0305猿楽
 
                    参考:小学館発行「万有百科大事典」ほか
 
〈猿楽サルガク〉
「猿」
 サル目(霊長類)のヒト以外の哺乳類の総称。特に、ニホンザルを云うこともある。
 
「猿楽」
 わが国の古代・中世に栄えた芸能の一つで、室町時代以降は現在の能楽の古称として用
いられて来た。奈良時代に中国から渡来した散楽サンガクの芸系を引く芸能。散楽は、中国
では民間雑芸の総称で、「百戯ヒャクギ」とも称され、滑稽物真似・曲芸軽業・奇術魔法など
幅広い芸態を含むものであった。わが国では初め朝廷の保護を受けたが、主として滑稽
物真似の要素がわが国古来の笑いの芸と結合して一般に普及し、平安時代になると、名
称も日本的に訛って猿楽と呼ばれるようになったとされているが、単なる音韻変化では
なく、物真似上手な猿の印象が加わったものであろうと云われ、また散楽の中に人間が
猿に扮した舞があったためだと云う説もある。猿楽は、宮中でも相撲節会スマイノセチエなどの
余興として近衛府コノエフの下級官人などによって演じられたが、その主流は民間に流れ、
職業的猿楽者を生むに至った。平安中期に書かれた藤原明衡アキヒラ著『新猿楽記』には、
呪師ノロンジ・ 儒舞ヒキヒトマイ・田楽・傀儡子カイライシ・唐術・品玉・輪鼓リュウゴ・八玉・独相撲その他が
挙げられていて、なお猿楽の名称の下モトに古代散楽の広範囲な芸能を含んでいたことを
想像させる。しかしそこには、僧侶が袈裟ケサを探したり、尼が自分の子供の襁褓ムツキ(お
むつ)を乞い歩いたりする後代の狂言を思わせる寸劇の演じられていたことも記され、
猿楽の総評として「嗚呼オコの詞コトバ、腸ハラワタを断ち頤オトガイを解かざる者なし」と書かれ
ていることから、滑稽物真似の芸が中心をなしていたと考えられる。しかしその後、曲
芸軽業や奇術魔法の類は、大道芸になったり、猿楽から独立した田楽の中に入ったりし
て分離した。一方、職業的猿楽者の多くは大きな寺院や神社に属し、その法会や祭礼に
奉仕していたので、密教的行法の中で従来は僧侶が行っていた芸能的要素を持つ部分、
例えば『新猿楽記』が諸芸能の最初に挙げている呪師の芸などを勤めるようになり、更
に鎌倉時代に入ると、大寺院の余興大会である延年エンネンへの参加や音楽的読経とも言え
る声明ショウミョウなどの影響を通じて、猿楽は次第に真面目な歌舞劇である能と、滑稽な科
白カハク劇である狂言とに分離し、それぞれの芸能を確立して行く。
 
 やがて室町時代の初め、観阿弥・世阿弥父子等によって、猿楽は今日の能楽とほぼ近い
姿に整えられ、能と狂言の交互上演の形式も定まった。世阿弥は『風姿花伝フウシカデン』に
「上宮ジョウグウ太子、末代のため、神楽なりしを、神といふ文字の偏を除けて、旁ツクリを
残し給ふ。これ、日よみの申サルなるが故に、申楽サルガクと名附く。即ち、楽タノシミを申すに
よりてなり。または、神楽を分くればなり」と書いて「申楽」と表記したが、室町・江戸
両時代を通じ一般には「猿楽」と書かれて来た。しかし、明治期に入って「猿楽」は「
能楽」と改められた。明治十四年、華族を中心に設立された能楽社の『設立之手続』の
中に「前田斉康ナリヤスノ意見ニテ猿楽ノ名称字面穏当ナラサルヲ以テ能楽ト改称シ・・・・」
とあるので、貴族社会の代表芸能として「猿」の字の野卑な印象を嫌っての改称であっ
た事情が分かり、その時期はほぼ明治十二,二年のことであると推測出来る。以後は急
速に「能楽」の名が普及し、「猿楽」の呼称は全く亡びた。
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