010320鮎と民俗
参考:小学館発行「万有百科大事典」ほか
〈鮎アユと民俗〉
「鮎・香魚・年魚」
アユ科の硬骨魚。東アジア、特にわが国の名産魚。全長約30p。稚魚期を海で過し、
初春川を遡り、急流に棲む。珪藻を食べ、肉に香気がある。寿命は普通1年なので「年魚
」の字を当てるが、越年鮎も知られている。あい。
「鮎と民俗」
天皇の即位儀礼のとき、階前の左右に七種の旛旛が立つ。そのうちの一つに、雲形地
紋の赤地錦の上部に五尾の鮎と一個の厳瓮イツベ、その下部に金字で萬歳の二字が縫い取
りで表されている万歳旛バンゼイバンと云うのがある。
神武天皇が神日本カムヤマト磐余彦命イワレヒコノミコトと言われていた頃、九州から大和に入った
とき、天香久山の土を以て平瓮ヒラカ(皿)と厳瓮(壺)を作って天地の神を祀れと云う神
のお告げを受けた。それに従って丹生ニブ川の川上で厳瓮の口を下向きに川に鎮めて、も
し私がこの国を治める大業を成し遂げることが出来るのだったら、この川に棲む魚は悉
く、恰も真木マキの葉の流れるように酔うて浮かべよと祈ったところ、沢山の鮎が浮かび
上がった。命はこの吉兆を喜ばれて軍を進め、八十梟帥ヤソタケル等を平らげ、大和の畝火山
ウネビヤマの橿原の宮で即位された。万歳旛はこの故事に因んでいる。この即位儀礼のとき
の机代物ツクエシロモノにも、干し鮎が用いられた。
この話よりも、更によく知られている鮎についての神話は、神宮皇后の三韓遠征のと
きのことである。九州松浦の里で裳すその糸を抜き、針を曲げて作った釣り鉤バリに飯粒
を付け、新羅に勝ことが出来るなら、これで魚が釣れますようにと祈って、川に投げ入
れたところ、鮎が捕れた。この故事に因んで、松浦では旧暦の四月上旬になると、女子
が鮎釣りをする風習が長く行われた。
松浦川川の瀬ひかりあゆ釣ると立たせるいも(妹)が裳のすそ濡れぬ
古い地理書である風土記には、鮎の名所が沢山記されており、『延喜式』について見
ても、朝廷への進貢地の分布は諸魚中鮎が一番広く、数量も多い。貢進の鮎は、近い処
からは勿論鮮魚が供出された。琵琶湖の氷魚ヒウオはその一例である。しかし、遠い国から
は加工品が届けられた。それにはいろいろあって、串に刺して囲炉裏の火で乾かした火
干し年魚アユ、塩水で煮てから火又は日に乾かす煮乾年魚、塩をして桶に入れて押し蓋を
しておく塩漬け年魚や、詳しい製法は分からないが押し年魚、煮塩年魚、塩塗年魚など
様々な塩蔵品があり、生鮎や塩鮎を飯と交互に漬け込む鮓スシ年魚もある。
昔のわが国の川には、鮎の季節中には食べきれない程の鮎が上って来て、それが大切
な蛋白質の貯蔵食品となり、朝廷にも届けられたのに違いない。現在でも鮎の製品は頗
スコブる多く、中でも内蔵の塩蔵品である「うるか」は酒徒の好む逸品である。
「アユ」という和名は、日本全国何処ででも通用する優勢魚名である。これはこの魚
が民族と古くまた深い交渉を持って来た証拠だとされている。ところが一方、鮎はその
発育段階や生態に対応して、実に沢山の異名があり、形容語が付いている。呼び名が違
うと、それぞれの漁法が違い、利用法や味や価格にも差が出来る。これもまた、鮎が日
本民族の生活と密接していて、細かい区別を必要としたためである。漁法の多いことは
鮎についての特徴であって、海と川とに跨マタガる鮎の多彩な生活史とよく対応している。
溯河のときの習性を利用した飛び鮎漁法や汲み鮎漁法、下り鮎を捕る梁ヤナ漁法なども面
白い。またその縄張り行動に着眼した友釣りは世界に類例がなく、儀式化した鵜飼も誇
り得るものである。
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