最近では言及されることも少なくなり、若い方は知らないかもしれませんが、 今西錦司といえば、かつては「別格」のナチュラリスト。大変な大物でした。 並べるとしたら南方熊楠あたりか?というイメージ。 こうした大人物になるといろいろな逸話が付き物です。
(前略)… サル学者たちが集まって、類人猿と人間とでは雑種ができそうだ、チンパンジーで実験したいけど、できたコドモの戸籍はどうしよう、なんて話をしていると、隅のほうにいた今西錦司先生が身をのりだしてきて「おい、ゴリラはおれにヤラセロよ!!」 …(後略)
この話、私も、いつどこで読んだのか聞いたのかはっきりしないものの、前からなんとなく知っていました。 しかし、どうもガセであるようです。以下に今回調べたことをメモしておきます。
まず、上の引用部分は数学者の森毅が「京大で見聞したエピソード」として書いているものです。初出は「SF宝石」1980年12月号となっています。エッセイの冒頭が湯川秀樹と食事をしたときの話で、それと双璧をなすものとして、今西の話が「関係ないけれど」と断りつつ、短く「紹介」されています。
このエッセイを引用している本もあるようです。森毅から聞いたとして、「」で囲って、上記引用部分とほとんど同じ文章が書かれているようです(未確認)。
さて今回、この件についての今西自身の発言をみつけました。対談本です。 森毅がどこに書いていたのかもこれで知りました。こんな感じ。
今西 人間とチンパンジーのDNAは一パーセントの差やというの、あれは分子進化やな。
米本 人間とチンパンジーはこんなにちがうのに、DNAの次元では一パーセントしかちがわないということは、行動も含めた表現型の差異はDNAの差異とパラレルではない。
柴谷 行動なども含めた表現型の差は、DNAの差とは同一の尺度ではいえない。だからあれは危険なところへ来ておって、次には、人間とチンパンジーやゴリラのあいの子をつくらんとどうにも解決がつかんと考えるところまできているみたいな感じがする。ある時、みながそういう話をしていたら今西さんが出てきて、やるのやったら、わしにいちばん先にさせよと言われたという話があるけど(笑)。 今西 そんな話は言うてへんぞ。それはだれかほかのやつが言いよったんや。
柴谷 そういうふうに森毅さんあたりの書いたもので誤伝されておりまして。
米本 京大の霊長研でゴリラと人間のあいの子を作ろうとしていたといって、少し前、読売新聞が一面で扱いました。そういういことをやろうとした人が、かつていて、やめさせるために、「自分の精子を使って仮に生まれたら、それを自分の子供と認知するか、そうだったらやってもよい」と言ったら、さすがにやめたと新聞には書いてありました。
柴谷 そしたら今西さんが言われたというのは、話をおもしろくするためのあやですかな。
まあ、そういうことなんでしょうね。今西がビビってウソついた、…ともあまり思えないし。
上の対談にある「読売新聞の記事」についても判明したので書いておきます。 オンラインデータベースは素晴らしいですね。図書館で使わせてもらったら一発で出てきました。 読売新聞 1983年4月23日 夕刊1面 『「サル人間」の計画あった 人間の精子をチンパンジーに 京大霊長類研究所で判明 「神を冒とく」説得で中止』 という記事です。
これによると、この伝説のもとになった話は実際にあったようです。記事中にある、当時の霊長研教授の河合雅雄の発言です。
「確かにそうした動きはありました。けど、十年ぐらい前のことなんですよ」
河合教授は淡々と続ける。
「”混血児”が生まれた時の社会的混乱を考えて、とんでもないと研究者を止めた。結局、『生まれたら自分の子として認知するか』と迫ったら、彼も断念しました」
ということで、ゴリラでなくチンパンジーである以外は、対談本の米本氏の説明とほぼ同じ。十年前とありますから、70年代初めころかと思います。京大界隈で話が伝わるうちにお話ができていったのか、森毅の脚色なのか。どちらにしても活字にして定着させたのは森毅、のようですが。先日、亡くなってしまいましたね…。
なお、この新聞記事は、医事評論家の水野肇が中央公論1984年5月号に書いた、「試験管ベビーは治療か実験か」のなかに、霊長研でのこの話があり、それをフォローして河合氏らに取材したというものです。また、河合氏が知り合いの法律学者に「生まれたら法律的にどう扱われるのか」とひそかに聞いていた、という話にもなっていて、森毅の文中にある「戸籍」云々についても、まったく根拠なしでもないようです。ただ、実はミラノでは実験して成功したんじゃないか、という話もついていて、これは…なんとも…。
この件は、この後も、盛大な尾ひれがつけられて活字になっているそうです。そのうち確認しておこうと思っていますが、とりあえずメモだけ。
この情報はつぎのページによります。ほかにも、今回は大変参考になりました。御礼申し上げます。