ポケットベル
得意先回りを放ったらかして映画を見ていたら、突然おれの胸がピピピと鳴り出した。ポケットベルだ。
まわりの人目を気にしながらあわてて取り出し、内容を見る。
奇妙な数字がならんでいた。
5642194
電話番号なのだろうが、まるで覚えのない数字のならびだ。どう区切るのかもよくわからない。市外局番を入れず区切り符号も入れない連中ははいて捨てるほどたくさんいるので始末が悪い。それにしても、桁数からすると都内の番号ではなさそうだ。といって武蔵野や多摩地区なら市外局番を入れると字数がひとつ余計になる。神奈川か? しかし神奈川方面からおれにポケベルを鳴らす奴の心当たりがない。
ああなるほど、これは東京03の市外局番に3を加えてみれば辻褄が会う。たぶん古い番号をそのまま入れたのに違いない。だれだか知らないが、新局番が施行されてからずいぶん経つというのに未だにこんな粗忽なことをしているとは、のんびりした野郎だ。文句を述べ立ててやろう。
暇つぶしに入った退屈な映画への未練を瞬時に断ち切ると、おれはロビーに出て緑色の公衆電話にテレフォンカードを挿入する。
聞き慣れない女の声が答えた。
「もしもし」
愛想など二十代の前半に使い果したとでも言いたげな不機嫌そうな声だ。おれは少々がっかりした。
「あの、篠原ですけど」
「は?」
これだ。ひとのポケベルを鳴らしておいてこれだ。鳴らした本人が電話をとらないという例はたしかにままあるが、それならそれで電話を取りそうな人物にこれこれこういう人間から電話が入るよと説明しておけばいいだろうに、こういうことがあるからポケベルというのは嫌だ。時には喫茶店などから入れてくる奴もいるので、そういう時は本当に往生してしまう。電話を取ったウェイトレスにベルを鳴らしそうな奴の名前を片っ端から列挙して何度も呼び出しをさせたという間抜けな経験も一度ある(自分の名前を告げて呼び出してもらえばいい、と知ったのは後のことだった)。
「あの、篠原なんですけどね。ポケットベルが鳴って、そちらの番号が入っていたので電話したんですけど」
「はあ?」
電話の向こうの中年婦人は一層声に刺を突き出した。腹の立つおばはんだな、こいつは。こっちだって好きでてめえに電話かけてんじゃねえや。こいつはきっとドラムカンのような体型をして壜底のような眼鏡をかけた、目が細くて体臭のきつい四十過ぎの糞婆ァにちがいない。
「だからそちらに私を呼び出した人がだれかいるはずなんですけどね。ちょっと聞いてみてもらえませんかね?」
どうもこう、イライラしてきた。おれは気の長い方じゃない。
それにしても妙だ。しんとしているので喫茶店やどこかの店、ということはなさそうだが、オフィスにしても妙な感じがする。なんだかカッチコッチと古臭い時計の音がするのは、もしかしてだれかの家かなにかなのか。
「うちは今あたし一人なんですけどねえ」
と嫌味ったらしい声が応えた。
え? とおれは聞き返す。
「失礼ですけど、そちらはどちらさん?」
間抜けな問答だが仕方がない、と思って聞いたら、実にこの憎々しい答えが返ってきた。
「そんなこと簡単に答えるわけにはいかなしでしょうに。あんたさんがどなたさんかもわからないのに」
当然のことだろうとでも言うように糞婆ァは吐き捨てる。そりゃそのとおりだ。まったくもっともなことだ。あんた以外のだれかにこの台詞をいわれたら、おれも納得できるんだがな、この糞婆ァ!
「あの、ほんとに失礼なんですがね、おたくの旦那さんが私を呼び出したのかもしれないですし」
となかば憤然としながら言うと、こともあろうに、
「あたし、独身なんですけど」
という答えが返ってきた。へええええええ、そりゃお気の毒。その年で独身とは、そりゃ愛敬も使い果して当然のことだわなあ、などという感想はおくびにも出さず、おれは詫びを言って電話を切った。
どういうことだ、これは。単なる番号の入れ間違いか、それとも悪戯の類か。可能性としては五分五分だろう。悪戯だとすれば、まあ可愛い部類だ。この前なんか、見慣れない番号が入っていたので、だれなんだろうと思いつつ電話したらテレクラの女性専用電話につながってしまい、ヤクザみたいな奴に凄まれてしまった。この手の悪質な悪戯はだれがやっているのか見当がつく。
つまらない映画を改めて見る気にもならず、おれはそのまま映画館を後にした。とそこへ再び、ピピピとベルが鳴った。
今度こそ正しい番号を入れてくれよな、などと思いつつ取り出して見れば、さっきのとは似ても似つかぬ数字のならび。とはいえ、今度の番号ははっきりと見覚えがある。しょっちゅう公告を発注してくれる大のお得意様だ。市外局番を省いてはいるものの、区切りのところにきちんとハイフンが入っており実にわかりやすい。皆こういう風にしてくれればいいのだが。
ただし、今度のメッセージには電話番号の後に空白ひとつおいて「49」という数字が加わっている。「至急」の読みかえだ。この手の読みかえをする奴も結構いる。カタカナでいいから日本語が入るタイプのポケベルならこういう、ともすればややこしくなりがちな手続きなどいらないのだが……。
と、そこまで考えてはっとした。そうか、さっきのも読みかえなのかもしれない。
メモリをさらってみると、出てきたぞ、これだこれだ。
5642194
背筋にぞっと悪寒が走る。
コ・ロ・シ・ニ・イ・ク・ヨ
……たちの悪い冗談だ。一瞬恐怖に震え上がり、しばし呆然とし、次にはむらむらと怒りが沸き上がってきた。実にたちの悪い冗談だ。犯人の見当もつく。山田三平にちがいない。あの野郎、なめた真似してくれるじゃねえか、効果は抜群だったが、そのかわりただではすまさねえぜふふふふふふふふ。
至急の用事を片付けてからじっくり料理してやろうと得意先に連絡を入れたら、なんのことはないチラシの注文だった。会社に電話を入れて手続きをすませ、おれはニヤリとほくそ笑みながら電子手帳を取り出した。この時間なら山田三平の奴は飯田橋の喫茶店だなふふふふ待っていろよ。
呼び出し音二回で若くて歯切れのいい声の姉ちゃんが店名を告げた。この姉ちゃんだ、山田の野郎が熱を上げているのは。ふふふふふふふふ、最高のセッティングだぜ、三平ちゃんよ。
「やあ、お姉さんいい声してるねえ、今度おれとデートしない? あ、そう。まあいいや。ところでそっちに山田三平って来てないかなあ。ちんくしゃ丸顔出ッパラの足の臭そうな男なんだけど。そう、山田三平。しょっちゅう出入りしてるらしいから、すぐにわかると思うんだけどなあ。いる? あそうラッキー! いやあ、実は内緒の話なんだけどさあ、その山田三平がそこのウェイトレスに熱あげてるらしくてねえ。ねえ、そんなにいい女、いるの? え? ウェイトレスはひとりしかいない? じゃあお姉さんがそうなんだあ。へえええええ知らなかったなあ。いや、でもまずいなあ、このことは山田三平には内緒ね。ね? ねね、ね? ところで、お姉さん、彼のことどう思う? そ、山田三平。うん、そういう名前なの彼。嘘みたいだろ? これがほんとなんだよなあ。で、どうなの? え? タイプじゃない。いやいやいやいやそうだろうねえええ。いや、三平には悪いんだけどね、実際、ねえ。あっこのことは三平には内緒にね。うん、わかってるよね。うん、山田三平にはね。ところでさあ、お姉さん名前なんての? え、教えてくんない? うん、そりゃそうだ。初対面の相手にはねえ。え? まだ会ってもいないって。あ、そうかそうか。でもさ、ほんとに今度デートしない? ダメ? まあいいや、今度そっち寄せてもらうからさ、そん時ゆっくり話そうよ。ね? あ、それからついでに山田呼んでくれる? そ、山田三平。うん。よろしくね」
ういひひひひひひひひひどんなもんだい山田三平! ついでに断っておくと、この三平という名前は本名ではない。おれが奴につけたニックネームだ。本人はこの呼ばれ方を心底いやがっているのだが、おれがあまりにも三平三平と連呼するものだから社内でもすっかり定着してしまって、ほとんどの奴が山田三平が本名だと思いこんでいるのだ。三平はこのことを根にもってことあるごとにおれに陰険な嫌がらせをするのだが、本人は匿名でやっているつもりでもおれにはお見通しだ。ざまあみろ、三平め。余談だがおれはこの手の本人が嫌がるニックネームを人口に膾炙させるのが得意だ。今用意しているバリエーションに三太郎というのがあって、会社にフジという名字の奴が入ってきたら定着させてやろうともくろんでいるのだが(女でも)、なかなか都合よくそういう名字の奴が入ってこない。残念だ。
受話器に耳をすましていると、遠くからしきりに「ぼくの名前は三平じゃないからね、ほんとだからね」と弁解する声が聞こえてくる。ざまをみろ三平、けけけけけけけけ。
「もしもし」
と景気の悪い声におれはめいっぱい明るく、
「よお、三平! そんなとこでさぼってんじゃねえよ」
「篠原せんぱあい、その三平ってのやめてくださいよお、お願いだから」
「ばあか、てめえ、三平は三平じゃねえかよ。おめえ、この名前聞いたらだれだって一発で名前覚えてくれるぜ。あこがれの彼女にももう二度とおまえの名前忘れねえよう、たっぷりふきこんどいてやったからよ。よかったじゃねえかよ、感謝しろよ、三平」
「もおお、やめてくださいよお、ほんとにィ。ふられちゃったら先輩のせいですからねえ」
とすねた声を出す。ばかやろう、てめえがそんな声出してもちっとも可愛かねえよ。それにてめえは最初っからふられてんだよ、この馬鹿! 身のほどを知れってんだ。
「それより先輩、なんの用なんですか? お金はありませんよ、今月はおれピンチで」
「ばあか、すっとぼけてんじゃねえ、この野郎。ネタはすべて割れてんだぞ、タゴ。妙なメッセージ、ポケベルに入れやがってよ、いいかげんにしろよ」
「はあ? なんのことです?」
これだ。
「馬鹿野郎、てめえこの、わかってんだぞ。殺しにいくよ、たあ秀逸じゃねえか。なかなかよくできてんぜ、ぞっとしちまったわ」
と水を向ける。三平は単純だからちょっと誉め言葉をまぜると、えへへへへそうですかあ、ぼくもそうじゃないかと思ってたんですけどねえと来る。馬鹿め。
と思っていたら、予想に反する反応が返ってきた。
「はあ、殺しにいくよぉ?」
間延びした声出してんじゃねえ。
「とぼけるなよ、おい。おまえだろ? ポケベルに入れたの。わかってんだぞ、この」
と優しい声を出して誘導したが、
「いやあ、なんのことだか。ポケベルに入ってたんですか? 殺しにいくよって。……56…3……アレッ?」
「5642194だよ! てめえで入れといてとぼけてんじゃねえよ」
「いや、おれじゃないっすよ。ほんとですって、信じてくださいよお」
だれがてめえなんぞ信じるか、このスッタコ野郎。とはいえ、この調子じゃどうやら犯人は山田じゃないかもしれないな。こいつのトボケ方はもっと不器用ですぐわかるしなあ。となればちょっとひどいことしちまったかな? うーん……ま、いっか、どうせこいつはフラれる運命にあったに決まってるんだ。
うだうだと自分の無実をならべたてる山田にわかったわかったと生返事をして受話器を置き、おれは考えこんでしまった。
山田三平でないとしたら、いったいだれが……?
時計を見てみると、ぶらぶらしながら帰社するにはちょうどいい時間帯だ。おれは駅に向かうことにする。なに、人に悪質な悪戯をしかけて喜ぶ手合いははいて捨てるほどいるんだ。べつに気にするほどのことはない。
と、背筋に悪寒が走り、おれはふりむいた。交差点の手前だ。信号は赤。一瞬、背中を押されるような気がしたのだ。気のせいだといわれればそれまでだが、おれは勘だけはいい。
目の端に、角を曲がってビルの影に消える格子縞の背広が見えた。ひどくあわてていやがった。奴か?
どうも気持ちが悪ィな。殺意を感じたぞ。気のせいならいいんだが。それにしても、あの後ろ姿にはなんとなく覚えがある。どこだったかな……。
しかしそんなことは駅のホームについたころにはすっかり忘れ果てていた。
死神は人の油断をついて現れる。
すべりこんできた中央線の電車が目の前に近づいてきた時、おれは再度強烈な殺意を感じた。
今度は、身構えるひまもなかった。
ぐんと強く背中を押され、おれは線路に転がり落ちた。
運転手が両目を見開いておれを見つめるのがはっきりと見えた。
死を覚悟した。同時に、身体が動いていた。
この時ほど、自分の反射神経に感謝したことはない。脳天に突き抜けるようなブレーキ音を背に、おれは這い上がったホームにへたりと腰をついていた。
駅員が数人、わらわらと走り寄ってくる。無事を確認する言葉が事情を問い正す質問に変わり、それに非難が混じり始めたころ、おれはやっとのことで周囲を見回す余裕を取り戻していた。
格子縞の背広は見当らなかった。畜生、いったい、どこのどいつだ……?
会社に帰って山田三平のまぬけ面をふんづかまえ、おいおまえ本当に知らないんだろうなと凄んだらきょとんとしてやがる。こりゃ本当にこいつは無関係だな。
先輩おれ本当にフラれちゃうかもしれませんよどうしてくれるんですと泣きっ面で愚痴をこぼす山田を適当になだめながら、おれは帰宅の用意をする。酒の一杯も奢りつつ思う存分愚痴をきいてやるべきところだろうが、なにせ命がかかってるんだ、そこまでの余裕は今のおれにはねえ。よしよし希望を捨てちゃあいけないよと露骨な慰めを置き去りに、おれは会社のビルと山田の不景気なツラを後にした。
一杯ひっかけていきたいところだが、泥酔状態を襲われでもしたらことだから素面でいようと地下鉄の駅に直行する。
命を狙われるような覚えはない、といいたいところだが、人間どこで恨みを買うかわからねえからな。
という決心も束の間、地元の駅で降りた時点でおれは記憶喪失一歩手前の悪質な酔っ払いと化していた。ああ、意志が弱ェ!
こんなおれでもよかったらあ〜、嫁でもなんでも来やがれよお〜、とわけのわからない即興の歌を歌いながら漫画の酔漢よろしく右に左によろよろと歩いていると、背後から一定の感覚をおいて着いてくる奴の足音がする。出やがったな。
鉄骨剥き出しの掘り下げになった工事現場のわきで、おれはくるりとふりかえり、
「やい、このやろお、おれになんの恨みがあるってんだってんだってんだっ」
と怒鳴りつけたら、目を丸くした見知らぬきれいな姉ちゃんが
「はあ?」
と恐怖と困惑の表情で問い返した。あれ?
いやあ、すいません、おれの勘違いです、許してくださいところでお茶でも飲みませんかとしどろもどろに弁解しながら手をのばすおれを、狂人でも見るような顔で避けながら、姉ちゃんは足早に立ち去っていった。悲鳴を上げられなかっただけましか。ははは。なんだか急に気分が悪くなってきたな。
掘り下げの薄暗い工事現場にげろげろとやっていると、再び死神が背後に忍び寄ってきた。どんと背中を押される。
もちろん、おれは同じ間違いは二度とおかさない。なかば予期していた襲撃にぐいと足をふんばり、すかさず振り向いて死神の顔を見る。
「うわはははあ、見〜た〜ぞ〜〜」
これだから酔っ払いは。
縞背広の顔にはたしかに見覚えがあった。山田三平とは違うが、似たような種類の間抜け面だ。しかしどこで見たんだっけかな。
と考えていたら、すううううっと視界が変化していく。どうやら回転しているらしい。こりゃまずい。
一転、風景がしゅっと上方に流れ、次に頭部を主体として壮烈な衝撃がおれを強襲した。目が回る。地球が回る。こんなぐるぐる回る家欲しかねえや。なんのことだ。
いつつつつつ、と間抜けなうめきをもらしつつ、頭を押さえながら半身を起こした。実は痛みなどほとんど感じていない。酔った勢いで感覚が阿波踊りしているのだろう。明日の朝が恐い。
中央線沿線のサイコキラーはどうしたと頭上を見上げてみると、いやがった、こともあろうに足場を伝ってよろよろと降りてこようとしている。
こんな人目につかないところで殺人未遂野郎と対決するのか、とげんなりする反面、あんな山田三平に雰囲気の似た冴えない奴に何ができるという驕慢が首をもたげ、逃げろの三文字がおれの頭から消しとんだ。あっ、ほれみろ、足をすべらせて落下しやがった。間違いなく山田の同類だ。
大丈夫かなとうずくまる背中にのこのこ近づいてみたら、いきなり振り向いて腕を突き出してきた。常夜灯にナイフの刃がきらりと光る。からくも飛びすさって逃れたおれを、奴はくやしそうに眺めやった。フェイントだったか、あなどれない奴だ。
「やいてめえ! いったいおれになんの恨みがあるんだこの!」
と叫ぶと、
「ぼくのことを忘れたのかい、篠原くん」
ぼく、と来やがった。年令は三十後半、どう見てもおれより年下には見えねえ。
「よおく顔をごらんよ」
と言われ、なるべく殺傷圏内に近づかぬよう用心しながら奴の顔を見ると、なるほどたしかに見覚えがある。
「ああっ!」とおれは叫んだ。「おめえ、不渡エンタープライズの……!」
不渡エンタープライズとはおれのもっている得意先のひとつだ。チラシの発注は少ない、支払い期限を守らない、文句や直しを必ず入れる、と三拍子そろった不良会社だ。早く縁を切りたいのだが、忘れたころに注文を入れてくるから始末が悪い。まったく、あの会社ときたら――いけねえ、今はそれどころじゃねえんだ。畜生、どうもこの手の顔を相手にすると緊迫感が沸かねえな。
この男はたしかにあの会社で二、三度見かけたことがある。印象に残ってるのは上司にこっぴどくとっちめられてる後ろ姿だけだったから忘れてた。となると、やはりおれの直感は全面的に正しかったようだな。顔はまるでちがうが、人格は山田に生き写しのうすのろ野郎だ。
しかしこの男がなぜおれに恨みを抱いているのかはまだわからない。話をしたこともなかったはずだぞ。電話でなら、可能性は否定しきれないが。そういえば不渡ンところとは、電話の発注の件で一度もめたことがあるな。それか?
「チラシの電話番号がまちがっていた件でもめた時の、あの最初に電話をかけてきたのがあんたなのか?」
と訊いてみると、奴はにたあと気持ち悪い顔で笑い、
「半分だけ思い出したようだね」と言った。なんだ、半分だけてなあ?「そうさ、あの時、チラシの原稿の内容を間違えて伝えてしまったのがこのぼくだったのさ。おかげでぼくはあの会社を馘になってしまったよ」
「そりゃ気の毒に……」
と一瞬同情しかけて思い直した。電話やFAXだけで急ぎの原稿の打ち合わせをすませてしまうというのはよくあることだが、おれはそういう場合でも一度もミスを出したことがない。その時も電話番号が前のと違っていたのでくどいほど確認したのだが、電話口でうすらぼけた声を出す奴が大丈夫ですと何度も太鼓判をおすので原版を組んじまったのだ。始末の悪いことに、試し刷りはいいから半分だけでも至急頼むといわれていたのでそのまま五千枚刷り上げさせてしまい、いざ配送したところで怒涛のクレームが入ったという次第だ。その上絶対におれのミスではないと確信があったにもかかわらず、すったもんだの末、最終的におれの責任にされちまったはずなのだが、あの糞会社、社内でもちゃっかり馘切りをしてやがったのか。
それにしても、この手のまちがいはけっこうあちこちで起こっているものだが、それが原因で馘になる奴が出たという話は聞いたことがない。ということはこの男、厄介払いされた可能性が大だ。よほど使えない奴なのだろう。山田でもそれほどではない。
「おいおいこの野郎、あれは全部てめえの責任だろうが。逆恨みもいいところだ。それともなにか? まちがった原稿をつくったのは別の奴で、あんたはそのとばっちりをくっただけだったのかい? だとしたら気の毒だが、それにしてもおれを恨むのは筋違いってもんだぜ。え? そうだろう?」
と諭すように言うと、
「いいや、あれはたしかにぼくのミスさ」
と来た。ふざけてやがるのか?
「するとなにか? おめえは単なる逆恨みでおれをホームに突き落としたってのか?」
「そうだよ、と言いたいところだが、ちがうんだねこれが」と男はニヤニヤ笑いながら言う。会社を馘になってなにがうれしいのか。「さっき言っただろう。半分だけって。君はまだ思い出していないことがあるんだよ。もう一度よくごらんよ。ぼくの顔を」
なんなんだこいつはと思いつつ、おれはしげしげとニヤニヤしている奴の顔をのぞきこんだ。
途端、ナイフがぐわあああっと迫ってきた。
「っと! おい! こここここの野郎! 油断も隙もありゃしねえ」うろたえて十メートルくらい遁走しつつおれはわめいた。「なんなんだ、てめえは畜生! あれ以外に見覚えなんてねえぞ! もったいぶってねえでさっさと種明かししやがれ!」
鉄骨にしがみついて罵るおれに、奴は、ゆらり、ゆらりと近づきながら、なんだかいかにもうれしそうな口調で言った。
「もう十五年も前のことさ。ぼくらが小学五年の時。どうだい、思い出さないかい? 薄情なひとだねえ、君は。あんなにひどいことをしておきながら。じゃあ、ぼくの口から言うよ。断っておくけど、これは高くつくからね。なにしろ思い出したくもない苦い記憶を、ぼく自身の口から言わせようとしているんだからね、君は」
ひとを殺そうとしておいて高くつくも糞もあるもんか。能書きたれてねえで早く言え!
「あのころ君は、クラスメートにひどいあだ名をつけては喜んでいただろう?
ぼくもその被害にあった一人さ。しかも、それが原因でとんでもない失態を披露することとなって、そのあげくに転校までしなければならなかったんだよ」
「ああっ! てめえ、糞尿野郎!」
とおれは思わず叫んでいた。
思い出した。たしかこいつは小学校五年の時におれのクラスに転校してきた糞尿野郎……畜生、名前が出てこねえ、なにしろおれのつけたあだ名とそれにあまりにも見合いすぎたこいつの所業が強烈すぎるからな。
「そうだよ。やっと思い出したんだね。そうさ、ぼくは君がそのひどいあだ名をつけた山室さ」
そう、思い出した山室だ。しかし山田と名前が似てるな。雰囲気が似ると名前まで似るもんなのか。
そんなことはどうでもいいが、この山室は転校初日に、緊張のあまりかこともあろうに挨拶をする教壇の真前で糞小便を垂れ流した破格な男だ。こいつも言うとおり、当時「あだ名製造マシーン」の異名をとっていたおれは(全然進歩してねえな、あの頃から)すかさず立ち上がってはやしたて、以降「糞尿野郎」というニックネームをクラス全員にインプリンティングし、奴が転校するまでの一ヵ月間さんざん罵倒しまくってやったのである。しかもこの男はその一ヵ月間で都合三回も、教室で脱糞をくりかえしているのだ。べつに糞をしろと拳ふりかざして迫ったわけではない。いくらおれでも授業中はそんなことしない。いきなりぷうんと臭ってきたので、「糞尿野郎、おまえだろ!」と指摘したら本当に三回ともそうだったのだ。三回目など、子供ごころにもあまりに気の毒なので黙っていてやったのだが、授業が終わっても一向に立ち上がろうとしないところを別の奴に指摘されてさんざんはやされ、翌日から一週間ほど欠席した後、転校の報を耳にしたのだった。
「そうか。おまえ、山室だったのか。悪かったなあ、強烈なあだ名つけちまってよ。おまえの緊張ぶりがあまりにも人間離れしてたもんだからよお」
とわけのわからない慰め方をする。当時から罪悪感はあったのだが、謝る暇もなく転校してしまったのだ。もっとも、あの当時はたとえ転校しなかったとしても素直に謝りなどしなかっただろうが。
「しかしなあ、おまえ。そりゃたしかにひどいことをしたとは思うが、だからといって人殺しをしようなんてのは度が過ぎちゃあいねえか? まあ、今回の事件もあるけどよ。それにしても殺しに走るってのは極端だぜ。それともおまえ、なにか、あの事件がきっかけで、緊張すると糞もらす癖がついちまった、とかよ」
と言ってはははと笑ってみせると、奴は炎の噴き出てきそうな目つきでおれをにらみつけ、
「そのとおりだ」
と言った。
あ? と大口おっぴろげて間抜けなリアクションをするおれに向かって、もう笑っていない奴の顔が、
「君のご指摘のとおりなのさ。ばかばかしい話だが、君があのあだ名をつけてクラスのみんなを扇動したために、ぼくはちょっとでも緊張すると途端に腹が痛くなってきて、必ずといっていいほど我慢しきれないほどの下痢に襲われてしまうようになっちゃったのさ。先生に当てられただけで腹が痛くなってくるんだ。あの時はまだよかったさ。ぼくは極度に緊張するたちだったから、つまらない失敗をしでかして苛められるのには結構慣れていたしね。でも、下痢を我慢できないでもらしてしまうってのは……しかもそれがしょっちゅう繰り返すようになっちゃったってのは、本当につらかったよ。中学を卒業するまで、この癖は治らなかったんだからね」
それは確かに、想像するだに恐ろしい。しかし……
「君はひどい奴だよ。あれ以前もあれ以後も、たしかにうんこをもらしたことはあったし、そのたびにひどいあだ名をつけられたものだけど、君のつけてくれたあだ名ほどぼくを傷つけてしまったものはなかったんだからね。なんであんなひどいあだ名をつけてくれたんだい? 小学生が下痢をもらすことなんて、べつに珍しいことじゃないだろう?」
そうかあ? 小学五年生だぜえ? しかも、それが癖になっちまうなんて、驚異的な体質だぜえ。
「で、ででで、ででも治ったんだろ? 中学を卒業するころに」
あまりにも救われない話に少しでも光明を見いだそうとおれは言った。
「治ったさ」
おれはほっと息をついた。早計だった。
「つい最近まではね。でも、君がぼくの会社に営業にきた時に、再発するようになってしまったんだよ」
げげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげげっ! なんなんだこいつはっ!
「君の顔を見た時、一目で篠原くんだってぼくにはわかったんだよ。ねえ、チラシをつくっている会社なら他にもいくらだってあるだろうに、なんだってうちの会社なんかに売り込みにきてしまったんだい? 以前の印刷会社の人とは、ぼくもけっこううまくやれていたんだよ。それが君が割り込むようになった途端、下痢が続くようになってしまって。ぼくは君とはなるべく顔をあわせないようにしていたんだよ。君がぼくを見てあのころのことを思い出しやしないかと、びくびくしながら顔を伏せてたんだ」
なるほど、それで顔をよく覚えてなかったわけだな。
「それでも、ぼくも外回り主体だったから、あまり君と出くわすようなことはなかったけどね。でも、再発した下痢癖を我慢するのは地獄の苦しみだったんだよ。電車の中ででも爆発してごらんよ。目も当てられない」
そりゃまったくだ。おれにも覚えがある。もっとも、一度だけだが。
「でもおめえ、我慢できたんだろ? な、な、な?」
次に展開しそうな場面をなかば予測しながら、おれは祈るようにして訊いた。
「できたよ。あの日まではね」
うげげっ。予想どおりの返答だ。その先は聞きたくないっ。
が、奴は情け容赦もなく考えるだにおぞましい告白を続行した。目が鬼のようにぎらぎらと燃えている。狂人一歩てまえだ。いや、狂人そのものなのか?
「あの日、そう、ぼくが君に電話して急ぎの公告を発注したあの日さ。いつもなら君の相手をするのは課長だったし、電話をかけたりするのが専門の女の子もいたから、ぼくは君と接触することはなかった。でもその日は遅れていた報告書を作成するために、ぼくは一日中会社にいたんだ。しかも運の悪いことに電話番の女の子は休んでいたし、課長は課長で忙しそうだった。その課長が突然、君の会社にチラシを注文しとけと言い出した時には、ぼくは真剣に自殺を考えたよ。折悪しく課内にはぼくと課長の二人だけ。しかも課長はぼくに原稿を渡すと忙しそうにさっさと出ていってしまった。その時に、来たのさ。下痢が。ぼくは刺すような激痛と戦いながら、電話をかけるのを逡巡していた。課長は大至急と言っていたからね。そうこうしているうちに、課長が戻ってきてなにを愚図愚図しているんだとぼくをにらみつけ、さっさと自分の仕事に戻ってしまう」
阿呆かこいつは。課長がいない間に糞をしにいけばいいだろうに。いくら大至急だからって、あの日電話がかかってきたのは三時ごろだ、午後過ぎになっちまえばいつ注文してもできあがりの日にちは同じなのだから、ちょいと糞を流してくる暇くらいまったく影響はないのに。まあ、そういう事情をこいつが知っていたかどうかは知らないが。
「それで、ぼくは決死の思いで電話をとったのさ。その時には、ぼくの肛門はもう我慢の限界だった。口から下痢便が逆流しそうだったんだ。あの時のぼくの声、苦しそうに聞こえなかったかい?」
知るか、んなこと! ぐえええっ!
「もう頭の中はまっしろで、目の前の原稿もかすんでよく見えなかった。気が遠くなりそうだった。会社の電話番号をまちがえるほどにね。電話を切り終えた時、ぼくにはもうトイレのことしか頭になかったんだ。爆発しそうになるのを必死にこらえて、ゆっくりと立ち上がった時……会社の同僚が三、四人、セットで入ってきた。ごていねいなことに、調子が悪いから欠勤しますと電話をかけてきたはずの電話番の女の子まで一緒に、ね。……ぼくはその娘が好きだったんだ。だから……わかるだろう、その時の、ぼくの驚きが。……それが引き金になった」
うわあああああっもう聞きたくない。これはまちがいなく拷問だ。
「ぼくは……やってしまったのさ。いつもぼくをうすのろと馬鹿にしている課長の前で。ぼくひとりだけ除け者にする同僚の前で。そして、そして、ただ一人ぼくに優しくお茶を入れてくれる、ぼくの大好きな、あ、あ、あ、あの娘の前で! ぼくは撒き散らしてしまったのさ! びちびちと!!」
救いようのない話だ。が、
「ふん、そうかい」
あまりの救いようのなさに、おれはかえって開き直ってしまった。堕落墜落にもいろいろな形があろうが、これではあまりに情けない。あだ名が傷になったというのは本当だろうが、それ以前の根本的な部分でこの男には問題がある。わかりやすく言えば、おれの知ったこっちゃねえ! ってことだ。
「だからおれを殺そうってのかい。面白ェ、やってもらおうじゃねえか」
凄んで、どん、と胸を叩いてみせると、糞尿、じゃねえ山室はひくっと喉を鳴らして後退った。つくづくこいつって奴ァ……。
「どうした、来ねえのか? 来ねえってんなら、おれは帰るぜ」
と言うと、あからさまにほっとした顔をしやがるので頭にきて、
「なんてことは言わねえ」
「へ?」
「どうせ復讐をやめるつもりはないんだろう。だったら、殺られる前に殺る」
決然と言い放ち、おれはへっぴり腰でナイフをかまえる山室に突進を敢行した。
山室はうひいと叫んでナイフを放り出し、くるりと背を向けて全力疾走を開始する。かまわず追いすがり、タックルをかましてやるとあっさり倒れ伏した。
「どうしたあ、この野郎!」
腰にしがみついたまま恫喝すると、許してくださいとわめきつつなおもいざって逃げようとする。おれはがっちりと腰をつかんで離さなかった。
そのまましばらくもみあっていたが、ふいにおれは奴を解放した。
意図してのことではない。恐怖感に支配されたからだ。
異臭が、したのだ。
「うわっこの野郎! また糞しやがった!」
小学生の時そのまま、おれは罵声、というよりは驚声を上げた。
山室のズボンの尻の部分が、重くどす黒く汚れている。おれはげげえ、げげえと叫びながら上着を脱いで奴の尻に当たっていた顔や首を拭った。その間も奴は這いずりながら哀しいほど情けない速度でおれから逃れようとする。
「山室ォ!」
一喝とともに、奴は玩具のようにぴょんと飛び上がって直立した。ぴんと硬直している。きっと上司に叱られる時もこうだったのだろう。
直立不動のまま小刻みに体を震わせておれの次の台詞を待つ奴の後ろ姿を見ているうちに、おれの気分は再び果てしなくどん底へと転落していった。
長いため息を吐く。
奴め、横目でおれの様子をうかがってやがる。怯えた小動物の目で。
ぎろりとにらんでやると、あわてて元の姿勢に復元した。
おれはもう一度長い息を吐き、
「おれは逃げも隠れもしねえ」
「はっ……は?」
間の抜けた返事を無視してつづける。
「いつでも殺しにきやがれ。返り討ちにしてやる」
言い捨てると、問いかけの目つきでおれを凝視する奴に背を向け、色気のねえ工事現場から這い上がる作業に没頭した。もう襲ってくる気力は奴にはあるまい。もしあったら、まあそれはそれでおれが死ぬだけのことだ。
やっとのことで地上に登り立ち、服についた埃(と汚物)を払っていると、背後からおしころしたすすり泣きが、かすかに響いてきた。
気のせいだろう。
おれは一度もふりかえることなく、その場を後にした。
信じ難い異変が起こったのは、その一ヵ月後のことだ。
なんと、あの山田三平が結婚するというのだ。
しかも、あの、喫茶店の姉ちゃんと。
どうもおれが山田のことを三平三平と宣伝しまくったことがきっかけで、二人は急に仲がよくなったらしい。寸暇を惜しんでの濃厚なデートの末、ついに婚約を交わしたというのである。三平が自慢げに見せてくれた写真には、ちんくしゃな冴えない男の横に立つ女優顔負けのボディコン女が燦然と微笑んでいた。無論、プロポーションは天上の美だ。
「先輩のお陰ですよ。本当にありがとうございます」
いつになく明るい顔でそう告げて外回りに出かけていく山田を呆然と見送りながら、おれはなんだかほっとしてもいる自分を発見した。やはり山田の件もなにがしかの罪悪感を惹起していたらしい。
山室の姿はあれ以来見かけていない。思い出したくもない悲惨な奴だが、どうやらあれから行方をくらましてどこかへ潜伏してしまったらしい。今度こそどんな障害にも折れない強力な牙を研いでいるのか、それとも、こちらの方がありそうなことだが、二度とおれに出会うおそれのない遠隔地で、ひっそりと暮らしているのか。どちらにしろ、もうおれは奴に積極的に関わるつもりなどない。精神修養とやらを積んでなんとか一人前の男として立ち直ってくれることを祈るばかりだ。無論、奴が復讐をあきらめていないのなら、おれの言葉も現実になる。返り討ちになるか、おれが死ぬかは運と実力次第だが。
こうしておれは、今や一児のパパとなろうとしている山田をあいかわらずいたぶりながら、フジ三太郎が入社してくるのを心待ちにしている。
(了)
●使用上の注意
1 服読に際して、次のことにご注意ください。
・食前・食後には服読をひかえるようにしてください。
・本品は用法、用量を厳守して服読してください。
・本品の服読により、発疹・発赤、悪寒・嘔吐、食欲不振、めまい等の症状があらわれた場合には服読を中止し、医師又は薬剤師にご相談ください。
・服読中、又は服読後に精神の異状興奮が見られる場合は、スカトロ趣味の疑いがあります。数回服読しても回復の見られない場合は、服読を中止し、カウンセラー又は精神科医にご相談ください。
・本品は、長期連用しないでください。
・お子さまには服読させないでください。
2 次の方は服読前に医師、精神科医師又は薬剤師にご相談ください。
・本人又は両親、兄弟等がじんましん、かぶれ、スカトロ趣味、アル中、二重人格、SM嗜好、アレルギー性変態等を起こしやすい体質を有している方。
・今までに小説によるアレルギー症状(例えば発熱、発疹、排泄物摂取、痴漢行為、下着泥棒、幼女誘拐等)を起こしたことのある方。
・心臓又は精神に問題のある方。
・妊婦又は妊娠している可能性のある女子高生・OL。
・高齢者及び虚弱者。変態。
・精神科医の治療を受けている方。
3 保管及び取扱上のご注意
・お子さまの手のとどかない所に保管してください。
・直射日光をさけ、押入や使い古しパンティ等の中に保管してください。
・誤用をさけ、品質を保持するために、トイレの便器には流さないでください。
・包装ビニールを切り離す際などに、変態の原因となりますのであらかじめパンツを脱いだりしないでください。
・青木無常を見捨てないでやってください。これは単なる気の迷いです。
(平成二年五月使用上の注意改訂)
発売元 カリェリ製薬株式会社 住所不定
製造元 青木無常株式会社 住所否定
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*Mujoh Aoki Co.,Tokyo,JPN.Reg.Trade Mark
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