山田三平は困惑していた。
楢崎香奈といえば(株)霞コーポレーションでも一、二をあらそう、訂正、二位以下を奈落の底におきざりにするほどの美女である。
秘書科という肩書きも彼女の美貌と才知の前にはアクセサリー程度の効果しか発揮しないし、かといってつんとお高くとまっているというふうでもなく、だれとでも気さくに話せる人あたりのいい女性でもあった。
対して山田三平はちんくしゃ小太りのさえない兄ちゃんである。
それはそれとして、それほどの美女であるにもかかわらず楢崎香奈に恋人がいるという確実な情報はついぞ流れたことがなかった。
神秘的なかげりをもつ女性の周囲にはつねに宿命として、好奇心や嫉妬に色彩りを付与された噂の十や二十はまとわりついているもので、たとえば彼女の場合も上司や同僚などとの不倫だの欲得ずくの関係だのといった醜聞がただよっていないわけではなかったが、それらよりはどうも、特定の男性はいないという情報のほうがどうやら正しそうだとはもっとも分析的かつ客観的な意見としてとおっていた。
対して山田三平は「使えないヤツ」のサンプルとして有名であった。
それはそれとして、幾度となく果敢な攻撃をしかける自称他称さまざまなプレイボーイたちの奮闘も功を奏したという話はまるでなく、一時は楢崎香奈はレズではないのかといううわささえ立ったことがあるのだが、それもどうやら資料課の、これは正真正銘レズ女である古田姥子の流した誹謗中傷であるということが確認されている。
対して山田三平は、もう二十代も後半をまわろうとしているのに童貞であった。
もちろん、楢崎香奈と山田三平とをならべて論じようなどというもの好きはない。当の三平自身がそうだったのだ。
だからこそ、困惑しまくっていた。
数かぎりない「見果てぬ夢」にやぶれてきた経験上、山田三平は無意味な幻想など極力抱かないようおのれにいいきかせることが習い性となっていた。だからてっきり、楢崎香奈が自分のような人間にさえじつに好意的かつ気さくに接してくれるのは、彼女のやさしさのあらわれ以外のなにものでもないのだと日々肝に銘じてきたのである。
ときおり見せるはにかみのような表情や好意をにおわせるような言動なども、たんなる自分の錯覚かあるいは同情に起因するリップサーヴィスのたぐいであろうとむりやりにでも思いこんでいた。
それが今日、エレベータ内でふたりっきりになったときに楢崎香奈はその愛らしい頬をバラ色に上気させながら告げたのだった。
「今夜、デートしてくれない?」
もちろん山田三平がこういう状況にまともに対応できる道理もなかった。ひぐ、とのどをならして一瞬だけ楢崎香奈を見つめかえし、真剣な視線が必死さをこめて熱く自分を見つめかえしているという信じられぬ状況を確認する余裕さえなくぷくぷくしたその顔を真っ赤に染めて下うつむいてしまったのである。
しばらくの間、そうして山田は無言の視線をその頭頂部で必死にうけ流していたのだが――エレベータが停止する寸前、天女のようにやわらかな香奈の手が三平のぷくぷくした手をすばやくとって、その内部に紙片をすべりこませてきたのであった。
心臓ごと逆流した血液が脳天から噴出しそうな想いでふらふらしながら山田三平は、かろうじてトイレにたどりついて個室にもぐりこみ、吐き気となってぶちまけそうなほどの鼓動に懸命にたえながらおしこまれた紙片をひらいて、そこに書かれている美しい手書きの文字を目でおった。
内容が理解できなかった。
まるで宇宙人の通信文を読んでいるような歪曲感覚を山田三平は味わった。
『今夜八時、××プリンスホテルのロビーで』
紙片にはまぎれもなく楢崎香奈の書体でそう書かれていたのである。
「これは悪夢だ」
思わず山田三平はそうつぶやいていた。長年の不幸な境遇がそういう思考回路で山田三平の脳みそを短絡してしまっていたからであった。
その日一日は混乱しまくった三平にとってまったく仕事にならず、とんでもない失策を一ダースばかりかましまくって上司から罵声を、同僚からは嘲笑をあびたのだが、はたから見たかぎりではふだんの山田三平とまったく変化はなかった。
それはともかくとして、会社を退勤してから山田は凶悪な悪夢感覚に脳髄を撹拌された状態のまま、約束のプリンスホテルにむかった。
ロビーの位置がわからずにホテル内のあちこちをうろうろして不審がられること一時間、ようやく目的地に到達した三平はふかふかした長椅子に疲れはてた短躯をへたりと落としこむ。それでも約束の時間までは一時間近くあった。
そして、ひたすら待った。
これはなにかのまちがいでなければ、ぼくはからかわれているのにちがいない、山田三平は何度も何度も自分にそういいきかせながらひたすら待った。何度時計を見ても、二分以上の時間が経っていたことはなかった。
八時五分前になったときに山田は、気が狂いそうになっていた。
そして八時五分過ぎには、あまりの哀しさに泣きわめいてしまいそうになっていた。
やっぱり、たんに自分はからかわれていただけのことだったのだ、と自己憐憫の重圧に絨毯内部に埋没してしまいそうな脱力感を感じていた。
だから、
「ごめんなさい、三平さん、仕事がながびいてしまったの。待たせちゃったわね」
と天使のような笑顔とともに息をきらせて頬を上気させた楢崎香奈が出現したとき、山田三平は腰がぬけて立てなくなっていたのであった。
そんな三平の惨状をみても香奈はバカにしたようなそぶりもみせず、心配げに三平の目を真正面からのぞきこみながらしきりに彼の状態を気づかい、あげくの果て腰がぬけたままどうしても立ちあがることができないと見るや、なんのためらいもなくするりと三平のわきにもぐりこみ、かぐわしい匂いのするその肉体をまったく躊躇なく密着させて肩をかしてきたのである。
「レストランを予約してあるの。ご一緒してくれる?」
十センチと離れていない超至近距離から楢崎香奈がおそるおそる、といった風情でそうきいてきたとき、がくがくがくと人形のようなしぐさでうなずきながら三平はあやうく失禁してしまいそうになっていた。
生まれてこのかた足をふみ入れたことのないような超高級レストランでわけのわからぬ料理を食べた。もちろん味など混沌の一語でしかあらわすことはできなかったが、
「おいしいね」
と天使の笑顔で問いかけられてまたまた人形のようにがくがくがくとうなずいてみせた。
どういう会話をかわしたのかもまったくおぼえていない。ただひとつ、
「ど、どどど、どうして、ぼぼぼぼくをさそそそそってくれたのでしゅか?」
とモールス信号のような質問を放ったときにかえってきた彼女の反応だけは脳裏にこびりついて離れなかった。
ぽっ……と頬を染めててれくさそうに笑いながら香奈はそっと視線をはずしてうつむき――そしてうるんだ瞳で上目づかいに三平を見つめあげていったのである。
「どうしてだと思う?」
わ、わわわわかりませんと心中でどもりつつつぶやいたが言葉にならず、山田はその肉ゆたかな頬をぷるぷるぷるとふるわせながら首を左右にふってみせただけだった。
すると香奈はかなしげにきゅっとその形のよい眉をほんの一瞬よせてみせ、三平をぶつようなしぐさをしてみせた。
会社では見られない、子どもっぽいそのしぐさを山田三平は夢見心地でぼんやりと見つめた。
そんな三平に、
「今日はなんの日?」
わかってるくせに、とでもいいたげな、すこしすねたような口調で香奈はきいた。
もちろんわかっていた。クリスマスとともにおのれの不遇を否応もなく思い知らされる苦痛にみちた一日、バレンタインデーである。
「もう。三平さんだってチョコくらいもらったことあるでしょ」
ゆでダコのようになってぷるぷるふるえるばかりの三平を見て香奈は、頬をぷっとふくらませ唇をちょんととがらせながら、それでも笑いをその端にうかべつつそういった。
もちろんチョコくらいもらったことはさすがの三平にもある。今日だってムギチョコを三粒もらった。もらわないほうがまだましだった。
あいかわらずぷるぷるとふるえるばかりの三平を見て香奈は真顔になった。
そのつぶらな瞳に、涙がにじんでいるような気がした。
気のせいだ気のせいだ気のせいだ気のせいだ気のせいだ気のせいだ気のせいだ気のせいだ、くりかえす呪文はもはや完全に効力をうしなっていた。
山田三平は完璧に舞い上がっていたのである。
そんな三平に、楢崎香奈は瞳をうるませたまま、真顔でいった。
「たべてほしいの。わたしの、自家製のチョコを。三平さんに」
ちなみに三平という名は山田三平の本名ではない。高校時代に二年先輩の篠原に強引につけられてしまったアダ名である。高校三年間のみならず、同級生が多数進学した大学でもその呼び名は固定したままで、ようやくその呪縛から逃れられると安堵していた入社先に一年先輩で入社していたのはやっぱり篠原であった。すでに三平の名は本名よりも人格に癒着してしまっている。
それはそれとして、さきの楢崎香奈のセリフ――たべてほしいの――を耳にしたとたん、山田三平は射精していた。
もったいない、という意識とパンツをよごしてしまったという罪悪感や情けなさと同時に三平は、いまだかつて味わったことのない至上の幸福感にみたされてもいた。
もう死んでもいい。本気でそう思っていた。
「たべてくれない?」
必死の表情で問いかけてくる楢崎香奈に、山田はネジをまきすぎた人形のように壮絶ないきおいでがくがくがくと何度もうなずいてみせたのだった。
そして食事をおえたふたりはスカイラウンジに場所をうつした。
レストランをあとにしてからこっち、香奈は山田の腕をとってかかえこむように抱いて離さなかった。やわらかなまるい感触が腕から背中にかけていつまでも密着していた。
もう死んでしまいそうだ。三平は本気でそう思っていた。
最初から雰囲気に酔いまくっていたから、だされたジントニックを一ミリと消費しないうちにべろんべろんになっていた。
香奈も言葉すくなに山田に密着したまま、まるでおざなりなふうに酒杯をその形のいいくちびるに運んでいた。酒などどうでもいいという雰囲気がありありと出ていた。
そして香奈はふいに、ことりとホテルのキーをふたりのテーブルの上においた。
あう、とその瞬間三平は意味不明のうめきをもらしていた。
「わたしたちふたりの部屋よ」
ねっとりとうるんだ視線が、山田三平にそう呼びかけてきた。
「ここでたべてほしいの。わたしの、自家製のチョコレートを」
いい? と、蚊のなくような声でそうきいてきた。もちろん三平に否やのあろうはずがない。
ふたりは濃密に身をよせあったまま立ちあがり、スカイラウンジをあとにした。たどりついたさきはスウィートルーム。
高級な重いドアはことりとも音を立てずにふたりの背後でとじられた。
簡素だが高級感にあふれた調度がそこにあった。
テーブルの上に、なぜか何ものせられていない皿が一枚、おかれている。
「皿が、皿がありますね。あはは。あは。あはは」
意味もなくよわよわしく笑う三平に、香奈は笑顔をかえしながらはにかみつつこたえた。
「わたしが用意させたの。あそこに、チョコレートをおくのよ。あなたにたべてもらうチョコレートを」
いって香奈は、甘い吐息を吐きかけながら三平の肩に顔をうずめた。三平はもはや気絶寸前であった。
バスに最初につかったのは三平だった。四度、すべってころんだ。一度などはあやうく死にかけ、頭に特大のこぶをつくった。死にそうなほどの悪寒をおぼえ、救急車を要請しようかと本気で思案したが、根性でケツの穴まで丹念にみがきあげた。
かわって香奈が風呂につかっているあいだ、三平は全身が性器と化していた。指さきでもふれられれば、そのまま枯れるまで射精しつづけたにちがいない。
そしてバスタオル一枚のままの香奈が、微灯のもとに出現する。
三平はまたもや腰がぬけて立てなくなっていた。
そんな三平を見つめながら、香奈は妖艶に微笑ってみせた。
「さあ、たべてもらうわ」
瞳をうるませながら香奈は、いった。
「わたしの、自家製のチョコレート」
そしてはらりと――バスタオルを床におとした。
まぶしい裸身が三平の眼前にさらけだされる。
目がつぶれてしまいそうだった。
頭頂から白い粘液状の蒸気が噴きだしそうになった。
脈うつ血管の内部を激流しているのも白い粘液であった。
よろよろと立ちあがった。腰がくだけて幾度も床にしずみこむ。はうようにして香奈のたたずむところまで進んだ。
「思ったとおりだわ」
至福の表情とともに、香奈もいった。
「すてきだわ、三平さん。あなたこそ、わたしの理想のひとだわ」
ぼぼぼぼくもそうです、と三平はかすれた声でそういった。ぼぼぼぼぼくはあなたの、愛の、奴隷です。と。
にっこりと、天使の微笑がそれにこたえた。
わかっていたわ、と昂揚した声音がそういった。そして、
「さあ……たべて、わたしのチョコレートを!」
いうや否や――すらりとのびた両の肢をがばとひろげて香奈はテーブルに乗り――
しゃがみこんだ姿勢で、くるりと三平に尻をむけた。
いわゆる個室でのスタイルである。
桃のような尻に、三平は視線を釘づけにされた。この尻がいまからぼくのものなのだ――この期におよんで脳天気に、そんなことを考えていたのであった。
尻の下には、皿があった。
むろん、尻、皿、チョコレート、この三者をむすびつけて考えるほどの理性はいまの三平にはまったくなかった。香奈のとっている個室ポーズを妙であると思うほどの思考能力さえ欠落していたのである。
「さあ、見て!」
顔だけをふりむかせながら香奈は、感極まった声音でいった。
「わたしのチョコレートを!」
「はいっ、香奈さんっ」
三平は歓喜の絶頂をむかえながら返事をした。
人生最良の日であることを、確信していた。
チョコレート――了
作者にはげましのおたよりをだそう! チョコレートも大好きだぞ! もちろん、ほんもののチョコレートのことだぞ!