02 ボタニカルアート
 
               ボタニカルアート
 
               参考:小学館発行「園芸植物大事典(用語・索引)」
 
 ボタニカルアート(botanical art, botanical illustration)とは,植物を正確に,
植物学の記載に適したものとして描いたものです。印象派の画家達によって花の絵は多
く描かれ,マネのシャクヤクやゴッホのヒマワリは有名ですが,これらは一般の絵画で
あってもボタニカルアートとはいいません。ミッチェル(ヨーロッパの花の画家たち,
London,1973)は,花を描いた画家300人余とその花の絵を紹介していますが,この中に
はマネ,モネ,ゴッホ,ゴーギャンから現代のマチス,シャガールまで含まれています。
従って花を描いた西洋の画家の伝記と作品を調べることができますが,これらは花の絵
画であっても,ボタニカルアートではありません。しかし,通常ボタニカルアートの偉
大な画家として知られていますルドゥテや,ソーントン,レイナグルなどが加えられて
います。このように,過去の作品では,一般絵画の花とボタニカルアートの花を区別す
ることは困難です。
 古代の植物の絵についてみますと,クレタ島から発掘された壁画のマドンナ・リリー
やサフランの絵は古い時代(紀元前1500)のボタニカルアートといえます。しかし,古
代からルネサンスまでの長い中世では,全てが歪められて描かれましたので,ボタニカ
ルアートで尊重される写実性は欠けていました。ルネサンスでは自然が重視され,画家
は植物を正確に描いて遺しています。レオナルド・ダ・ビンチのオーニソガラム(ユリ
科)のスケッチや,ドイツのデューラーの描いた何枚かの植物の図は有名です。更に17
世紀の中頃ヴァルターが描いたバラ,セイヨウオダマキ,ムクゲなどはボタニカルアー
トの範疇ハンチュウに入ります。美術というより,植物を正確に写したもので,バラではRosa
 foetidaが正確に描かれていますし,セイヨウオダマキではどの色でも八重が作られて
いたことを知ることができます。これらは美術としての美しさより,育種の歴史を示す
情報として尊重されます。
 17世紀初頭にオランダで出たパスやイギリスのジェラードなどの図をみますと,写実
性に優れていることが分かり,中国で発達した本草書の図との差が著しいことが分かり
ます。李時珍「本草綱目(明,1596)」の植物図は何れも歪んでいます。年代が後にな
る程植物の図は正確で写実的になっていきました。本草書以外では,近衛豫落院「花木
真写(1700〜36,陽明文庫蔵)」では極めて正確に125種の植物が写実されて遺されてい
ます。この図はボタニカルアートそのもので,絵画とはいえません。
これに対し,酒井抱一ホウイチ「四季花鳥図巻(1818以前,東京国立博物館蔵)」にはフク
ジュソウからスイセンに至るまで草花や花木が描かれていて,極めて写実的ですが,絵
画であってボタニカルアートではありません。
 ハルトンとスミスによる「Flowers in Art from East and West(東洋と西洋の芸術に
現れた花々,1979)」は,大英博物館で開催された東西美術に現れた花の展覧会をまと
めたもので,東洋の花の美術ではインド,イスラム,中国,日本の絵画が多く集められ
ています。これらをみますと,インド,中国の画家たちの絵には西洋の花の絵と殆ど差
がなく,極めて写実的なものがあります。このように高い可能性があるのに,中国の園
芸書,本草書では何故写実性の高い植物と花の図が発達しなかったのでしょうか。これ
は矢張り西洋で植物分類学が確立し,リンネ(1707〜78)以後,優れたボタニカルアー
トの画家が出たからで,学問としての植物学が背景にあったかどうかによるのでしょう。
 西洋ではボタニカルアートの画家は多く現れましたが,特に優れた画家は何人も出て
います。図も木版から銅版に移り,益々精密度が加わりました。東洋の植物図が何時ま
でも木版を離れなかったこととの差は大きくなりました。初期の画家ではリンネと密接
な関係があり,リンネの書物の植物図を描いたエイレットがあり,多く彫版もしていま
す。その後では,最も有名なフランスのルドゥテ(1759〜1840)があります。彼はナポ
レオン皇后ジョゼフィーヌの庇護を受けマルメゾン庭園の植物を図にしました。多くの
植物を美しく描きましたが,特に「Les Roses(バラ図譜,1817〜24)」は今日まで有
名で,世界に広く普及しています。ルドゥテに並んで有名な画家はイギリスのフィッチ
(1817〜92)で,ルドゥテの後に出て,イギリスが世界を圧した19世紀に作品を遺しま
した。ただし,キュー植物園の園長になったフッカー父子の助力がなければ,フィッチ
の植物図も残らなかったでしょう。フッカーがキュー植物園長になるより前にイギリス
では,1787年からカーチスの「The Botanical Magazine(ボタニカル・マガジン)」が
出ていて,植物図譜が発行されていました。後にカーチスが編集を止め,他の人達が代
わり,フッカー父子が引き継いでから「Curtis's Botanical Magazine(カーチス・ボタ
ニカル・マガジン)という誌名を固定させました。フィッチの美しい植物図はこの雑誌
に収められています。七つの海に亘る植民地から集まる世界の植物の図がこの雑誌を飾
り,20世紀に続きました。ボタニカルアートの世界では「カーチス・ボタニカル・マガ
ジン」を省くことはできません。

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