31 本草学とは
 
                本草学とは
 
               参考:小学館発行「園芸植物大事典(用語・索引)」
 
 本草学ホンソウガク(herbalism)は中国古来の薬物学です。本草とは,本草学が研究の対
象とする薬物の総称ですが,屡々本草学の意にも転用されます。日本に渡来した本草学
は,近世後半期に隆盛となり,薬物学自体の研究のほか,その中から実利と関わりのな
い博物学が育ちました。また園芸との交流も深まり,それによって自らの内容を豊富に
しました。
 本草は元々木と草のことですが,薬の本モトになる植物には草が最も多いので,本草と
言い慣わしました。しかし,本草は古来薬用植物だけでなく,薬として用いられる動物
や鉱物をも採り上げています。本草学はいわば薬用天産物の学問です。古来多くの本草
書は大凡オオヨソこの方針で作られました。その記述の形式は現今の「薬局方ヤッキョクホウ」の如
くです。ただ岩崎イワサキ潅園カンエン著「本草図譜ズフ」は,本草を冠称していますが,本草の
字義通り純然たる草木図譜であって,薬物学としての本草ではありません。
 ヨーロッパでは昔から植物図説が多く作られ,それらが薬用植物を中心とすることで
は本草に類します。それらの植物書を「ハーバル ferbal」と総称します。ハーバルは本
草の植物の部に対比されますので,日本では「西洋本草」ということがあります。しか
し,本草は中国で起こり,ヨーロッパの自然科学から何らかの影響をも受けることなく,
独自の体系を樹立し,高度の水準に達した別途の学問です。ヨーロッパの類似の学問を
本草とは言えません。
 本草の起源は西暦紀元前に遡ります。紀元後7〜10世紀の唐では,既にその体系が出
来ていました。唐より後凡そ1000年の間,宋,明,清などの歴朝には,それぞれ特徴の
ある本草書が出来ましたが,宋以降は版本となり,中でも宋の「證類ショウルイ本草ホンゾウ」,
明の「本草ホンゾウ綱目コウモク」は最も大部で内容も高度です。後者は江戸時代の日本の本草
学に大きい影響を与えました。古く日本に渡来し,その書名が確認されている本草は唐
の「新修シンシュウ本草ホンゾウ」です。奈良時代の8世紀初期に渡り,祖国中国では亡失しま
したが,日本には現存します。唐より後の歴朝の本草も渡来しました。しかし,日本の
文明の後進性はその速やかな受容を阻みました。「新修本草」を解明した深江フカエ(根ネ
)輔仁スケヒトの「本草ホンゾウ和名ワミョウ」が出来たのは,「新修」渡来後190年もの後でした。
渡来した本草書は支配階級に留まり,其処に学識に富んだ者がいなければ,本は空しく
く高閣に束ねられるばかりでした。日本の本草学は中世を通じて,名ばかりの存在でし
たが,近世初期になって活性化への兆しがみえ,安土桃山時代の名医曲直瀬マナセ道三ドウ
サンが,「證類本草」を講究し,また自ら「宜禁ギキン本草ホンゾウ」を著しました。食物をも
薬という概念に含めることは,本草古来の慣わしです。道三は食物の良否(宜禁)を論
じた食療本草を著したのです。この時期に本草学は未だ独立せず,医家は常に本草家で
した。道三の活動はやがて蘆和の「食物本草」(李杲撰)の復刻に始まった食物本草の
続出を促しました。江戸時代初期100年間は食物本草中心の時代でした。その著者は何れ
も未だ著名の医家であり,かつ本草家でした。食物本草時代は18世紀初めに急速に衰退
し,その代わりに本格的な本草学が軌道に乗りました。この転機をもたらしたのは1607
年(慶長12年)以降渡来を重ねた,明の李時珍撰「本草綱目」でした。この本は日本で
数種の復刻本が出来て広く読まれました。その結果本草学は医学から独立する方向に進
み,専門の本草家(本草学者)が現れるようになりました。そして「本草綱目」を学ぶ
ことによって,日本の本草学の薬物学としての内容の改新充実を図るとともに,他方,
本草学とはいいながら,その実博物学を育て,中国本草とは異なる一面を持つ学科にな
りました。
 食物本草が盛んであった17世紀に,本格的な日本の本草学を目指したのは貝原カイバラ益
軒エキケンでした。その著「大和ヤマト本草ホンゾウ」16巻(1709,宝永6年)は,薬物学である
よりも,寧ろ益軒自ら大和(日本)の本草と題するように,日本の天産物の体系的記述
によって,自己の自然観を示そうとしたものです。益軒は本草家といわれながらその本
質はナチュラリストでした。益軒の同時代人稲若水トウジャクスイ(初め稲生イノウ若水)は,益
軒と異なり,中国の群籍から本草の記文を抄出して集大成しようと志しました。そして
「庶物ショブツ類纂ルイサン」1000巻を計画しましたが,果たすことなく中道で没しました。若
水は優秀な後継者を遺しましたので日本本草学の始祖を以て目せられます。
 江戸時代この方1世紀,江戸の繁栄振りは目覚ましかったですが,文化はなお京都に
は及ばず,筑前福岡藩臣の貝原益軒以外の主だった本草家は皆京都にいました。幕府は
1721年(享保6年),薬品鑑定のため松岡恕庵ジョアンを京都から呼ばなければなりません
でした。恕庵は稲若水の後継者で,薬物学としての正統本草学と同時に広く植物や動物
の種類や品種を研究し,「桜品」,「梅品」,「蘭品」など多くの著述を作ったナチュ
ラリストでもありました。その材料は園芸家から得たものが多かったです。恕庵は江戸
滞在中染井の伊藤花園を訪ねツツジを観ました。当時諸大名の名園,一般市民の趣味生
活の高まりにより,園芸を業とする者が青山,染井などに集まり住み,花木花卉カキを育
て,売り捌きました。本草学と園芸との関係は18世紀になって急速に深くなりました。
 松岡恕庵が江戸へ下った1716年(享保元年)頃から後,本草学研究の中心は徐々に京
都から江戸に移りました。植村ウエムラ左平次サヘイジ,丹羽ニワ正伯ショウハク,野呂ノロ元丈ゲン
ジョウ,阿部アベ将翁ショウオウら,気鋭の本草家達は江戸に出て幕府に採用され,薬物の開発
増産の政策に協力しました。彼等は或いは「採薬御用」で全国各地を歩き,或いは薬園
を設けて薬草を試植し,或いはまた薬草栽培の指導と生薬の鑑定に当たりました。1735
年(享保20年),丹羽正伯を総裁とし,幕府の事業として全国の天産物の一斉調査が実
施されました。その経過は本草学の隆盛を促す大きい原因になりました。その頃から田
村藍水ランスイ,平賀ヒラガ源内ゲンナイ,曾槃ソウハン,栗本舟洲らの俊英本草家が相次いで現れま
した。18世紀後半以後1世紀間は,日本の本草学の最盛期でした。この時期の日本の本
草学は中国渡来の本草学とは様相を変じ,大凡次のとおりの内容でした。
 @中国伝来の本来の本草学(薬物学)
 A本草の名物学
 B本草薬物としてよりも,寧ろ植物,動物そのものとして研究する
 Cあらゆる天産物の薬と否とを問わない応用を目的とした研究(物産学)
です。
 上記Aは本草書以外の群籍に載せる本草の名実の考証,Bは博物学の方向でしたが,
次第に日本の本草学の特徴となります。18世紀中頃から後の日本の本草学は,薬物学よ
りも寧ろ博物学に重点が置かれました。この研究傾向の最高の本草家が恕庵の後継者小
野蘭山ランザンであり,その著「本草ホンゾウ綱目コウモク啓蒙ケイモウ」48巻は一大博物学書です。
蘭山と島田充房ミツフサとの共著「花彙カイ」は純然たる植物図説です。
 18世紀後半以降の日本の本草学の隆盛は,多くの専門本草家が出ただけではなく,一
般人士の本草学への興味の高まりがそれを助長しました。医学志望者が必修科目とする
だけでなく,教養として,また趣味として,本草学を学習しようとする者が大勢いたこ
とです。学問といえば儒学中心のこの時代に,自然科学系の本草学は最適の教養科目で
した。このことはやがて江戸や京都以外の各地に本草学の勃興をもたらしました。水谷
ミズタニ豊文ホウブンを指導者とする尾張オワリ嘗百ショウヒャク社のような,有力な本草研究会が生ま
れるまでになりました。
 本草学が最も親密な関係を持った科学技術は園芸です。享保以降江戸はもとより各藩
に薬園が開かれ,其処でまず必要としたのは園芸技術でした。園芸家は本草を学んで自
らの知識を豊富にし,本草家は園芸家の知識を活用しました。著名な本草家田村藍水は,
薬用人参栽培の熟達した指導者でした。青山の園芸家の出身である佐藤成裕セイユウ(中陵
チュウリョウ)は,後に名だたる本草家になりました。園芸家の著作中有名なのは江戸染井の
伊藤伊兵衛イヘエ一家の手になる一連の園芸植物叢書「地錦抄チキンショウ」で,本草家の欲する
多くの知識を供給しました。園芸家の著述には一般に本草書の堅苦しさがありませんが,
その内容では「草木ソウモク奇品キヒン家雅見カガミ」のような,本草学の累ルイを摩マす高度な研
究的な内容のものも出来ました。本草学は植物を育てて花を咲かせ果実を見なければな
りません。そこで園芸が本草家の日常生活に溶け込みます。美しい植物図よりなる「本
草図鑑」の著者岩崎潅園(常正)がその好例です。
 本草学が日本に渡来して以来1千年,中世には奮いませんでしたが,近世江戸時代後
半期に急速に隆盛になりました。しかし,明治維新後近代薬学の導入にともない,生薬
学などに転換し,日本の本草学自体は衰退して過去の学問となりました。本草学の祖国
中国でも同様の傾向です。日本では本草学から別途に進んだ博物学が隆盛を続けていま
す。
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