自然のこころにふれる人の輪・・・ 京・洛北 <玄武の地> から
  
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平安京の四神と都市計画について

  
1994年11月19日 第一回 秋の集い の記念講演より

足利健亮京都大学教授(玄武の会調査研究委員会委員長)を講師に
「平安京の都市計画について」と題する講演会を同時開催。その時のお話しから
後に調査研究資料集
「北稜に光を観る」に編纂収録。
 

 

平安京の四神と都市計画について  足利 健亮 京都大学教授

注:当HPへの掲載につきましては参考写真、図などは掲載していませんのでご了承下さい。

 私がこれからお話をしようとする「平安京の都市計画」は、平安京という都の中のことではなくて、直ぐその外回りのところに実施された都市計画のことであります。

 まず平安京の概要を見ていただくために図−@を用意しました。図中、太い線で囲みました範囲(ABCDの大文字を結ぶ範囲)が一般的に良く知られた平安京という都の広がりです。
 北の外れは一条通り、南の外れが東寺の前の九条通り。この一条から九条までが南北の範囲。東西は東の方が寺町通りで、西の方は丁度阪急電車西京極駅の真ん中を貫く。ですからあの辺りを西京極と言うのですが、それが東西の範囲ということになります。その中に上の中央に太い線で囲んだ四角の部分(abcdと小文字で記した部分)がありますが、これが大内裏と呼ばれ平安京の中心としての宮殿・役所地区です。
 その中に黒丸を付けましたところが千本丸太町です。これはご承知のように大極殿であり、天皇の儀式の中心の場がここであったわけです。かなり多くの人が、現在の京都御所のところが昔からの天皇の儀式の場、あるいは天皇の居住の場であると考えておられるようですが、決してそうではありません。これは後に図の宮殿・役所地区が焼け荒廃し暫らく幼い天皇がお母さんのところで暮らしていまして、そういうところが里内裏と言われたのですが、それがベースになり今の御所が成立して来たと言うことです。

 いずれにしても太い線で囲みましたA−B−C−Dの枠が平安京なんですね。私はそこで何を考えたかと言いますと一番最初に鴨川の問題なんです。鴨川と言いますと、この鴨川が平安京の東の京極に沿って流れていないというところが私の平安京関係の研究の総ての原点で,そこから話が始まります。
 鴨川が平安京の東の端の寺町通りのところを流れているのでしたら何も問題はないのです。順を追って申し上げますと、鴨川はもともと、北山を出てからほぼまっすぐ南へ向かい、今の堀川付近を南へ流れていたと見る説がありました。けれども今はもうこの説は取り上げられません。今は、船岡山から同志社大学の辺りにかけて地下に山の尾根が見つかっているという。鴨川はそれを乗り越えられなかったから、結局今の流路に近い辺りを流れていたはずだという考え方が強いのです。
 が、それはいずれにしても大変古い話であり、川がどこを流れていたにせよかなり自由に流れていた。それを平安京という都を造る時にあちこち自由に流れていてはちょっと具合が悪いということで整理をし、平安京の東の側面を南へ流したというのが通説となっています。何処を流れていてもとにかく平安京を造る時にきちんとした流れにしたいと考えたことは確かだと思われます。その時に平安京の東の縁に沿って流したのであれば私にとって何も問題にならなかった。ところがちょっと離れているのです。寺町から四条通りを歩きますと鴨川まで約 400mあるわけですね。
 それが実は不思議なんです。せっかく人工的に川を造ったのに何故それを京極から400mも離したのか? という疑問が私がものを考える原点となっているのです。
 これをどう説明したらいいだろうか? ある人は、鴨川は大変な荒れ川で平安京の東京極に接するところを流したりしたら直ぐに町が洪水にやられるに違いない。だから離したと言う。それはなるほどと思わせます。しかし、せっかく離すのならもっと離した方がより安全な筈で、京都大学のある辺りから岡崎の辺りはもっともっと離しても流せるのです。しかし、そうしないでほぼ400mだけ離したのは何故か? それが説明できないと平安京の計画は解らないのではないだろうか? というわけですね。

 そういう時にどう考えたかといいますと、私の従来やって来た研究は殆ど直感だけでして、おそらく左の方の脳はあまり働いていないのではないかと思います。殆ど右脳の思考ばかりやってきているのですが、その直感である時意外なことに気付いたのです。それは何かと言いますと、まず、東堀川といわれた今の堀川があります。平安京の中心線を挟んで西側の対照位置にも西堀川と書いてある堀川が流れていました。今の西大路通りの100m程東のところです。現在でも西堀川と文字を書いてる付近の川筋ラインに中京区と右京区の区の境の線があります。
 道路がなにも無いのに区の境の線だけがそこを走っているということを見ていただきたいのです。つまり、区の境になるような重要な線がそこに昔からあり、それは何かと言えば西堀川なのです。
 で、私の直感とは、ある時、この距離、東堀川と西堀川の間の距離がすなわち東堀川と鴨川の間の距離ではあるまいか? と思ったわけで。それを地図の上で測って見たら確かにそうだったのです。それで鴨川がここを流れている理由が読めたような気がします。つまり東堀川も西堀川も平安京を造る時に造った川なのです。だから、これらの人工的な川と鴨川、これも人工的な川ですが、それらが等間隔であるということから三つの川が同時に同じ計画で造られたんだと推測できることになったのです。
 それでは次にどう考えるかというと、それだけならば平安京計画との関係で非常にアンバランスですから、当然西堀川の西に東西堀川間の距離をとったところにもう一本川が流れていないだろうか? と考えたわけです。川が流れていればこんな面白いことはないのです。で、探したんですが残念乍ら何も流れていない。でも面白いことに、雙ヶ丘がここ(Aの左下)にあるんです。一の丘、二の丘、三の丘と丘が三つ並んでいますから雙ヶ丘と言うんですが、この二の丘の頂上を問題の線が通るんですね。
 何となく面白そうな気がしたんです。平安京という都があって中心から等距離を東西に取った東側の線上が川。一方西の線は山(丘)の頂上を通る。川・山ということで幾らか忍者の暗号に似ている。これは面白いのではないかと思ったのですね。それで友達なんかつかまえて「面白いだろう」「面白いだろう」としゃべってみた。するとみんな「面白い」と言ってくれる。でも「それで?」と問い直されると、この話、つづきは何も言えないんです。
 それだけの話というのはどうしようもない。これはもう諦めました。今のところはまだ温めていますが、依然として熟成しませんので二の丘の上を通るということは殆ど問題にならない状態なんです。けれども結局どう考えるに至ったかというと、雙ケ丘の南のその線上にやっぱり川は流れていた、というところに今、持って行こうとしているわけです。どういう川かと言えば、ここを流れていたのはおそらく御室川。御室川は雙ケ丘の西を流れ、今は問題の線を東へ越えて流れ、その下流は天神川と呼ばれています。天神川というのは実は昭和になり西堀川つまり天神川が西へまげられ、御室川に合したもので、総ては昭和になってからの作為です。以前にはどうなっていたのかと言えば、明治の頃の地図を見ますと御室川は自然の川のありようで、西京極線付近を自由に流れていました。こんなふうに川を自然に流したまま平安京を造ったとは考えられません。平安京を造った時には川は必ずきちんと真っすぐに流したに違いないと考えます。そう考えると平安京の時の川はどこを流れていただろうかという設問が生まれます。その川は少なくとも今(明治)の川筋よりは西側を流れていた。それが洪水の時に明治期の地図に認められるような川になってしまった。なぜそう考えられるか説明しましょう。御室川は北西から流れて来ています。ですから計画的に南北方位で造られた川筋が洪水の勢いで変わる時には、北西からの勢いのまま南東側にあふれ出して新しい川筋ができる、という経過が推定される。それで明治地形図上の御室川になってしまった。洪水で人工河道がこわされたのだから元へ戻せば良かったんですが、もうその時には人工の川に無理に戻す必要がなくなってしまっていた。何故なら平安京の西の方は低湿で度々洪水に襲われ、人々があまり住みたがらずみんな東の方に移ってしまい、それで京都は平安京の東半分に片寄った都市になるわけですね。それ故に京都は洛陽とも呼ばれることになるという話に繋がってゆきます。
 ちょっと余談になりますが、このことも説明させていただきましょう。京都は洛陽だ。洛中洛外と言う。何故洛陽かといいますと、平安京という都は図の真ん中の南北線(朱雀大路)で右京と左京に分けられ、左京は洛陽、右京は長安という別名をつけて呼ばれた。中国の二つの都を取り込んだ欲張りな観念で構成されていたんです。ところが先に申しましたようにこの西半部の一帯が廃れてしまい、東の方へ都市が移った。つまり洛陽だけが残ったわけで、京都は洛中と呼ばれることになるのです。そういうことがありまして、つまり右京が廃れてから洪水を起こし人工河道から自然の川にかえってしまった川を、再び無理して人工の直線河道に戻すということはやらなかったんだろうと考えています。
 ところで、問題は、はたしてそんな御室川の人工河道があったのか? という話になりますよね。それが実はどうもあったらしい証拠があるのです。図−Aをご覧いただきますと右の端の方に縦の地図が二枚あります。これは大体同じところの地図なんですが左の(1)が大正10年頃、右の(2)が戦後の新しい地図です。(2)の上の方に「木嶋座天照御魂(このしまにいますあまてらすみたま)神社」というのがあります。難しい名前ですが簡単に言いますと良くご存知の「蚕の社」のことなんです。どういうことがここにあるかというと、先程申しました西堀川と東堀川の間の距離、その同じ距離を西堀川から西へ取り線を引きますと、それがA−B線ですが、非常に面白いことにその線の左(西)に接して「蚕の社」があることがわかるのです。「蚕の社」は大変広く敷地の幅は50〜60m程あります。大変古い神社で、この辺りの渡来系氏族の氏神さんと言われ平安京よりも以前からありました。平安京を造る時に多少動かしているかもしれませんが「蚕の社」はとにかくここにあるんです。その前から南へ向かって50m程の幅の帯状の空間を考えます。それがA−B線とP−Q線の間です。何故50m幅かと言いますと鴨川の幅が50m余りあるからですが、つまり東の鴨川と対のものとして考えるわけですね。そうしますと等高線が何故かA−B線やP−Q線のところで曲がるんですね。例えば33mの線を見ますとA−Bに沿って南へ曲がる。そこに50m程の幅で住宅地ができています(M)。なぜこの幅で家々があるかと言えば、ここのところだけが東西両側より80cm程高いんです。要するにここは周囲より80cm程高く水捌けが良いので早くに住宅地化したと理解できるわけです。また例えば(M)の少し下に(R)と書いたところは児童公園なんですが、この幅も50m程でちょっと高くなった砂地なんです。いずれにしてもここに、へんてこな幅の帯状地があり、これが人工の御室川の跡ではないか? つまり平安京を造る時に計画的に流した御室川ではないかと考えたわけです。砂地であることは、川が流れていたから砂がたまっているんだというふうに考えたんです。しかし常識的に考えて見ると御室川が幅50mもある筈がない。それで、最後にはちょっと話が変わることになりますが、さしあたりはこういう御室川人工河道があったという解釈を下すことが、この図−Aの(1)(2)で出来るんではないかと思ったわけですね。[1](1)と(2)は南北方向に少しずれますがMRなど同じ記号のところは同じ地点を示しています。
 そう思って見ますと面白いことがもう一つあります。図−@の右端の方に鴨川がありその上の方に鴨川と高野川の合流点があります。その合流点の真北に丸で囲った黒く塗り潰した四角があります。これは神社ですが、下賀茂神社ではありません。「賀茂河合神社」と言うんです。河合、つまりここで川が出会うことを記録するかのような意味で祀られた神社であろうと考えることができます。この賀茂河合神社と木嶋神社とは非常に深い関係がある。神社は時々位が上がります。この二つの神社は平安時代に片方の神位が上がれば他方も上がるという密接な関係であったことがわかっています。もう一つ、この下賀茂神社、河合神社の周辺を「糺(ただす)の杜」と言います。糺という字は、「罪を問い調べる」という意味ですから、ここは白州(裁判所)あるいは刑場があったところで「糺の杜」になったという説ができていますがこれは間違いです。では「糺の杜」とは何か? と言うと「ただ州」であって、「ただ砂だけ」という意味なんですね。二つの川が合流しますから砂ばかりたまったところということです。それで「只州の杜」と言っていたのを、後に今の文字を当てたものですから当てた文字で解釈されて、刑場などという考えが作り出されるんですが、そうではありません。木嶋神社のところには「元糺」という地名が残っているんです。ここも小さいですが二つの川の合流点で、こっちが本家の「糺の杜」だというわけです。ということがありまして、平安京を挟んで対称的な位置に関係深い神社が並立しているんです。その木嶋神社の前方に何か面白い50m幅程の帯状地が南へ伸びている。ということで今の段階で一つの結論を申しますと、平安京を造る時には東堀川、西堀川という二本の堀川を造っただけではなく鴨川という堀川、御室川という堀川も造った。そしてこの四つの人工的な川=堀川を等間隔に流しそれらの中央に平安京を置いた。このため鴨川は寺町通に沿って流れるんではなく、その東に400m程の距離が出来、鴨川が今のところを流れているという結果になった。これが私の解釈です。
 さて、こういう話になりますと、この距離すなわち東西堀川間の距離とその倍数距離とは一体何なのか? ということになるわけですね。この距離はどういう意味を持った距離なんだろうか? これは一所懸命考えました。東堀川と西堀川間の距離は図−@で図の東堀川と記した文字の左に数字を書いてあります。左の方から言いますと、まず14とあるのは平安京の中心道路朱雀大路の半分の幅14丈という意味です。次の4はここの小路の幅4丈。次に壬生大路の10丈。小路の4丈。大宮大路の12丈。小路の4丈。そして堀川小路が4丈幅で、それに東堀川が4丈幅で沿って流れていましたので、堀川小路4丈と東堀川の西岸と中心の間の2丈を合わせて6という数字を記しています。1丈は約3mですから例えば大宮大路は12丈=36mあったわけです。その間に四角形が6つありますがこれは一辺40丈=120m四方の「町」を示しています。そういうのを全部足しますと平安京の真ん中から東堀川の川の真ん中までが294丈ということになります。それを西へ折り返しますと588丈。つまりこの588丈というのが東堀川(の中心)と西堀川(の中心)の間の距離なんです。ではこの588丈という数字にどういう意味があるかということですが、これはこのままでは説明ができません。そこで588をを三つ足しますと1764丈。この数字も説明できません。意味を聞かれても説明出来ないんです。しかしこれを説明出来なければ、一所懸命ここまで考えてきたことが全部無意味になってしまいます。だから何とかしなければならない。何とかこれを説明しようと考えたんですが、暫くは解らなかったんです。しかしある時突然解りました。それはこの1764という数字を因数分解するということなんです。分解してどうするかというと、1764を1800−36と置き換えるわけです。これは一種の因数分解といえる。これを理数系の人に因数分解だなどと言えば一笑に付されそうですが、我々文系のものにとりましては重要な意味を持った数字の分解でして、これぞ文科系の因数分解だと開き直っているんですが・・・。では1800−36としたことにどういう意味があるのか? 36は18×2ですから1800−36=1800−18×2となるんですね。1800丈とは、図−@の上の方に左右から向かい合った矢印を記していますが、これが鴨川の東岸から蚕の社前の50m幅の御室川人工河道西岸(図−Aの(1)(2)のP−Q)までを示していますが、その距離なんです。つまり平安京の造営の最初に東西1800丈という計画空間を設定してその両端にその100分の1=18丈づつの鴨川と御室川の人工河道を造った。残りが1764丈でそれを3等分した線上に幅4丈づつの東・西堀川を流した。この解釈ならいいだろうというわけです。それなら何故はじめに1800丈ありきなのか? 1000丈でも2000丈でもなくて何故1800丈なのか? 答えは平安時代には180丈が1里だったことにつきます。従って1800丈は10里という非常に割り切れる数字になるのです。以上のようにして、説明が出来ることになったんですね。まあ、こうやって平安京というのは造られたんです、と言いたいわけです。そうすると鴨川と寺町通の間ですね。結果として生じたこの余りの空間は何か? となるわけです。簡単に申しますと一つはここは平安京の墓地であった。人が亡くなれば、今のようなお墓の制度がありませんでしたから死体は河原に捨てる、あるいは川に近いところに捨てる。そういう使われかたをした空間であったらしい。平安京が出来て50年目のこと、鴨河原と嶋田河原のどくろを全部掃除させたら5500体分も数えられたという記録があります。嶋田河原は御室川と西京極の間の空間と考えられます。さらにもう一つ別の使われ方もありました。その頃、都へ税を持ってくる地方の人々がいっぱいいたのですが当時の税はお金ではなく物なんですね。旅費も総て物だったようです。ですから凄い量の物であったと思われるんですが、これを都へ持ってきて税を納めた途端に帰りの旅費も何も残らなくなってしまった。そんな人がいたらしいんです。そんな人々に、この場所を使わせてやるから牛を放牧して育ったらそれを売って帰りの旅費にして帰りなさいという規定があったんです。まあそういう土地でした。水田にすれば鴨川から水を引くことになる。すると京内に洪水を起こすことになるから田作りは駄目だ。つまりここは京外でありながら郡村の論理では使えぬ土地になっていたんです。本来、愛宕郡とか葛野郡の土地なんですけれども、実際は平安京関係者によって都市的に利用されていた。そういう空間であったと考えられるんですね。こういう空間が都市には必要であったが平安京の中には無かった。だからここはそういう計画空間として造られたのであろうと見るわけですね。
 さて、こんな具合に特殊な空間が、別の言い方をすれば都に非ず農地に非ずという位置づけの空間が平安京の東西両側にあるとすると、これは北面にもあっていいだろうと考えたんです。で、北京極から北へ400mの位置に東西方向に川が流れていたら面白いと考えてみたんですが、常識的に言って流れている筈はないんですよね。その筈はないんですけど実は一部分東西方向に流れている川があるんです。それが今出川なんです。今出川というと道路の名前だと思われ勝ちですが「今出川」と書いてある通り川の名前なんです。どういう川かと申しますと図−Aをご覧ください。左半分に江戸時代に作られたもので古い時期を復原した「中古京師内外地図」いう図の部分を収めてあります。その中に今出川の右に但し書きがあり「此水雲カ畑ノ中津川ヨリ来ル」と書かれています。雲ケ畑は鴨川上流の東にあり支流の中津川が東から鴨川に合流します。今出川はそのずっと下流で鴨川から西へ分かれた川ですが、この今出川の水は中津川の水だったんですね。つまり「一旦鴨川に合流した中津川の水が、器用に下流で分かれて今出てきた。だから今出川と言う」わけです。そう書いてあるんです。もちろんそんなことあるわけないんですが、実は中国にこういう「考え方」があるんです。中国は広い国ですから「X」の字のようにクロスする川がいくつかあるんですね。そういう場合、川の流れは勢いの問題で、左上流の水は右下流へ、右上流の水は左下流へ流れるという観念があるんです。中国のこの古来の観念については、宮崎市定先生が「済水伏流考」という論文に書いておられます。この観念が日本にも入っているということです。その今出川、図−A左下隅の略図でご覧のように、上賀茂神社のちょっと下流から分かれ、それから今の今出川通のところで東へ折れて(一部は一条通まで南下して東折)また南へ折れる(中古京師内外地図参照)。流れが東西になっている部分の一つが今出川通となる線です。そして、この二本に分かれた川はまた合流して寺町のところを南へ流れる中川になるんです。こういうことで今出川が東西に流れる線に何か意味があったのではないか? と考えさせられます。一本は一条通ですから北京極に沿って東西に流したという意味があります。これに対して、今出川通の線上にもう一本東西方向に流されたのは何故か? というわけです。これに関係して注目されることは、この今出川通の線を東へ伸ばして行きますと何と鴨川と高野川の合流点なんです。ということがありますから、平安京北辺にも北京極と今出川の間に帯状の、都市に非ず農地に非ず、その中間みたいな空間があったと考えてよいのではないかと思います。約400m幅の帯状空間が北辺から東辺にまがる角のその「点」で、鴨川と高野川が合流するように設計されたらしいことも読めるのではないかと思います。
 そうすると平安京南辺にも同様の空間があったと考えられる訳ですが、南京極から同じ距離400m程離れた辺りには、これまで北、東、西で見たような意味のある線らしいものは何も見つかりませんでした。ところがもう100m程南の辺りに非常に面白い線が見つかったのです。

 それを説明するための材料が図−Bです。図−Bの地形図は平安京の南の外れに近いところの東寺や西寺の辺りで、両寺の間に二本線で南へ向かっておりますのが「鳥羽の作り道」と呼ばれる、平安京の中心道路の南延長線です。500m程南へ下ったところに、左から右へ線を引いています。これが実に面白い線だと考えることが出来るんですね。
 それは同じ図−Bに収めた「九条御領辺図」でわかります。細かい格子線は平安京の都市計画の線で道路の名前がいっぱい書いてあります。下半分の文字がひっくり返った少し大き目の格子は条里制の里と言う単位区画の線です。
 そのなかに丸で囲った「大縄手」と書かれた文字があります。縄手と言うのは何かと申しますと四条縄手とか色々ありますが、結論的には低湿なところに土手状に高まりを造って上を道路にしたものを言うのです。そういう縄手のうち特に大縄手というのですから、重要な縄手であると書いてあることになります。それもその筈、この大縄手の右側に丸で囲った文字は「山科口」と書いてある。
 つまり、こっちへ行けば山科へ行くというそういう道路なんですね。普通、京都から山科へ行くのは今は三条から出て行きますから、これが昔からの道路だと考えている人が多いようですが、平安京の正門は羅城門なんですね。そこから出るのでなければおかしいんです。東寺を造り西寺を造り東西の鴻臚館という迎賓館を都の南部に造っておりますのに、三条辺りから人が出入りしたのではつじつまが合わないし都の沽券にかかわる。要するに羅城門から出て500m程南下し、東へ折れるのが山科へ行く道で、その続きは伏見の大亀谷を通ったのか、あるいは東山三条近くへ戻って東へ行ったのか、必ずしもよくわかりませんがとにかくこれが山科道なのです。そうするとこれは東海道、東山道、北陸道なんです。大縄手はそういう要路なのです。

 一方同じ大縄手を西へ行きますと面白いことが分かります。図−Bの地形図の中程に矢印を下から示し線を切ってあるところが下津林というところですが、この下津林集落の中の道路にぴたっとこの線が乗って行きます。さらに少し先へ行くと樫原の村の中の道路に入って行きます。これは非常に面白いことで、これで何故樫原の集落がそんなところに出来たのかということが説明できるんですね。
 樫原は江戸時代の宿場町として有名ですけれども、西縁の丘のちょっと低いところ(下向の左の矢印)を越えて平野に出てきた道路が100m余り北へカーブして樫原集落の中に入ります。どうして道路がこんな具合に曲がっているのか? 西の丘から出てきた勢いで真っすぐ東へ進むのならわかるが、不自然に曲がっています。不自然ということは自然でないということで、自然でないということはすなわち人工的だということ、人間がやったんだということになります。では何故人はこのように曲げたのか? それは最初に大縄手という計画道路があったからなのです。条里地割の一本の線上に計画道路が設けられ、それが生き続けている間にそれに沿って家が付きます。そうするとこの道路は動けなくなります。まだ大縄手が生きている間に下津林の家が何軒かそれに沿って建ちます。するとこの道路区間も動けなくなります。現代の圃場整備でも集落はいじりません。動かせないんですね。そういうわけで家が貼付いた道路は生き残る。それ以外の区間は時代が変わると無くなってしまうことも稀ではない。特に平安京が東北の方へ引いていってしまいましたから、もっと近道でそれとつながることになり、桂を通って七条から入ってゆく道路になるわけなんですね。始めは正面=羅城門から出てきちっと西折して行く道路があって、それがそのまま機能している間に樫原、下津林の集落ができたことが分かる。
 これは山陰道です。この西行する山陰道と、東行する東海道、東山道、北陸道併用の道路が大縄手で、それと南京極の間が、京の東・西・北で認めたのと同類の空間に相当するのではなかったかと考えるわけですね。そうすると北と南でその空間の幅が違うじゃないか。北は400m幅、南は500m幅という違いがあることをどう説明する? となりますが、それは問題ではないと思っています。北と南は上下の関係にありますから対称的でなくても説明が出来る。上がる、下がる、つまり北の方に天皇がいますからそういう観点で説明出来、少々幅が違ってもこれは問題でない。これに対して、東西は対照的でないといけない。左右は同格ですから同じ距離でないと駄目だ。それで共に約400m京極との間の幅がある。ということで結論的にはこういう空間が平安京の回りにオブラートのように都を包んで存在したのではないか? これは非常に綺麗にいうと平安京の外回りのグリーンベルトである。非常に即物的にいうと平安京の墓地なども含めた終末処理空間である。そういう解釈でいいのではあるまいかと・・・そこまで構想された都市計画が平安京計画だったのではないか? というふうに私は思うわけであります。
 さらにこの都市計画がですね、平安京の回りを取り巻く「四つの神」の配置に絡んで来るのではないかということを申し上げたい。都を造る時、北に山、南に池、東に川、西に大道、こういうものが配置されている姿を四神相応といいます。四つの神に守られたところがよい土地であるという観念です。しかしこれは特別な観念では無いんですね。
 つまり北に山があってそこから水が流れ出てきて、それが南に大きな池やら湖を造って道路も通じている・・・ということは南向きの豊かな平野であるということにほかなりません。四神相応というのは少し大げさで「本来非常に好ましい人間生活の場である」と理解した方がいいと思うんです。
 とはいってもそのあり方を神に託して構想したことは確かで、つまりは、古代には神を常に考えながら都を造ったことは間違いないわけです。
 そうした考え方の都造りが平安京まで時代が下がって来た時には、どうやら四つの神も都市計画の中に組み込まれてしまったんではないかと思われるふしがあります。まず鴨川ですが、この鴨川は「青竜」という神に擬えられた。ならばそれに対して「白虎」はどれかが問題になる。従来は山陽道とか山陰道が白虎であると言われていたんです。この見方は誰かが言い出し多くの学者が受け売りし殆ど異を唱える人がいなかった。そのあたりが私は不思議で、それはどう考えてもおかしい。私の考えからいうと山陰道とか山陽道は、羅城門から出てまず南へ行く。山陽道も山陰道も京の西の道ではないのです。百歩譲って、山陰道や山陽道が西の国を指す道であるから、という考えを認めるとしても、それでは青竜の鴨川と対称位置でないし、だいいち両者はスケールが違いすぎる。結論としては私は先に触れた蚕の社の南に南北に伸びる50m幅の帯状の土地を「白虎」に擬えられたものと考えているのです。それは、先に御室川の人工河道として話を進めましたが、ここでその考えをにわかに変えます。そしてこれを「木嶋大路」という名の大道であったとします。それに関して図−Aの中程よりやや右に枠で囲んだ文書があります。一見、難しそうな文書ですが大変単純な文書で、文書の標題は「神道光景田地売券案○出雲宍道文書(しんじみつかげでんちうりけんあん)」と読む筈です。「神道」はおそらく「しんじ」と読むと思います。「限東木嶋大路」「限西類地」と書かれ四至の南北は分かりませんが東西が分かります。「この土地は神道光景相伝の私領なり。而して今要用あるによって直銭二十貫文、云々」とまあそういう具合に売り渡す土地の売券であります。そして最後の行に「この田地二反は仁和寺本寺の湯田也」と書いてある。要するに売り渡す二反の田の東を限るのが木嶋大路という道路であると書いてあるのが大事です。東を限るのですから、この道路は確実に南北方向の道路でなければなりません。
 では木嶋大路の木嶋とは何か? 蚕の社の本名が木嶋座天照御魂神社なんですね。そうすると木嶋大路とは木嶋神社の前面の南北大路であるという可能性が非常に高い。さらにこの売買をした土地が仁和寺の本寺の湯田である。仁和寺は木嶋神社の真北にあるんです。図−@をご覧になれば仁和寺の場所がお分かりいただけますが、雙ケ丘の北に仁和寺があります。 
 しかしたった一つだけ問題がありました。この文書は出雲に宍道湖というのがあり、その出雲の宍道文書です。もし京都の土地の話であるとしますと、どうしてその売券が出雲へ行っているんだろうという問題が生じます。これは暫らく説明できなかったのですが、最近になって「神道光景」を「しんじみつかげ」と読めばよいことに気がついて、氷解しました。
 つまり仁和寺本寺の湯田を、神道光景が譲り受けそれを売ったと、まあそういう形ですから「宍道文書」にこの記録が入っていて当たり前で、控えとして残っていた訳ですね。いずれにせよこの文書の内容は蚕の社辺りの話だとわかる。そうすると、社前の50m幅の帯状地を川だ、川だと言っていましたのを考えなおす必要が生じることになる。結局、ころっと方向を変えましてその帯は木嶋大路だったと今では考えています。じゃあ先刻からの話が辻褄が合わないじゃないか? 四堀川同時並行設定という考えはどうなる? といわれそうですが、その道路=木嶋大路の一番西の端に御室川を流した。あれは小さい川ですから、幅は50mもない。しかし計画河道として大路に沿わせた。東の鴨川に対をなす西の50m幅の帯状地は大道であったという風に考え直しております。四つの堀川という考え方は変わっていないんですが、ともあれ基本的にはこれは道路である。そしてこれが白虎である。というふうに考えています。


それでは次に玄武は何か?

 平安京に関しては、都市計画に取り入れられた玄武というのはおそらく船岡山であろうと考えられるんですね。玄武というのは黒で要するに源流、一番の源であるということです。
 大きく見ますとこの北山全体が玄武にほかならないのですけれども、鴨川や木嶋大路のレベルでそれを都市計画の中に取り入れたという観点で見ると船岡山と考えざるを得ない。図−@を見ていただきますと平安京の中心線の北延長に船岡山があります。
 これはやはり大変注目すべき山でして、この船岡山の中心を平安京の中心線が通るということと、船岡山の頂上から一条通りまでの距離、この距離が宮殿地区の南北距離と等しいというそういう計画が、これは私ではありませんでずっと前から研究者のみなさんがおっしゃっていることでありますが、そういう都市計画上の位置を占めております。
 そしてさらにこの船岡山の真東のところに、図−@で丸印をして神社の記号を囲ってありますが、これが「玄武神社」という神社です。玄武神社は平安京造京時の神社ではありません。平安京が出来て暫らくしてからの神社ですから、これが都市計画にかかわったと見るのはちょっと乱暴なんですけれども、しかし、この辺りが「玄武の地」であるという観念があったことはこれから言えます。この玄武神社の祭神は惟喬親王です。惟喬親王は文徳天皇の第一王子で、この人は次の天皇になるべき地位に、本当は置かれていたのです。しかし、実際は遂に天皇になれなかった。それはこの人が5〜6才の時に二番目の子供が生まれ皇太子になってしまったからです。このため天皇になりそこなったんです。何故ならこの親王の母親が紀氏の娘だったから。紀氏は洛北辺りに大きな地盤を持つ立派な氏族だったのですけれども、なにせ二番目の子(弟)は藤原氏の女の人が母親でしたからかなわない。ために弟が皇太子となり、惟喬親王その人は天皇になりそこなって、4〜5代の天皇を見送り、いわば恨みを残して死んでしまう。紀一族としてもこれは残念で仕方ない。それで都を守るとか何とか言いながら、ここに恨みを残したその人を祀って神社を造ったと考えられるのです。それが玄武神社なんですね。そういう風な経緯のある神社ですけれど、いずれにしてもこの辺りが玄武という観念があった土地ということを示しております。船岡山が玄武であったという根拠のひとつは、玄武神社がこのように近接して成立したからであります。
 次に南の方に目を転じますと巨椋池という大きな池があります。これが「朱雀」であると言われ、今でもいろんな本にそう書かれていますが、否そうでない朱雀もあるんではないかというのが以下の私の考えです。
 図−Bの下辺真ん中の地図中に「横大路朱雀」という地名が書いてあります。こんなところに朱雀という地名が残っているのです。
 淀へ向かうかつての国道1号の途中に田中神社という神社がありそのお宮さんの東裏の方が横大路朱雀で、この辺りは京都の南の方でも一番低いところです。私はこの辺りに池があったんではないか? 人工的な池が造られていて、それが朱雀であったのでないだろうかと見ています。何故かといいますと、この小字朱雀のところは平安京の中心線を真っすぐ南へ伸ばしたところにピタリッと当たります。おまけに羅城門のところから丁度10里という、びっくりするような位置にあります。以上のようなことをいろいろ考えまして、要するに、私としては平安京にはこのように外周を含む計画があり、鴨川、それと木嶋大路、船岡山、そして朱雀の池(小字)をすべて設計図上にのせて四神相応という形を都市計画として実現したと考えるのです。その全体を取り巻いて三山がカバーしている。その北山は全体として玄武。そしてこういう形で平安京の安寧を願って造られたんだと解釈できるのではあるまいかと思っています。
 細かいことに関しては色々問題がありますが、先程からの説明をまとめると上のようになるわけです。一つ付け加えますと、鴨川は九条を越えるまでいかにも真っすぐ流れ続けているかのようなことを私は言っていますが、どなたもお気付きの通りこれは曲がっています。四条の辺りから南南西へまがってゆきます。何で曲がるの? と言われても暫くは答えられなかったんです。これはちょっと難物でしてね。しかし次のような考えで説明できるかもしれない。方位論をやっている外国の学者が何人かいますが、その内の一人で尹弘基(ユンホンキ)という韓国出身でニュージーランドのオークランド大学の先生が日本へやってきて、鴨川の曲がりについては「上手く説明できない」ことを正直に申しますと、彼は即座にですね「いやそれは大丈夫だ」と言うんです。何故かというと「これは青竜である。竜は真っすぐになって伸びていたらこれは死んでいるんで、死気を表す。死んだ神さんでは駄目だ。活気を表すためにはこう曲がっていなければならない」と言うんですね。実際、蛇が必死に逃げる姿は活気の最たるものですが、あの姿はまさに「蛇行」そのものです。それと同じで「何処か曲がっていないといかん。これは活気を示すために曲げたんだろう」という「解釈」を示してくれました。これが正しいか誤りかは分かりませんが、私にとっては非常に都合がいいのでこれは借りることにしているわけです。まあそんなことも含め、平安京の計画というのはこういう具合に理解したらいいのではないかと思っているわけでございます。

 北の方の話をもっとさせてもらわなければと思っていましたが図−Cに形ばかりで大変申し訳ありませんが北山の図を示しました。左上の方に雲ケ畑がありそこを流れている中津川などの位置もお分かりいただけるものと思います。平安京の北にはこれだけ豊かなふところの深い山があるから、これで平安京がいわば安心して立地し得たということがお分かりいただければ幸いです。右下隅に玄武の絵を入れています。言うなればこれは玄武の会のシンボルマークみたいなものです。中国の皇帝の一人のお墓の瓦紋ですが、これが玄武の形です。玄武と言うのは亀の頭が蛇になっている想像上の動物です。ついでながら玄武の武は何故「武」なのか? 「青竜」、青い竜というのは分かります。「白虎」、白い虎も分かります。「朱雀」、朱い雀(とり)と書きこれも分かります。
 ところが「玄武」は何故動物ではなくて「武」なのか分かりませんでした。今日お話しするに際して、そういう質問があるかもしれない。その時答えられませんというのはちょっと恥ずかしいもんですから、数日前、諸橋徹次の『大漢和辞典』を引いて見ました。そうすると若干目が開けました。これは亀であって蛇なんですね。でこんなのは実在しない。そういう名前の動物はありませんから動物の名前を付けようがない。亀は甲羅を着ています。蛇は鱗が付いています。だから鎧に似ているということで、「武」という表現が生まれたらしいのです。
 以上、大胆なことも随分申し上げましたが、今日は気楽な談話会と言うことでかなり思い切ったおしゃべりをさせていただきました。お叱りやらご批判あるいはご質問などもお在りかと思いますが、予定の時間が参りましたのでここで話を終わらせていただきたいと思います。

             ご静聴ありがとうございました。

 

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