョコウ作。時代世話物。七幕。嘉永四年(1851)八月江戸中
村座で四世市川小団次等により初演。佐倉宗五郎の名で知られる義人木内宗吾キウチソウゴの
事跡を脚色。東山時代を背景に、柳亭種彦の『田舎源氏』を絡ませ、宗吾を浅倉当吾
トウゴ、堀田上野介コウズケノスケ正信マサノブを織越政知オリコシマサトモの名で劇化した作だが、文久元
年(1861)河竹黙阿弥が『桜荘子後日文談ゴニチノブンダン』の名題で『田舎源氏』の筋を抜
いて補訂、その後、名題は種々変わったが、役名は実名通りに改まり、明治期以後は『
佐倉義民伝』の名題にほぼ定着して今日に至っている。
 
 下総佐倉の農民は領主堀田上野介の暴政に苦しみ、名主木内宗吾はこれを救うため、
江戸屋敷に門訴をしても不成功に終わったので、遂に将軍家へ直訴を決意する。宗吾は
一度国へ帰り、役人の監視厳しい印旛沼インバヌマを渡し守甚兵衛の助けで渡って、妻子に
会い、名残を惜しんでから再び江戸へ上り、将軍が上野寛永寺へ参詣の折に直訴する。
願いは老中松平伊豆守の口添えで叶えられたが、怒った上野介は宗吾を妻子諸共磔ハリツケ
の刑に処する。宗吾の伯父仏光寺ブッコウジの光然コウゼンは、せめてもと子供達の助命を祈
ったが叶わず、悲憤の末に印旛沼へ身を沈める。上野介は宗吾一家の亡霊に悩まされ、
遂に堀田家は滅びる。
 
 作者の出世作。歌舞伎では最初とも言える農民劇で、殊に江戸時代には禁忌になって
いる題材を扱ったものとして意義は深い。主に上演されるのは「渡し場」「宗吾内子別
れ」「直訴」の三場で、特に「子別れ」は雪を効果的に使った愁嘆場として圧巻と言え
る。稀に「門訴」「仏光寺」が上演されることもあるが、「仏光寺」は原作になく、黙
阿弥によって書き加えられた場面である。宗吾の役は初演の小団次から七世市川団蔵を
経て初世中村吉右衛門に伝わり、その当たり役の一つになっていた。
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