08 備荒食
 
                       参考:鹿角市発行「鹿角市史」ほか
 
〈備荒食〉
 明治二、四十四年、大正二、六年、昭和六〜九年などは凶作であったとされる。
 大正二年の大凶作のときは、大根や馬鈴薯ジャガイモ、菜っ葉・大豆、オオバコやタンポ
ポの葉などを粟飯に入れたり、稗ヒエを混ぜて量を増やしたり、蕨ワラビ粥・稗粥・シダミ(
団栗)餅・栃餅などを作ったりした。また葛根から澱粉を採って葛湯にしたり葛餅を作っ
たり、家の周りに垣根として植えているウコギも食べたりした。
 
△戦中戦後の食
 「たらぬたらぬは工夫がたらぬ」米に混ぜる粟や稗の量を増やし、野菜や山菜入りの
カデ飯を作り、稗だけや米粒の見えないお粥を啜ったりしたのであった。またスベリヒ
ユ・コメノキ(?)・サシボ(?)・土筆ツクシも食べ、アカシアの葉を粥に、蕗の皮を餅に
入れたりした。ハッタギ(蝗イナゴ)を煮たり、トドコ(蚕)の蛹サナギを炒って食べたり
したと云う。
 薩摩芋の葉や茎、蕗・人参・豆類の葉、玉菜キャベツの芯、卵の殻なども工夫して食べたの
であった。
 
 この頃配給の対象となったのは、米・味噌・醤油・麦の粉・馬鈴薯・パン(米糠パンを含む
)・豆の粉・薩摩芋・饂飩・素麺・砂糖・煮干・鰊・棒鮫やホッケのハッケ(頭部)・塩魚(鰯、
塩鯨、オットセイの肉の塩漬・鰰・カスベ)・鯨の缶詰・乳製品・お菓子(ビスケット)・煎
餅・蕗・乾燥卵・ミズ・干プラム・飴玉などであったと云う。
 児童は落穂拾いをしたり、ハッタギ(蝗)・シダミ(団栗)・蕗・蕨などを供出したりし
た。
 
〈保存〉
△乾燥
 薇ゼンマイ・蕨ワラビ・蓬ヨモギ・アケビ(果皮)・菊・瓜などは茹でて干した。蕗は茹でて米糠
に漬けてから干す。柿は皮を剥いて竹串に刺して干柿にし、舞茸・南蛮・大蒜ニンニクは稲藁
か麻糸で繋いで干した。
 凍豆腐・干餅などは凍らせて干す。他に寒干大根、干瓢カンピョウ、大根葉は稲藁で繋いで
干し、干菜も作った。
 クキザッコ(鮠ハヤ)、鰍カジカ、岩魚などは串に刺して焼き、囲炉裏の上の弁慶に刺し
た。カスベ・鰯・鰊などは開いて塩を振り、干物にしたりした。ツブ(田螺タニシ)なども干
して保存したと云う。
 
△塩蔵
 茄子・胡瓜・漬菜などの野菜、筍・薇・蕨・蕗などの山菜や茸、鰰・鰯などの魚を塩蔵し、
冬期間の貴重な食べ物とした。
 
△漬物・佃煮
 春は菜の花、夏は茄子・胡瓜、秋や冬は大根・漬菜・白菜・蕪などの漬物がある。
 漬菜類の漬物は味噌汁、納豆汁、貝焼鍋カヤキナベの具に適していた。
 沢庵は夏になると酢っぱくなったり、白く黴カビが生えるので、千切りにして水に浸し
て食べたり、客には砂糖をまぶして進めた。古い沢庵は塩抜きして南蛮を混ぜて炒めた
りした。
 杏梅アンズウメの梅干、山牛蒡の漬物は鹿角の名産である。
 小魚・昆布・バッキャ(蕗の薹)・蕗などは、砂糖やスマシ(後に醤油)で佃煮を作っ
た。
 
△保存場所
 冬期間の野菜の保存は、、空き地に穴を掘り、稲藁を敷いて大根・人参・牛蒡・玉菜・白
菜などを置き、鼠除けに杉の葉を載せて稲藁で覆い、土を被せる。その上に稲藁ボッチ
(藁帽子)を被せ、積雪があっても分かるようにその頂きを高く尖らせる。
 当座の野菜は、床下にオトシと云う囲いを作り、稲藁や筵を掛けて凍結を防いだ。
 芋類はシラスに埋め、長芋は稲藁に挟んで保存する。
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