04 茶事と菓子
 
                茶事と菓子
 
                     参考:新潮社発行「和菓子の楽しみ方」
 
〈四季の風情・趣向をうつす〉
 
 茶の菓子は,長い歴史の間に,お茶の味を基本に考えられながら変化して来ました。
現代においては茶と菓子は車の両輪のように,お互いになくてはならないものとなって
います。
 お茶には抹茶ばかりでなく,煎茶や番茶など色々の種類があって,昨今では中国茶や
紅茶まで家庭においてよく飲まれています。菓子もそれに相応しいものを選ぶのですが,
茶請ウけとしてはお茶と調和するものであれば,何でなくてはならないと云うことはあり
ません。味噌でも梅干しでも,また香の物でも,茶が美味しく戴ければよく,実際地方
に行きますと香の物とか南瓜の煮たものを出す処が現在でもあります。
 味覚の五味と云う言葉は,酸味,苦味,甘味,辛味,鹹味カンミ(塩気のこと)の五つの
ことを云います。五味は料理ばかりでなく菓子にも同じく当てはまり,甘味のほかにも
いろいろな味が調和して作り出されているのです。好き嫌いによって一定ではありませ
んが,例えば抹茶には香りのあまり高いものや,溶解(口に入れたときの感触。口溶け
)の悪いものは適していません。
 
 お茶が中国から渡来して用いられてからも,鎌倉時代の頃は,菓子は未だお茶には添
えられていませんでした。室町・桃山時代になっても菓子を作ることは未だ一般的では
ありませんでしたので,茶菓子としては特別には必要としなかったのです。この頃まで
は,お茶と菓子との結び付きはまだまだでした。茶席に出す菓子は,茶の風味をよくす
るために添えられたのが例になって,次第に茶と菓子が結び付いてきたものなのでしょ
う。江戸時代初期までは,以前のように木の実,果実,餅などを菓子としていたのです。
 本能寺の変(1582)のとき,織田信長は茶の湯の床に中国の趙昌筆の「菓子の絵」を
飾っていたと云われますが,残念ながら焼失してしまいました。それには,
 
 蓮二 菱三 アリノ実(梨) 葡萄 柘榴 桃 久年母クネフ(柑橘カンキツ)
 
など7種類の果物が描かれていました。この頃の甘味は自然の味から摂っていたのです。
それは今も茶席の菓子に,柿や栗の実など自然の風味の良さとして伝えられています。
 やがて茶の湯が盛んになるに連れて,普通のお菓子から分かれて,お茶に調和するい
ろいろの菓子が出来てきたのです。素朴ですが,原料などにも大きな違いがあって,風
味にも特別の注意が払われるようになって来ました。
 
 利休居士の茶の湯の心得には,「夏ハイカニモ涼シキヤウニ、冬ハイカニモアタゝカ
ナルヤウニ」(『南方録』)と書かれていますが,勿論これは菓子にも当てはまる言葉
なのです。茶の菓子も,四季の風情・趣向に色や銘を考え,四季の味わいを生かして,
味覚にも真の風味を以て味わうものなのです。亭主が,ただ菓子であれば良いと云うよ
うに人任せにするものではないのです。
 本来,亭主は料理から菓子まで考案して作るべきで,客振りによってその材料を選び,
老若により加減する必要もあるのです。既製のものと同様では味わいがありませんが,
亭主が料理も菓子も吟味する心配りをして,客に出しますとその心入れは亭主の手製と
同じで,如何にも茶味のあるものが出来ます。
 
 松江の藩主松平不昧侯フマイコウ(1751〜1818)の言葉に「客の心になりて亭主せよ。亭主
の心になりて客いたせ」とありますが,この言葉は茶の心得であると同時に,また一般
にも客扱いの心得とすべきものでしょう。
 本来の茶事(茶会)には,濃茶と薄茶がありますが,催しによっては薄茶ばかりのこ
とも多い訳です。しかしお菓子は必ず出されて,濃茶には主菓子オモガシとして蒸菓子類を
用い,薄茶には干菓子を用いることが基本となっています。薄茶だけの催しのときは,
蒸菓子と干菓子の二種が用いられますが,これには二種使う規則はなく,干菓子だけで
も良いのです。
 お茶は若芽の加減によって,八十八夜が過ぎますと葉を摘み,茶摘みが終わって製茶
が済む頃,碾茶ヒキチャ用の壷に詰められて,茶師によって封をされた後,各出入り先へ納
められます。このことは古くからの習慣になっております。
 その茶壷は保存され,十一月立冬に入りますと,亥の日に炉を開いて「口切りの茶事
」によって封が切られます。茶臼で碾ヒいて使います。新茶の香りが大変喜ばれます。
 茶と同様,菓子も十一月頃から翌年一月頃にかけて,風味の最高のものが出来る時期
で,口切りの茶と調和して味わわれます。この季節の催しは実に多く,茶の社会におい
てはお正月のようなものです。
 
〈亭主の心入れを味わう〉
 
 秋から冬にかけては,菓子の原料である五穀類の収穫期でもあって,穀物の香りも高
く,力もある時なのです。ですから菓子原料の自然風味もよく,小豆などの色も淡く,
皮も柔らかいときで,小倉餡にしてもその皮の舌触りがよくて,溶解する風味は客を喜
ばせてくれます。
 また菓子の調味は,作る品に味を添えることですから,そのものの本質をよく知った
上でなければなりません。ただ無意味に調味することは,自然の味を失うからです。利
休居士の逸話は数多く伝えられていますが,その中で最も重要な極意として「茶の湯は
平素にあり。即ち渇し来る者には茶を供し、餓し来る者には飯を呈し、清談を遷す。こ
れを真の茶の湯」とありますように,あらゆる行儀は茲から始まって来るのでしょう。
 
 茶菓子に用いられるような,良質で特別な原料は産額も少なく,現代のような消費人
口の多い時代においては,昔と比べて味に少し変化があると云われています。文明の生
んだ機械は,製菓の能率を向上させましたが,風味には矢張り無理が出ます。茶菓子と
して作る場合には,味覚が第一で,料理と同様形状美よりも味と栄養価を備えているも
のこそ適していると云えます。
 一般的に菓子は,ただ甘いものを最上のように思い,菓子の好きな人を甘党と云って
おりますが,茶菓子はただ甘いだけのものと違って,茶に合わすものですから,本来の
味を失わぬように,淡泊で美味しいものが作られなくてはなりません。
 また茶には,幾口にも切って食べなくてはならない大きな菓子は必要とせず,小さい
一口型で十分と云う人もおりますが,実際から云いますと,小型では真の風味は味わう
ことが出来ませんので,二口程に食べられる菓子が良いのではないでしょうか。其処に
亭主の心入れの風味もよく味わえて,客としても心入れが変わり,茶席での相当の挨拶
が出来ます。最近は大型で,高額の菓子が見られるようですが,亭主は客に出す料理・
菓子には常に心して,茶の湯本来の真意を知っていただきたいと思います。
 
 南蛮からイエズス会が巡察のため,わが国にやって来ますと「日本の習慣と気質に冠
する注意と警告」の報告書を自国に送っていました。それには当時流行していた茶の湯
についても,微に入り細を穿ち書かれています。その一例として挙げますと,
 
 「・・・・・・それから部屋に戻ってきて、客人に向かい、茶を飲むための食事時になりま
すからと告げて、奧に入り、手ずから食台(膳)を運んで来て、各人の前に据える・・・・
・・(中略)・・・・・・食台を一つずつ奧へ下げて、食後の果物としていくつかの適当なもの
を台に小量のせて各人の前に運んで来て、奧へ引き下がる・・・・・・」
 
などと,茶会のことが詳しく書かれています。この時の果物とは現在の菓子のことで,
柿,栗,蜜柑などが出たようです。
 
 当時の主菓子には餅類を用いました。ほかには色付きの山の芋や栗,麩,熬豆イリマメ,
干し柿などでしたが,安土桃山時代になって水餅,栗餅,葛餅,栗子餅クリコモチなどが用い
られるようになっても,矢張り餅を主としていました。甘味は,甘葛アマズラや飴などで調
味をして,特別なときだけ砂糖が敷砂糖として出されていました。
 この頃干菓子はなく,氷砂糖,栗,柿,榧カヤ,昆布,柑橘類に塩鮑シオアワビ結び,みず
から(昆布菓子の一つ)などを置き合わせ,茶会などに面々(銘々)菓子器に出されて
いたのです。
 江戸時代初期にもさして変化なく,餅などを赤小豆,大豆粉,栗粉,砂糖などで風味
をよくして食べるようになって,寛文カンブン頃から餅類に飴を用い始めたのです。普通一
般は塩味を甘葛で調味し,餅菓子を茶に用いるようになって,餡には味噌や飴類を使用
しています。
 当時,茶をする人達は男性であって,料理なども亭主である男性が作って出したので
す。ですから味覚も男性的であったと思われます。
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