04 自然の化学工場
 
              自然の化学工場
 
                   参考:タイムライフブックス社発行「植物」
                         (解説者:米人フリッツ・ウェント)
 
〈有機化学の出現〉
 植物の生命を支えているものは,一体何でしょうか。既に植物を構成している基本単
位は細胞であるということは明らかになつています。光学顕微鏡や電子顕微鏡の力を借
りれば細胞の構造を詳しく観察できます。しかし,細胞がどんな働きをするかを知るに
は,化学反応の起こる分子レベルまで掘り下げてみなければなりません。分子がオング
ストローム単位,つまりミクロンの1/1万といった大きさでしかない微小の世界を探
る必要があるのです。
 しかし,細胞の分子レベルでどんなことが起こっているかは,どんな顕微鏡を使って
も視ることはできません。それを知るには化学的な資料を分析して推し量るしかないの
です。それによって,非常に小さな細胞の中で,自然の最も魅力的な作用が行われてい
ることを知るのです。
 細胞は小さいが,想像もできない程複雑で完璧な化学工場と言えましょう。其処には
数千の化合物があり,数百に上る物質が休みなく作り出されています。そして,これら
が細胞を働かす化学反応の鎖の輪の一つ一つを作っています。
 200年前には,こうした細胞の働きについて何一つ知られていませんでした。その頃の
化学は,未だこれを発見し記録できる程には進んでいなかったのです。しかし1828年に,
生物学的物質の化学,つまり有機化学が生まれてからは,分子の世界での出来事が次々
解明されていきました。これは,光学顕微鏡や電子顕微鏡によって,肉眼で見ることの
できなかった世界が明るみに出されたのによく似ています。有機化学は生物学に驚く程
の衝撃を与えました。また逆に,生物学の進歩は化学を大いに刺激しました。そして植
物の働きを研究する学者は生物学と有機化学の両方から利益を得ることができるように
なりました。
 
〈細胞の化学〉
 細胞の化学的な働きの全ての基本,それは呼吸です。但し,この呼吸という言葉には
特殊な意味があります。普通呼吸と言えば,息を機械的に吸い込んだり吐き出したりす
ることを想像しますが,生物学的な意味での呼吸は,そのような機械的な作用ではなく,
化学的な作用を指しています。
 呼吸は細胞の中で行われる一連の複雑な化学反応であり,それによって食物からエネ
ルギーが取り出されます。従って本稿で呼吸というのは,植物が生活し,生長するのに
必要なエネルギーを生み出す食物の酸化のことを意味します。
 さて,細胞の化学を研究するため,此処で化学実験室を開設してみることにしましょ
う。まず細胞の物質を味と匂いで分類してみましょう。細胞には砂糖や食塩のように,
匂いはないが強い味を持つ水溶性の化学物質があります。それと同時に,香料やテレビ
ン油やショウノウのように,味は殆どないが揮発性,つまり分子となって空中に飛散す
るため,鼻に強い匂いとして感ずる物質も含まれています。
 未熟なリンゴを一噛りすれば,それは堅くて酸っぱいことが分かります。酸っぱいの
は酸のある証拠です。試みに匂いを嗅いでみましょう。そうすれば,もう一つの疑問が
解けます。このリンゴにはギ酸や酢酸やラク酸のように揮発性で鼻を刺すような酸は少
しも含まれていません。普通未熟なリンゴは,極めて薄い"林檎"の香りはするが,その
匂いは強くありません。従って,其処に含まれている酸は,屡々果物によくみられるリ
ンゴ酸やクエン酸のような非揮発性のものであることが分かります。リンゴの皮の渋み
はタンニン酸のためです。タンニン酸が舌の表面の蛋白質と結合して収斂シュウレン剤に似た
刺激を与えるのです。
 これらの酸は全て植物の細胞内の化学工場で,それぞれ独自の働きをしています。し
かし,此処ではそれらの酸が未熟なリンゴに含まれているということだけを注意するに
止めます。実はこれらの酸は,果物が熟するときにある働きをします。このことについ
ては後述します。
 次に,今度は熟したリンゴを調べてみると,まず味が全く変わっていることに気付く
筈です。酸味や渋味がなくなり甘くなっています。これは細胞に糖分が一杯できたため
です。更に熟したリンゴは果物特有の芳香を放ちます。この芳香はマツやユーカリの匂
いと違うので,それらの樹木に特有のテレビン油の仲間ではないと判断してよいのです。
 熟したリンゴの芳香は,エステルと呼ばれる化合物のものです。これは未熟なリンゴ
に含まれていた酸とアルコールが結合してできたものです。一番簡単なエステルは極め
て揮発性に富み,芳香も強い,このようなエステルができることから,リンゴが熟する
とき,その細胞の中でどんな化学作用が行われているかが推測できます。
 
〈植物の呼吸〉
 味をみることにより,熟したリンゴには殆ど酸がなくなり,替わって糖とエステルが
できていることが分かりました。それでは,何故糖ができるのでしょう。その答えの一
つは,植物の繁殖のためです。糖の甘さに誘われて動物がその果物を食べ,その結果あ
ちらこちらに種子が散播かれます。またもう一つ重要な理由があります。それは糖はリ
ンゴ自身にとってもエネルギー源として必要であるということです。
 さて,糖は酸素と結び付くと化学エネルギーを生み出します。この化学エネルギーは
生長や生命を支える他の物質を生産するのに使われます。化学用語で言えば,糖と酸素
から化学エネルギーと炭酸ガスと水が作られるということになります。これが植物の呼
吸です。つまり,呼吸とは食物が酸素と反応してエネルギーを生み出すことです。
 
  糖 + 酸素  →  炭酸ガス + 水 + 化学エネルギー
 
 即ち,1分子の糖と6分子の酸素が反応して,6分子の炭酸ガスと6分子の水を作り,
そのときエネルギーを放出する,ということになるのです。
 この化学式は,細胞で起こる多くの複雑な過程とその存在が確認された多数の物質を
表に出さない,表面だけの,しかも最も基本的な式です。なお,植物が自分自身のため
のエネルギーを日光から作る方法については後述します。
 では,リンゴの芳香に特有のエステルはどのようにして作られ,どんな働きをするの
でしょうか。ここで呼吸のもう一つの型について述べましょう。それは酸素が十分にな
い処,リンゴで言えば芯で行われます。このように酸素のない処で行われる呼吸を無気
呼吸と言います。無気呼吸では,空気の助けを借りないで糖を分解し,化学エネルギー
放出します。このとき炭酸ガスとアルコールができます。このアルコールが細胞内の酸
と結合してエステルを作り,熟したリンゴに果物特有の芳香を与えるのです。
 熟し過ぎたリンゴは,果肉がざらざらで味がありません。これは糖や酸が隠れてしま
ったためで,強い香りだけは残っています。では何故香りが残っているのに味がよくな
いのでしょうか。それではリンゴを細かく切って,少量の水で煮てみましょう。すると
一種の粥カユ状になります。このお粥,即ちアップルソースは吃驚ビックリする程美味しい。
それは甘酸っぱくて大変よい香りがします。熟し過ぎたリンゴにも,熟したてのリンゴ
にあったの同じ糖や酸が隠されていたのです。それでは何故,噛ったときには味がしな
かったのでしょうか。
 その理由は,熟し過ぎたリンゴの果肉がざらざらしているからです。このことは,リ
ンゴの細胞の中である種の変化が起こっていることを物語っているのです。顕微鏡で見
ると,熟しすぎたリンゴの細胞はばらばらになっています。一つ一つの細胞を見ると未
だ完全な形をしていますが,隣り合った細胞との結び付きは弱くなっています。その結
果,普通に熟した堅いリンゴでは,歯で噛んだとき,無理矢理細胞が引きちぎられて美
味しい細胞液が飛び出してきますが,熟し過ぎたリンゴではその細胞が互いに離ればな
れになっています。そのため,細胞の一つ一つが完全な形を保ち,内部に一杯細胞液を
含んだまま歯の間を潜り抜けてしまうのです。ところが果肉を煮ると細胞が破壊され,
その中に含まれていた糖や酸や香りの強いエステルを含んだ細胞液が外に出てきます。
 このことから,リンゴの熟する過程の後半では,細胞内には変化は起こりませんが,
外側の細胞膜だけには何らかの変化が起こることが分かります。リンゴの若い細胞の膜
壁は,割合しなやかなプロトペクチンでできています。その上に,ずっと堅いセルロー
スの膜が張られています。このように,未熟なリンゴでは,プロトペクチンがセルロー
スの膜を結び付けているのです。とひろが,リンゴが段々と熟してくると,ある酵素が
できてプロトペクチンを溶かしてペクチンに変えてしまいます。その結果,リンゴが熟
せば熟す程細胞が離ればなれになり,果肉は柔らかくざらざらになります。こうしてで
きたペクチンを砂糖と一緒に煮ると,美味しいゼリー状になる訳です。
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