33 植物の世界「サクラソウの保全」
 
                       植物の世界「サクラソウの保全」
 
                      参考:朝日新聞社発行「植物の世界」
 
 花は種類毎に独特の形,色,模様,香り,咲き方をし,それが人々の目を楽しませ,
ナチュラリストや植物研究者の知的好奇心を刺激します。この花の豊かなバリエーショ
ンは,昆虫などの動くものを利用した有効な送粉と云う「選択圧(自然選択を促す作用
)」の下に進化して来たものと見なされています。植物は自由に移動して他の個体と直
接触れ合うことは出来ませんが,花粉を昆虫や風などに運んで貰うことにより,他の個
体と遺伝子を交換し,有性生殖をします。繁殖集団の形成と繁殖を成功させるための送
粉の役割は,計り知れない程大きい。
 ところが,花粉の運び相手は何時でも何処でも十分に得られるとは限らず,花粉を巡
る植物間の競争は時として非常に厳しいものとなります。花粉の運び手を確保するため
の様々な工夫,またそれが無理なら自家受粉をしてでも種子を作るための工夫,それら
が花の多様化をもたらしたと考えられます。
 
 普通雌蘂メシベや雄蘂オシベの位置など,花の基本的な構造は植物の種類によって決まっ
ていて,分類や同定に手がかりを与えます。その常識から外れるのが異型イケイ花柱カチュウ性
植物で,同種個体の中に,互いに雌蘂や雄蘂の位置の異なるタイプの花を付けるものが
含まれます。この異なるタイプの花においては,雌蘂と雄蘂の位置のほか,花粉の大き
さ,柱頭チュウトウの表面の形状,花粉や柱頭の不和合性に関する生理的性質なども異なりま
す。
 異型花柱性は,種子植物の24の科の一部の分類群において,それぞれ独立に進化して
来ました。ですが,その多くはクローン成長(栄養成長によってクローンを発達させる
こと)をする多年性草本で,送粉を昆虫に頼る植物です。異型花柱性は,クローン間の
送粉を昆虫を利用して有効に行うための適応と云えましょう。
 
〈訪花昆虫の数に左右される花形〉
 サクラソウ属においては,その種の大部分(91%)が,基本的に2タイプの花を持つ
異型花柱性,二型花柱性です。野生集団の中には,雌蘂の柱頭が高い位置,雄蘂の葯ヤク
が低い位置にある長花チョウカ柱花チュウカ個体と,それと丁度逆の位置に柱頭と葯を持つ短花
タンカ柱花個体が,およそ1対1の比率で含まれます。そして,自家受粉も含めて同タイプ
の花の間の受粉においては殆ど果実を付けませんが,異なるタイプ間の受粉においては
よく果実を付けます。つまり異型花柱性には,異なるタイプの花を付ける他個体との交
配による「他植(他の個体との花粉の遣り取りによる種子繁殖)」促進する効果がある
ことが分かります。
 
 ところが,野生集団の中には,同じ高さの雌蘂と雄蘂を持ち,しかも生理的にも自家
和合によって「自殖(自家受粉など個体内における受粉による種子繁殖)」をする等花
トウカ柱花チュウカと呼ばれる個体が見付かることがあります。等花柱花は,異型花柱性を支配
するスパージーンと呼ばれる遺伝子の内部における組み換えにより生じるものと推測さ
れています。
 昆虫による送粉が十分であれば,組み換え型の等花柱花遺伝子が集団の中に広がるこ
とはなく,等花柱花個体は極稀にしか見られません。それは,自殖の子孫の生存力や繁
殖力が他殖の子孫に比べて劣るためと考えられています。
 しかし,昆虫による送粉サービスが不十分になりますと,昆虫に頼らなくとも種子を
生産出来る等花柱花個体の方が俄然有利になり,集団の中においてその勢力が拡大しま
す。そして,極端に場合には異型花柱性そのものが失われることもあるらしい。サクラ
ソウ属の中に少数ながら含まれているプリムラ・ウァトソニイやプリムラ・コンコロバな
どの単型種の中には,祖先種の異型花柱性が崩れて,等花柱花だけが取り残されたとみ
なせるものがあるからです。
 
〈サクラソウの花を訪れる昆虫〉
 比較的良好な自然環境が残っている生育場所においては,実に様々な昆虫がサクラソ
ウの花を訪れます。晴れた5月の一日,長野県佐久サク郡常和トキワのサクラソウ自生地にお
いて行った調査においては,トラマルハナバチ,ハナダカハナアブ,ビロウドツリアブ,
クジャクチョウ,カラスアゲハ,コハナバチ類が次々にサクラソウを訪れました。ブンブ
ンと羽音を発て,或いはひらりと舞い降りてサクラソウの蜜を吸ったり,花粉を集めたり
する虫たちの姿を,日がな一日眺めているのは実に楽しい経験でした。
 それらの中において,サクラソウの送粉に最も有効であり,サクラソウの花の進化に
大きな影響を与えたと考えられる昆虫は,トラマルハナバチの女王です。マルハナバチ
類は温帯地域の野生の花の送粉にとって特に重要な昆虫です。その中において,最も普
通に見られる種がトラマルハナバチです。ナチュラリストを自認する人ならば,輝くよ
うなオレンジ色の毛をふさふささせた,小さな縫いぐるみのような丸いハチが,花にぶ
ら下がって揺れているのを見たことがあるでしょう。トラマルハナバチの女王が,サク
ラソウの送粉にとって特に重要とされる理由を次に述べましょう。
 
〈トラマルハナバチの女王の花〉
 サクラソウの分布域は,シベリア東部,中国東北部,朝鮮半島,北海道,本州,四国,
九州において,東アジアのおよそ1600qの範囲に広がります。トラマルハナバチは,わ
が国固有のマルハナバチ類ですが,その生息域は,サクラソウのわが国における分布域
を,水平的にも,垂直的にも十分にカバーしています。これが第一の理由です。
 次に形態的な一致が挙げられます。サクラソウの花筒カトウノ長さはおよそ13oで花喉カコウ
部の直径は2o以下です。サクラソウの蜜は花筒の底に溜まりますので,それを吸える
昆虫は,長さ十数o以上の細い口器を持つものに限られます。マルハナバチの中におい
ても特に舌の長いトラマルハナバチの女王ならば,余裕を以てその蜜を吸うことが出来
ます。サクラソウの蜜を吸える昆虫としては,他にチョウやハナダカハナアブが挙げら
れます。
 三つ目の理由は季節的な一致です。サクラソウはラテン語で「最初の」と云う意味の
属名に相応しく,生育場所のミズナラ林,カシワ林,アシ原などにおいて春一番に花を
咲かせます。関東地方の低地においては4月半ば,本州の山地や北海道においてはその
高度や緯度に応じて遅れ,5〜6月が開花期となります。それは単独で冬眠していたト
ラマルハナバチの新女王が目醒めて,新しいコロニーを創設するために巣穴を探したり,
蜜や花粉を集めるために盛んに活動する時期でもあります。サクラソウの新女王の出現
を待ち構えるように春一番に花を咲かせ,アマドコロなどマルハナバチにとってより魅
力的な花がやや遅れて咲き始める頃には,その花期を終えます。
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