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ガジェット ボックス GADGET BOX 闇に紅
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闇に紅


 タブラの鼓音が、街路のあちこちで激しいリズムを刻む。かぶさるようにジーターラの六絃がかきならされ、腰をふりながら叫声をあげて色気をふりまく踊り女たちが、足早に通りすぎるジュニーヴルとザシャリにむけて、陽気で卑猥な誘い文句を投げかける。
 もちろん、もとからジュニーヴルはそんな声にはまるで無頓着だったし、ザシャリはザシャリでいつものごとくそれにいちいち受けこたえるだけの余裕がない。走るほどの速歩で人群れをかきわけて本庁を目ざすジュニーヴルを、見失わないようついていくだけで精いっぱいだったからだ。
「ジュン、待ってよ」
 人波の頭ごしにジュニーヴルにむけ呼びかける。憤然とした表情でジュニーヴルはそれを無視する。いつものことだ。採用試験合格基準ぎりぎりの小柄さにもかかわらず、ジュニーヴルは歩く速度が異常にはやい。油断しているとザシャリなどすぐにおきざりだ。
 街区のかなた、建ちならぶビル群のむこうに、ようやくのことで赤の波長を投げかけてくる死にかけた太陽。祭りのクライマックスの時間が近い。星船に乗っておとずれた多くの観光客をのみこんで、街はいましも破裂しそうなまでにふくれあがっている。
 だが、そんな陽気な喧噪も、ジュニーヴルには無縁だった。
 今宵にかぎっては。
 肩口からさげたストラップのさきのホルスターにおさまるレイ・ガンは、死の光条を吐きだして憎むべき犯罪者をなぎたおしてきたばかりだし、チュニックの内ポケットにおさめられたIDカードにこびりついた暴力のにおいも、いまさらぬぐい去ることなどとうていできそうにない。
 築半世紀近いといわれるラシフド市警のみすぼらしい建物の玄関を肩をいからせながらくぐり、そのままはしるようにしてIDチェックにたどりつき、いらいらと手近の窓の桟に指をうちつけながら眼紋照合が終了するのを待っているうちに、ようやくのことでザシャリが追いついてくる。
「まいったな、ジュン。今日はきみ、いつもにもまして歩くのがはやいよ」
「時間がおしいのよ、ザシャリ。あんたなんかのペースにあわせちゃいらんないわ」
 言葉に険を隠そうともせずジュニーヴルはこたえ、スリットから吐きだされてきたIDカードを受けとり、ザシャリを待つそぶりさえ見せずにエレヴェータにむかう。
 照合を終えてあとを追ってきたザシャリの鼻先で、左右の扉がぴしゃりととじた。つめたい目つきでそんなさまを見送ると、ジュニーヴルはちいさな箱の壁に背をあずけて腕を組み、ながいため息ひとつ。
「なんだって? 皆殺し?」
 目的の階が近づいてエレヴェータの扉がひらくよりはやく、すっとんきょうなベール課長の吠え声がきこえてくる。
 ひらいた扉からとびだすようにして踏みだす。テレヴァイザーのディスプレイにむかってぎょろ目をむいたベール課長が、ジュニーヴルにむけてちらりとうなずいてみせた。
 さっさと報告をすませて帰宅したかったが、そうもいかずに息をついて自分のデスクにむかい、コンピュータのターミナルを起動させて書類の作成にかかった。
「ゲックの手の者だけか、やられたのは。一般市民は? 被害報告はでてないんだな? だったら、まあ、ここだけの話だが、ざまあみろってところだな。で?」
 ベール課長のセリフに、テレヴァイザーの画面のなかから声がこたえるのが、ジュニーヴルの耳にもかすかにとどいた。しゃべっている内容まではわからないが、ベールの受けこたえでだいたいは見当がつく。ゲックというのはラシフドにふるくから巣くっているルーティ、地下組織の幹部のひとりだ。
「ふむ、そうか。で、ゲックはどうなったんだ? 殺された? ますますざまあみろだな。市警を代表して、その下手人に表彰状をさしあげたいところだぜ。なあ?」
 いってベール課長は、目をぎょろぎょろさせながらがっはっはと笑った。
 ジュニーヴルは報告書作成の手をとめて顔をあげ、ベールに視線で問いかける。
 受けてベール課長は目だけでうなずき、つづけた。
「だが、そもそも何が起こったんだ? ここんとこ、ラシフドのルーティのあいだじゃ、トラブルはなかったはずだろ? なに? なんだって? 強盗だ?」
 ベールは真顔になってディスプレイにむき直った。ぎょろ目を相手に凝集してうなずきながら熱心にききいるようすだ。
 ジュニーヴルはふたたびターミナルに正対し、書類作成のつづきに没頭する。
 しばらくして、ベール課長は「よし、わかった」と口にした。
「てこた、バスクのほうにもその強盗がおしこみかける可能性があるってんだな? け、胸くそ悪ィ。ああ、わかってるよ。ほうっておくわけにゃいくまいさ。だがなあ、天下の法の番人さまが、よりにもよってルーティの親玉の護衛なんざ、ばかばかしくてよ。ああ、わかったわかった。何人か応援まわすよ。明日の夜でいいんだろ? わかってるって、いったいどこのどいつだか知らねえが、あのゲックんとこ押しこみかけて全滅させたってんなら、よっぽどの人数だったんだろうからな。だいたい――なに? ひとり? そりゃほんとうか? とても信じられねえぞ。うん。――そうか。まあいい、わかった。そっちがおちついたら、あらためてくわしい話きかせてくれ。ああ。ああ。そういうことだ。わかってる。じゃ、またあとでな。ワダア」
 回線切断の定型句とともに、ベール課長の顔を青白くうかびあがらせていたディスプレイから灯が消える。ふう、と息をつきながら課長は椅子の背に深くもたれかかった。
 ジュニーヴルは作業の手をとめて立ちあがり、
「強盗ですか?」
 課の入口に備えつけられたインスタント・コーヒー供給機に歩みよりながら問いかけた。
「だとさ」ため息まじりにベール課長がこたえる。「なんだかよくわからねえが、ゲックの手下の生き残りの話じゃそういうことらしい」
 そのときエレヴェータの扉が左右にひらき、おくればせながらザシャリが後頭部をかきかき姿をあらわした。
 タイミングを見はからっていたように、ジュニーヴルはザシャリに使い捨て陶器のカップを無愛想にさしだす。
「あ、ありがと」
 と口にされた礼の言葉は完全に背後におきざりにして、ジュニーヴルはさっさと課長のデスクに歩みより、その上にカップを着地させた。
 それをベール課長はさっそくわしづかんで口もとによせ、ぐぐいと熱いのを一息にのみほし、大きく息をつく。
「ひとりって、おっしゃってましたね?」
 ジュニーヴルはゆっくりとコーヒーをすすりながらさらに問いかけた。
「ああ」と課長はうなずく。「もっとも、ゲックの手下の与太者の証言だからな。あてにゃならんが。どうも襲撃してきたのはひとりらしい。人相なんかもきいておくから、あとでくわしく教えてやるよ」
「ききたくありません」ジュニーヴルは笑いながらいった。「応援をまわすとかおっしゃってましたけど。まさかあたしたちのことじゃないでしょうね」
「おまえらだよ。なに、安心しろ。とりあえず今日は休める。応援は明日の夜からだ」
「ひどいわ」とジュニーヴルは笑いながら課長の眼前で冒涜的なしぐさをしてみせた。「あたし、明日から三連休の予定なんですけど」
「悪いな。延期だ」こともなげに課長はいった。「今度まとめて連休とっていいから。たのむよ」
「いつもそうおっしゃってますけどね、課長。ほんとにまとめて連休とったら、あたしなんか半年くらい遊んでられるわ」
「あ、ぼくも、それくらいあるかな」
 と、ぼけたタイミングでザシャリがわりこんできた。
 とりあわず、課長は真顔をとりつくろう。
「で、守備はどうだった?」
「どんぴしゃでしたよ」とザシャリがいった。「ちょうど売人にブツ配布してる最中でした。情報正確でしたね。まさか急進中の設計事務所の一角で、それもまっぴるまからヤクのやりとりされてるなんて、想像もつきませんでしたからねえ」
「で?」
 とベール課長はいらつきをおさえるようにタバコをくわえ、火をつける。
「簡単にはいきませんでした」ジュニーヴルが仏頂面で口をひらいた。「ふみこんだタイミングがわるくって。二人、逃したんで追跡して」言葉を切って、チュニックのわきの下を手でおさえて見せる。「使いました」
「殺したのか?」
「ひとりだけ」
 課長の問いに、ジュニーヴルは無表情にうなずいてみせる。笑えばあいきょうのある顔が、能面のようだった。
「わかった。あとで報告書だしといてくれ。ほかには?」
 ふたりが無言で首を左右にふる。
「よし。ごくろうだったな。明日のことをいちおう話しておこう。おまえらふたりで、バスクの私邸の警護の助っ人にいってくれ。現場責任者はトラだ。くわしいことはヤツにきくといい。1700時に現場直行だ。場所はわかってるな?」
 うなずき、ジュニーヴルは問いかける。
「なにがあったんです? ゲックの件と関係あるみたいですけど。強盗がバスクのところにも押し入る可能性があるわけですか?」
「ああ、簡単にいうとこうなる。つまりラシフドの権益をゲックとバスクが二分してうけついだとき、前の親玉から二人は義兄弟の証として対になった宝石だか指輪だかを受けとったらしいんだ。強盗の目的は、どうやらそれだったらしい。かなり強引に侵入かけてきたそうでな。現場はミサイルでもぶちかましたみたいに惨憺たる様相をていしているってんだが、生き残りの連中は声をそろえて襲撃かけてきたのはひとりだけだったとくりかえしてやがるとか。まったく信じられない話だぜ」
「その宝石ですけど」とジュニーヴルはそれかけた話をもとにもどす。「つまり対になっているわけだから、もうひとつもとうぜん狙われるだろう、とトラ主任は考えてるわけですね?」
「まあ、そうだろうな」
「どんな宝石なんです?」
 ふふん、とベール課長は笑った。
「おまえさんでも宝石が気になるかね」
「あら、これでもあたし、うるさいんですよ。そういうのには。で?」
「うん。いや、おれはそんなもんに興味なんざないからな。どんな宝石だかなんてきいてもいないよ。だがまあ、かなり名の知れた逸品だって話だな」
 と、そのときふいに、
「きみが宝石をつけると、きれいだろうな、ジュン」
 ザシャリが異様に間のぬけたタイミングで口をひらいた。
 ジュニーヴルのみならず、課長までもがあきれかえって声もだせず、ぎょろ目をむいてザシャリの顔を凝視する。が、ひとのよさそうな顔がきょとんと見かえしてくるだけなのにため息をつき、首を左右にふったのみであえて何も口にはしなかった。
 そして、不自然に威勢のいい調子で「さて」という。
「今夜は祭りだ。報告書はいいから、街にでるなりコンテストに乱入するなり、へべれけになるまで酒をあおるなり、好きにしてくるといい。ごくろうだったな」
 おつかれさまでした、とジュニーヴルとザシャリは口々にいい、それぞれのデスクに散った。
 私物を入れたバッグを手にしてジュニーヴルがエレヴェータにむかう。
 その背へ、
「ジュン。だいじょうぶか?」
 ベール課長の声がかかった。
 いぶかしげにふりかえると、ぎょろ目が心配そうに見かえしている。
「なにがですか?」
 言葉に、ベールはとまどい気味に目をそらしたが、やがててれたように笑いながらいった。
「いや、なにね。いつもと、どうもちょっとちがうような気がしてよ」
 ジュニーヴルはあいまいに笑う。
 一瞬うかんだ動揺をさとられたかどうか――課長と、そしてザシャリの顔を一瞥し、心配するまでもないと見て、あらためてにっこりと笑ってみせる。
「それじゃ課長。明日から三日間、ゆっくり休ませてもらいますから」
 ぎょっとでかい目をむく課長の顔が、とじる扉のむこうに消えていくのを見て、ジュニーヴルは声をたてて笑う。
 銃器保管室におもむき、当直のチェックをうけたのちにロッカーにレイ・ガンをおさめ、ふたたび通廊に歩をふみだすとザシャリと鉢あわせた。
 そっけないあいさつをおきざりに、足早に立ち去ろうとしたが、
「あ、ジュン。よかったら、今夜の祭り、いっしょにいかないか?」
 同僚刑事は強引におしとどめた。
「ごめん。今夜はそういう気分じゃないの」
 いうと、ザシャリはかなしそうに眉根をよせた。これも見なれた表情だ。
 が、すぐに青年は表情をかえる。
 ――危惧のかたちに。
「ほんとに、だいじょうぶかい?」
 ぴくりと、ジュニーヴルは眉毛を痙攣させた。
「だいじょうぶって、なにがよ」
 挑戦的な口調でつっかかる。
 そのいきおいにおされながら、ザシャリはつづけた。
「いや。つまり、きみ、どことなくさっきから元気なさそうだからさ」
「おあいにく」つん、とあごをそびやかしてジュニーヴルはいった。「あたしはいつもどおり、元気いっぱいよ。あんたなんかに心配してもらうほど落ちぶれてやしないから、どうぞご安心を」
 いって、ぽかんとたたずむザシャリをおきざりに庁舎をあとにした。
「よけいなことばっか、するどいんだからさ、あいつは」
 つぶやきながら人群れをおしのけるように足早に進む。
 そうしてしばらくのあいだ、口を真一文字にむすんだまま歩きつづけていた。
 が、やがて、その速度がゆっくりと落ちていく。
 そして雑踏のまんまんなかでしばしたたずみ――それからふいに、四囲のひとびとをつきとばすようにして走りだした。
 くちびるをかみしめながら人どおりのない路地裏にかけこみ――こらえていた涙を一気に吐きだした。
 声をおさえ、おえつに肩をふるわせながらジュニーヴルはずいぶんながい時間、そこでそうして泣きつづけた。



 地下にながくのびた階段の底にあるあやしげな酒場の扉をくぐったとき、街はすっかり夜にのみこまれていた。
 祭りの喧噪に背をむけてジュニーヴルは不健康さがうずまく窓ひとつない店のなかに、その小柄な身体をすべりこませる。
 小太りの店主がいぶかしげな視線を新来の客に投げかけてよこし――しばししげしげとながめまわしたあげく、ぎょっとその両の目をむいた。
「これは……刑事さん。手入れですかい? あいにくと今夜は、収穫はありませんぜ」
 露骨にめいわくそうな顔をしていうのは、この店がただのバーではないからだ。
 ふふん、とジュニーヴルは伝法に頬の端をゆがめてみせる。
「安心なさいよ。いまはあたし、非番だから」
 投げやりな口調でいって、カウンターのとまり木に腰をおろした。
 店主はうたがわしげにジュニーヴルを見やる。
「どうですかね。ラシフドの刑事さんたちゃ、みなさん仕事熱心で非番のときでも獲物を見つけたら容赦してくれませからねえ」
「ふん、家捜ししてほしいってんなら、してあげてもいいわよ。でも、今夜はかんべんしてあげる。なにか強い酒、ちょうだい」
 頬づえをついて、チュッとくちびるをすぼめ、微笑んでみせる。
 店主はめいわくそうな顔つきで、それでも慣れた手つきでシェイカーをうちふり、ジュニーヴルの前にカクテル・グラスをおいてよこした。
 ジュニーヴルは、中身をたしかめようともせずに一息でそれをのみほし、おかわりを要求した。
 そんなしらけたやりとりを幾度かくりかえしたあげく、ジュニーヴルは思い出したように店内を見まわした。
 奥のほうのボックスにいぎたなく眠りこけるちんぴららしき客がひとり、いるだけだった。
「なによ。ずいぶんさびれてるじゃない? まさかあんたヤクから手をひいて、まっとうな商売にくらがえしたんじゃないわよねえ」
「冗談はよしてくださいよ、刑事さん」と店主はおおげさに首を左右にふってみせた。「こちとら真っ正直に商売しているだけなんですぜ。それになにしろ、今夜は降臨祭ですからねえ。うちみたいな店ァ、商売あがったりなんでさ」
 ふふん、とジュニーヴルは鼻をならす。
「ヤク売る店に旬も何もないでしょうに。祭りだろうがなんだろうが、ジャンキーなんてまったくおかまいなしにどんよりひたってんじゃないの? あいつみたいにさ?」
「かんべんしてくださいよ、刑事さん。あの客は開店したてに入ってきて、酒のいっぱいもやらずに最初からああして沈殿してんですよ。なにもあたしがヤク売りつけたわけじゃないんだから」
 うんざりしたように弁解する店主を見ながら、ジュニーヴルは声をたてて笑った。
「安心しなさいって。今夜のあたしは非番だっていってんでしょ」
 どうだかねえ、と小声でぶつぶついう店主にさらにおかわりを注文する。
「刑事さん、あんた、酒つよいねえ」やがて、ならんだグラスの数をかぞえながら店主が心底感心したように口にした。「この“シリウス”ってカクテル、大の男でも一杯あけただけでダウンてえシロモノなんだが」
 ふん、とジュニーヴルは鼻をならした。
「酔えないのよ。今夜はね」
「なんかあったんですかい。そりゃ刑事さんっつったって若いきれいなご婦人だしねえ」
 と、わけ知り顔でいう。
 ジュニーヴルは鼻で笑っただけでこたえず、さらにグラスをかたむけた。
 そのとき、店主が扉のほうに視線をむけた。
 なにげないふうをよそおってはいるが、目に緊張の色がある。
「客? それとも警察の手入れ? なぜわかるの? そのカウンターの裏っかわに、モニターでもついてんじゃない? さすが用心がちがうわねえ。それでいつも、しっぽ出さないわけか」
 いいながらジュニーヴルは身をのりだしてカウンターの裏側をのぞきこもうとした。
 かんべんしてくださいよ、とうんざりした口調でジュニーヴルをおし戻しながらも、店主の視線は扉のほうからはなれない。
「あ、やっぱりあるじゃないモニター。なるほど、この店、地下にあるのはいいけど、やけに階段がせまくてながいと思ったら、そういうわけだったのね。やるう」
 と、店主の頬をちょんとつつく。
 めいわくそうな表情は一瞬しかうかばなかった。
 ひらいた扉のむこうにたたずむ人物に、その視線が釘づけになったからだ。
 いぶかしげに眉をひそめ、ジュニーヴルもふりかえる。
 闇がそこにいた。
 もとより、照明のおとされたうす暗がりに占拠された店のなかだ。そこにたたずむシルエットが、たとえ不吉な死神のように見えたとしても不思議はなかったかもしれない。
 それでも、そのひとかげを闇、という以外に形容する言葉は、しばしジュニーヴルの脳裏にはうかばなかった。
 おそらく、全身をおおっている衣服は黒を基調にしているのだろう。頭部に略式にまきつけられたターバンも、光を無限にのみこむ深淵の色だ。
 が――そのひとかげが闇を連想させるのは、単にその外見が黒ずくめだったから、だけではない。
 否、それ以上に――
 その人物そのものが、まるでブラックホールのように底なしの雰囲気を発散しているのだ。
 虚無にうがたれた黒い穴にのみこまれる、すべての物質の断末魔が、エネルギー輻射となって虚無の井戸のまわりで燃えあがるがごとく――その男の四囲にもまた、異様に力にみちた、不吉な灼熱の雰囲気がゆらめいている。
 ジュニーヴルの胸の底で、なにかがぎりりと音をたててうずいた。
 その正体はわからない。異様に胸をさわがせる何かだ。
 昼の世界の住人じゃない――ひとめその影をとらえた瞬間から、そんな直感がジュニーヴルにおとずれていたことはたしかだ。
 が――いま、彼女の心の底をさわがせているものは、決してその直感だけではなかった。
 得体の知れない、凶暴だが不思議に心地よくもある、何か。
 どすぐろく渦まく、地下の底からふきあげてきそうな灼熱の何か。
 そのようにあいまいな言葉でしか表現できないものだった。
 しばしそうしてジュニーヴルは、店主ともども言葉を発することもできずにぼうぜんと、その黒ずくめの侵入者に視線を投げかけることしかできずにいた。
 やがてふいに――その人影が、ことりと音をたてて歩をふみだす。
 そんな一挙動だけで、おそろしいほどの存在感が熱風のように膨張した。
 足どりに特別なところなどどこにもない。だが、そうして男がただ歩いているだけの姿にさえ、常人にはない異様な雰囲気が炎のようにうずまいている。
 ことり、ことりと、音自体はどちらかというとひかえ目にたてながら、男はジュニーヴルからふたつおいた位置のとまり木に歩をすすめ、静かに腰をおろした。
 全身をつつんでいた黒いパトウが、衣ずれの音とともに左右にひらく。
 その下から赤が出現した。
 幅のひろい赤の腰帯。そして首にまきつけられた銀鎖のネックレスにぶらさがる、深紅の宝石。
 血のような赤だわ、とジュニーヴルは思った。
 それから、無表情な男の横顔に視線を固定する。
 ととのった顔だちだが、それはナイフの切っ先のように危険きわまる意志をも発散していた。
 無遠慮に観察の視線をむけるジュニーヴルは完全に無視して、底ひびく声音で店主にいう。
「“熱死病”はできるか?」
 ジュニーヴルとおなじように、ぽかんと男をながめやっていた店主が、ふいに叩き起こされたような顔をして目をしばたたかせた。
「あ……いや、熱死病はうちではちょっと……」
「じゃあ一番つよい酒は?」
 店主が口をひらく前に、ジュニーヴルがわりこんだ。
「シリウスよ」
 ちらりと、男はジュニーヴルに視線をむける。
 氷河のような瞳だった。
 ジュニーヴルの存在になど、なんの感興も感じてはいないとでもいいたげな、凍てついた視線。
「じゃあそれをもらおう」
 一瞥だけで男は視線をそらし、カウンターのなにもない一点にその深い黒瞳を投げかけながらそういった。
 かしこまりました、と口にした店主の声はかすれていた。ぎこちないしぐさでシェイカーを手にとる。
 そのまま、濃密な沈黙が店内いっぱいにただよった。
 ジュニーヴルは意地になって男の横顔をのぞきこみつづけた。が、男はまるでそこに女など存在しないのだとでもいいたげに無表情に、なにもない一点を見つめているだけだった。
「お、おまたせしました」
 しゃっちょこばった腰つきでシェイカーから中身をグラスにそそぎ終え、店主がそれをさしだした。
 男は無言でグラスを手にとり、くちびるによせる。
 紫色の液体をひとなめした。
「どう? お味は」
 ジュニーヴルは返事を期待せずに問いかけた。
 今度はこたえが返ってきた。
 子どものようなしかめ面とともに。
「からい」
 地獄の底にひらいた虚無の深淵のような重厚な雰囲気が、一瞬にして吹きとぶセリフだった。
 思わず、ジュニーヴルはふきだしていた。
 そんなジュニーヴルには視線をむけず、男は手もとのグラスを親のかたきのように凝視しながらさらにつづける。
「それに、きつすぎる」
「あの、つくり直しましょうか……」
 店主が、おそるおそる、といった風情で声をかけた。
 視線をあげた男がなにかをいいだすよりはやく、ジュニーヴルがわりこむ。
「必要ないわよ。リクエストどおりだもの」そして艶然とした笑顔を男にむけ、「“熱死病”って、どんなものすごいお酒かと思ったんだけど。これよりは強くないみたいね?」
 すると――男は不思議そうな顔をしてジュニーヴルに目をむけた。
 それから、懸命になにかを思いうかべているように宙を見あげて、ことんと首をかしげてみせる。
 これまた子どものようなしぐさだ。
 つい先刻の、死神をすら思わせるあの不吉な雰囲気が、すとんとぬけおちたように消え失せている。
 いぶかしさとともに――ふいに、なんともいいようのないおかしみが胸の底からわきあがってきた。
 ジュニーヴルは思わず、声をたてて笑っていた。
 男はあいかわらず不思議そうな顔をしたまま、笑うジュニーヴルに視線を戻す。
 が、なにもいわずに、肩をすくめてもう一度グラスを口もとに運んだ。
「やっぱりからいな」
 ぽつりという。ジュニーヴルはさらに声をたてて笑った。
 男がカクテルをのみほすまで、笑いの発作はおさまらなかった。
 ようやくそれがおさまってきたと思ったとき、さもとうぜんとでもいいたげな顔つきをして、男がおなじものをオーダーした。消えかけた笑いの発作がふたたび爆発し、ついにジュニーヴルはとまり木からずり落ちた。腹を抱えて笑いつづける。
 そんなジュニーヴルにはもうかかわらず、男はときどき顔をしかめながら無言でグラスをかたむけるばかり。
「ねえ」とまだ笑いの発作をのこしながらジュニーヴルはいった。「あたしはジュニーヴル。あなたは?」
「ジルジス」あっさりと男はこたえた。「ジルジス・シャフルード」
 そしてふたたび、ジュニーヴルに視線をむける。
 その瞳は――今度は深い湖のようにすんだ色をたたえているように思えた。
 静かでおだやかな、覚者のような視線。
 その視線に、ジュニーヴルは笑いをうばわれ声をうしなう。
 大口をあけて大笑していたさっきまでの自分が、ふいにばかの見本のような気にさせられたからだ。
 頬を染めながら目をそらす。目の前のシリウスを手にとってぐいとのみほし、ぶっきらぼうな口調で店主におかわりを要求した。
「外は祭りでしょ」そして、てれかくしのようにいった。「こんなところでひとりで、何してんの」
「おたがいさまだな」
 ジルジス・シャフルードは、軽くそう切りかえした。
 苦笑をうかべてジュニーヴルは横目で男を見やり、
「あたしはいいのよ。祭りなんてだいっきらいだから」
「ふうん」
 とシャフルードは感心したような声をだしてジュニーヴルを見つめた。
「あら、今度はあたしが見つめられる番?」
「ああ」
 シャフルードはとうぜんのようにうなずいてみせる。
「いい女でしょ」
 凝視に耐えられないという理由だけで、ジュニーヴルは言葉を重ねた。
「悪くはないな」
「ちょっと。そういうときは、びっくりするくらいいい女だとか、太陽のようだとか花のようだとか、そういうふうにいうものよ」
「陳腐な形容だ」
 鼻で笑いながら、シャフルードは視線をグラスに戻す。
「ちょ……わるかったわね、陳腐で」
 ぷい、とジュニーヴルは顔をそむけた。
 シャフルードの笑い声がきこえたような気がした。
 あわてて視線を戻し――グラスを前にしたシャフルードがうすく目をとじて、かすかに笑みのかたちにくちびるをゆがませている姿にいきあたった。
 しばし、それを見つめる。
 やがて、シャフルードが口をひらいた。
「やけ酒はからだによくないぜ」
 ジュニーヴルは目をむいてシャフルードをにらみつけた。
「よけいなおせわよ。それに、やけ酒じゃないわ」
 いいながら、だされた杯をぐいと一気にのみほした。
 くくく、とシャフルードが声をたてて笑った。
「そりゃ失礼」
 むっとしてジュニーヴルはシャフルードの横顔をにらみつける。
 受けて、すました横顔でシャフルードはグラスをなめる。
「やけ酒じゃないわ……」
 もう一度、おなじセリフをよわよわしくくりかえし、ジュニーヴルはシャフルードから視線をそむけた。みがきあげられたカウンターにうつる自分の顔を、見つめる。
 泣きそうな顔をしている、と思った。
 たち切るようにたん、と音をたててグラスをおき、
「お酒はもうじゅうぶん」立ちあがった。「外にいきたいわ。どこか静かなところにね。どこにつれていってくれるの?」
 いって、ぐいとシャフルードの黒いパトウの端をつかんだ。
 眉根をよせ、シャフルードはきょとんとした顔でジュニーヴルを見かえした。
 ジュニーヴルはにっこりと笑いかえしてみせる。
「夜はながいんでしょ。こんないい女ほっといて、ひとりで気どって酒のんでいるなんて愚か者の所業よ」
 いって、くちびるをチュッとならした。
 シャフルードは、苦笑をかえす。
「彼女のぶんもだ」
 いって、コインをカウンターの上に投げだした。みがきあげられた台上でコインは回転をはじめる。
 ぎょっと店主は目をむく。シャフルードはともかく、ジュニーヴルの消費した酒量はふつうのコイン一枚ですむような値段ではなかった。
 が、店主は文句をいう気にもなれなかった。最初のおそろしげな印象がつよすぎたからだ。前後して店をでるふたりと、カウンターの上で回転しているコインとを、情けなげな顔で交互にながめやるしか店主にできることはなかった。
 やがてモニターのなかからもふたりの背中は消え去り、コインは回転をやめてカウンターの上にその姿をさらした。
 その銘をひとめ見て――またもや店主は目をむかされた。
「ウァラ・ギア・ラスベルの記念コインじゃねえか……」
 ぼうぜんとつぶやく。
 そこにある金貨は、初代神聖銀河皇帝即位記念にトラントで発行された、稀少金貨だった。これ一枚あれば、シリウスの百杯や二百杯どころか、この店でさえ軽く買いしめることができる。
 店主はぼうぜんと金貨を手にとってまじまじとそれを見つめ――それから、ジルジス・シャフルードが去った扉にむけて、ぼうぜんとした視線を投げかけた。


 遠くからひびいてくる活気にみちたさわめきがかすかに耳にとどく。
 うちあげられる無数の花火。
 こきざみにリズムを刻むタブラ。
 笑い声。
 すべて手のとどかない、遠い別世界からの呼び声のようだった。
 喧噪が手まねきをしているように思える。いつもならためらいもなく、進んでそのなかにどっぷりと身をよせていただろう。今宵はだめだった。できたての記憶が、血臭とともにジュニーヴルの魂を重く地獄につなぎとめていた。
 つきはなすように地面をひとつ蹴りつけ、歩調をはやめて先行するシャフルードに追いつき、その腕をしっかりと胸に抱えこんだ。
 見あげると、無表情だった横顔がかすかにうろたえているようすがうかがえた。
 くすりと鼻をならす。
「うれしい?」
 黒ずくめの男はこたえず、あらぬかたに視線をさまよわせただけだった。
 笑いながらジュニーヴルはさらに問いかける。
「ねえ。どこにつれてってくれるの?」
「静かで、ながめのいいところだ」
 ぶっきらぼうな口調でシャフルードはいった。
 思いあたるところがあって、ジュニーヴルは前方上空へと視線をとばす。
 高層ビル街でも、他の十倍近くもぬきんでて高いバベルの塔がそこにはあった。
 くしくも、明日の警備を命じられたバスクとかかわりのあるビルだ。ラシフドのみならず、軌道エレヴェータをのぞけば連合全域でも有数の高度をほこるラシフディン・タワー――最上部に属する十数階はバスク傘下の企業で占められているため、一般の人間は出入りできないが、そこから下なら広く開放されている。
 もっとも、だからといって今宵にかぎってはそう簡単に足をふみ入れることはできないはずだ。地元の人間ならだれでもそのことを知っている。それに、祭りのメインの舞台からはたしかにかなり離れてはいるが、これも今宵にかぎってはおせじにも静かな場所とはいいがたい。
 だが、あえてジュニーヴルはそのことを口にせずにいた。シャフルードが狼狽する顔を見てみたかったからだ。
 タワー基部に近づくにつれ、四囲を歩くひとの数がふえてきた。ある地点からそれは爆発的にふくれあがり、ペースをたもって歩きつづけることすら困難になった。
 腕を抱えこんだまま、ジュニーヴルはちらりとシャフルードの顔をながめあげた。
 まるで無表情だ。
 混雑など予想していたとでもいわんばかりに平然としている。
「静かなところっていわなかった?」
 多少の皮肉をこめて問いかけてみた。
「ああ」シャフルードは無造作にこたえる。「ふたりっきりになれるぜ」
 本気か? と視線にこめて無表情な横顔を見つめたが、反応はない。
 ふん、と鼻をならし、お手並み拝見、とジュニーヴルは心中ひとりごちた。
 やがて、入口にまであふれだした行列でごったがえす正面エントランスにたどりついた。
 どこをどう見てもわりこめるすきはない。二十基ならんだエレヴェータはすべてフル稼働で上下動をつづけているのだろうが、それでもこの列に加わるとなると塔上部の展望室にたどりつくまでには夜明けまでかかるだろう。むろん、降臨祭のクライマックスはとっくにすぎてしまっている。
 少々意地のわるい気分でジュニーヴルはシャフルードを見つめた。
 まるで動じている気配もなく、黒ずくめの男は迷いのない足どりですたすたと歩きつづける。
 どうするのかと思っていると、人群れを迂回して建物の裏側にまわりこみ、重なる壁で見つかりにくくなっている裏口にまっすぐに入っていった。
 設置された監視カメラのある位置まで近づくと、黒ずくめの男はふところからなにやらとりだし、スイッチを入れる。
 ジュニーヴルは眉根をよせた。
 形状からして、簡易スペクトル・ジャマーだろうと見当をつける。機器を中心とした一定範囲にでたらめな映像情報を投射する装置だ。
 となれば、最上部に籍をおく企業の関係者というわけでもあるまい。
 厳重に封印された扉の前にたつとシャフルードはさらに、べつの機器をとりだして一角に位置するキャビネットに歩みよった。
 針金状の道具を鍵穴にさしこみ、十秒とかけずにぱちりと施錠を開放する。あまりにもあざやかすぎて、不法侵入の現行犯には見えないほどだ。
 さらにシャフルードは、内部の機械装置にちらりと視線を走らせ、手にした機器をその一部にとりつける。
 それはまるで、最初からその機械装置の一部品ででもあったかのようにぴったりとそこにおさまった。
「それはなに?」
 と声をおさえてジュニーヴルは問いかけた。
 シャフルードはふりかえりもせず機器のパネル上にかんたんな操作の手をはしらせながらいう。
「警報装置をバカにするための機械さ」
 つまり警報装置ににせの情報を流すのが、その機器のもっている機能なのだろう。用意周到だ。となれば、ジュニーヴルの存在にかかわらず、予定の行動であったことになる。
 つぎにシャフルードはおもむろに出入扉にむき直り、一枚のカードをとりだすと扉わきのスリットにさしこんだ。
 パイロットランプが青にかわり、かちりと音があがる。
 ためらいなくシャフルードは扉に手をのばし、無造作にそれをひらいた。
 すたすたとふみこんでいく。
 ジュニーヴルも無言であとにつづく。
 短い通廊をへて、バスクの息のかかった人間しか入れない階へとつづく、十基のエレヴェータがならぶロビーにたどりついた。
 どれかに乗りこむのだろうとたてていたジュニーヴルの予想は、さらに外された。
 エレヴェータの前をすどおりし、シャフルードはさらに奥へと歩をすすめる。
 先刻とおなじ要領でカードキーのついた扉をパスし、おそらくは一般社員では立ち入ることができないであろう一角までやすやすと入りこんだ。
 一度だけ、ジュニーヴルもここにふみこんだことがある。ラシフドの権力の頂点がまだ代がわりする以前の話だが、バスクをねらう(おそらくは)ゲックのやとった暗殺者が、あわやというところまで迫ったときのことだ。最上階に位置するバスクの私室で、バスクの護衛によってこの凶行は阻止されたわけだが、そのときの事後処理に、暗黒街の大ボスの私室にさぐりを入れる目的もかねて、麻薬操作課のジュニーヴルもかりだされたのだ。
 むろん、そういう経緯がなければ、この塔にこんな裏口があったことすら知りはしなかっただろう。
 それをこの男は、まったくためらいもせずにこれほど奥深くまでふみこんでいる。
 最上階直通の特別エレヴェータにのりこみ、ふたりは塔をのぼりはじめた。
 ランプの点滅がゆっくりと上昇していくなか、疑問をあえてのみこんだままジュニーヴルはしばらくのあいだ無言で、無表情なシャフルードの横顔をただ見つめていた。
 やがて口にする。
「おどろいたわね」
 ちらりとシャフルードはジュニーヴルをながめおろし、にやりとくちびるの端をゆがめてみせた。
「おとなしくついてくるとは思わなかったな」
「あら、なぜ?」
 とぼけて問いかける。
 するとシャフルードは、これまた無造作な口調でさらりといった。
「不法侵入の現行犯に刑事がくっついてたんじゃ、見つかったときにいいわけがたたないだろう」
 瞬時、ジュニーヴルは鷹のような目つきで、シャフルードをにらみあげた。
 が、すぐに愁眉をひらき、すまし顔でいう。
「そんなずさんな侵入のかけかたには、見えなかったもの」
 ふふん、と笑ってシャフルードは手にしたカードを、芝居がかったしぐさで胸の前にかざしてみせた。
「優秀な相棒がいてな。電子機器をごまかすぶんには、何も心配がいらない」
「たいしたものね」
「ああ。問題があるとすりゃ、人間だけさ」
 いってシャフルードは――真顔になった。
 見あげるジュニーヴルを無言で見つめる。
 しばしジュニーヴルもまた、正面からそんな視線を受けとめていた。
 が、ふいに、ふっと笑みをうかべていった。
「非番なのよ」
「それだけじゃあるまい」
 すかさず切りかえされたセリフに、一瞬だけ顔が苦痛にゆがんだのをジュニーヴルは自覚する。
 すぐに平静をとりつくろったが、この黒ずくめの男をごまかせるとは自分でも思えなかった。
「気分じゃないのよ。それだけ」
 ぶっきらぼうにいって、そのままだまりこんだ。うそはついていない。
 それからしばらくもしないうちに、エレヴェータは最上階にたどりついた。
 ひらいた扉をぬけ、通廊と前室、さらにらせん状の階段をへて、展望室をかねたバスクの私室へと歩をふみこんだ。
 広大な室内は闇につつまれ、銀色の月灯りが闇に沈んだ家具類のりんかくを、かすかにうきあがらせている。
 灯りはつけず、シャフルードはまっすぐに部屋の奥へとすすんだ。
 百八十度全面ガラスばりの出窓へと歩みより、観葉植物のおかれたわきへと腰をおろす。
 とうぜんのようにとなりに位置をしめ、ジュニーヴルはシャフルードにならってはるか眼下にひろがる景観へと視線を投げかけた。
 ラシフド中心部に位置するバスラード公園から、ちょうどひとつのまばゆい光輝が、天にむけて上昇していく光景がまず目についた。
 数世紀前に祖先である植民者たちが最初にこの星におりたった場所が、そこだ。
 ラシフド紀元の日を祝って毎年おこなわれる降臨祭は、ここ数年のあいだに急激にその規模を拡大し、以前は花火できそわれていた“大気圏離脱コンテスト”も、いまではまさにその名前どおりカスタムのロケットがもちだされており、審査は周回軌道上の特設ステージで大々的におこなわれている。有人ロケット化も近いとうわさされるのは毎年のことだが、不思議にこれだけはいまだに実現されていなかった。
 ともあれ、盛大におこなわれるこの無意味な行事は遠望も可能とあって、近隣の高層ビルもこの夜だけは多くが一般に開放されるのだが、近年とくに観光客もふえた関係でなかなかいい位置を確保することができない
 そういう観点からすれば、まさにここは特等席だった。
 オレンジの炎と盛大な白煙をふりまいて上昇する手づくりのロケットがまたひとつ、頭上にたゆたう白い雲の間から強烈な青白い光輝を夜空にふりまいて天へと凶暴きわまりない挑戦の手をのばす。
 が――ふいに光輝の上昇スピードが低下し、やがてそれが天空でためらうように静止した。そしてつぎの瞬間――ななめにかしいで下降を開始する。
「失敗だね」なかば無意識に、ジュニーヴルはつぶやく。「さぞ無念だろうね」
 ロケットの製作者の苦労をおしはかってのセリフだ。このコンテストに参加する人間は、ロケット工学に関連する職業についていない人間のみ、との不文律が厳守されている。しろうとが大気圏を離脱できるだけの性能をもつロケットを設計し、製作するにはそれだけで多くの時間と労力をついやしてきたはずだ。
 左右に小刻みにぶれながら落下していく火球を、下方からすばやく上昇する四機の浮遊艇がとりかこんだ。二機のファイアリング・ノズルから雷鳴とともに青白い光球が吐きだされ、落下しつつあるロケットの光輝にむけて収束する。
 瞬時、壮絶な衝撃音が世界をとよもした。
 蒼白の光球が一瞬、花火のように大きく四囲に手をひろげ、そして消滅する。
 ついで、あたり一帯に底なしの闇が濃密になだれこんできた。
 そんな暗黒を遠い目で見つめながら、シャフルードはこたえた。
「つぎこそは……そう思って、こぶしを握りしめてるだろうさ。地上で、空をにらみあげながら、歯をくいしばってな」
 言葉に――ジュニーヴルはちらりとかたわらのシャフルードの顔を見あげる。
 端正な顔が、無表情に闇につつまれた虚空をながめていた。
 その瞳に、いつくしみを見たような気がした。
 あるいは、憧憬を。
 それとも、せつなさを。
 子どものようなひたむきさが、それらの想いをささえているのだろう――なんの根拠もなく、ジュニーヴルはシャフルードの遠い目つきをながめあげながらそう思った。
 ふと、気がついたようにシャフルードは、そうして自分を見つめるジュニーヴルに視線をやり――そして静かに笑った。
「のどがかわかないか?」
 問いかけに、ジュニーヴルはすなおにこくりとうなずいてみせる。
 シャフルードは笑みを頬のはしに残したまま無言で立ちあがり、広大な部屋の中心部へと歩をすすめた。
 らせん階段の出口のわきに、おぼろにりんかくをうかびあがらせるものがあった。
 目をこらしてみると、どうやらホームバーのたぐいらしい。
 そのわきには応接セット、さらに奥に鏡台らしきものも目に入る。統一感にかける部屋だった。バスクの趣味のわるさをほうふつとさせる。
 シャフルードはなれたしぐさでカウンターをくぐり、すばやく四周に視線をめぐらせただけで、ためらいなくシェイカーといくつかのボトルをえらびだし、無造作なしぐさでカクテルをつくりだす。
 しばし、ジュニーヴルはそんなシャフルードのしぐさを見るでもなくながめやっていたが、やがてふたたび窓外に視線を戻した。
 光輝がまたひとつ、見果てぬ彼方にむけて牙をむきながらのぼりつめていく姿がそこにあった。
 ぼんやりとながめやっているうちに、忘れかけていた記憶が鮮明によみがえる。
 かまえた銃のさきで――見知った顔がいやしい表情をうかべてジュニーヴルを見つめていた。
 まさか撃ちゃしないだろう? その視線は、そう問いかけてきていた。
 あわれみをこう犬のような顔つきで。
 その顔つきが一瞬にして――狡猾な肉食獣のそれへと劇的に変化する。
 ひらめいた手のひらにあらわれた銃。
 その先端にゆらめく、熱対流のかげろう。
 思考よりも条件反射のほうがはやかった。
 ひいたトリガーのさきで、銃口をわって深紅の光が対手の心臓を撃ちぬいたとき、ようやく後悔がふくれあがったのだ。
 狂おしく。
 ジュニーヴルは目をきつくとじ、ひろげた手のひらの指でこめかみを強くおさえる。
 懊悩は力まかせのハンマーの打撃のように、重く、おさえようもなく荒れ狂う。
 歯をくいしばり、あふれだすものをこらえる。
 シャフルードが、ふたたびジュニーヴルのとなりに腰をおろす気配を感じた。
 だが、いまはだめだった。
 あふれだそうとする熱いものを堰とめるだけで、せいいっぱいだった。
 しばしその姿勢のまま、ジュニーヴルは硬直していた。
 やがて、上昇に失敗したロケットを追って放射されたプラズマ弾のはなつ盛大な雷鳴が、どこか遠くからのようにジュニーヴルの鼓膜をふるわせはじめた。
 はじけとぶ音。
 とじたまぶたのむこうにひろがる閃光と、そして静寂。
 またひとつの夢が高熱によって灼きつくされたのだ。
 シャフルードは無言のまま。
 ジュニーヴルは、手のひらのあいだからもれた涙をぬぐい、くちびるをかみしめながら目をひらく。
 黒ずくめの男は先刻とおなじ姿勢で、遠い目をはるか彼方にさまよわせているだけだった。
 手にはカクテル・グラス。
 視線をおとすと、ジュニーヴルのひざのわきにも、おなじグラスが着地している。
 無言で手にとり、かたむけた。
 火のようなものが口のなかで爆発した。
 異様につよい酒だった。
「なにこれ」
 思わずつぶやいた。
 シャフルードが得意げに笑いながらジュニーヴルに視線をうつす。
「“熱死病”だ」
 きょとんとジュニーヴルは、いたずら小僧のような顔つきで笑うシャフルードを見かえし――ふふん、と鼻をならして笑う。
「なるほど。多少はいけるわね」
 いって、平気な顔をとりつくろってグラスに舌をはわせる。ふれただけで炎のような刺激が口中いっぱいにひろがった。
 シャフルードはといえば、平然とした顔でぶっそうな名前のカクテルをかたむけている。
 さっきの店で“シリウス”相手にうかべていたあのしかめっ面はなんだったのかしら、とその顔を見てジュニーヴルはあきれかえった。
 ふん、と鼻をならし、もういちどグラスをぐいとかたむける。
 のどを擦過するあつさと刺激が、いっそ心地よいようにさえ思えた。
 そのときふいに――
「なにを忘れようとしている?」
 シャフルードがいった。
 ジュニーヴルは目をむきながら、黒ずくめの男を見つめる。
 窓外からとどけられる、上昇する超高熱のかがやきをうけて、端正な顔があおじろくうかびあがる。
 そこに先刻とかわらぬ遠い表情を見て、ジュニーヴルはしばしぼうぜんとし――やがて、ため息をついた。
「つらいことがあったのよ、今日」
 いって、グラスの中身を一気にあけた。
 息に炎をのせながらながいため息をつき、室内にわだかまった重い闇にうつろな視線を投げかけて、つづける。
「胸をかきむしりたくなるようなことがね」
 無言で、シャフルードはジュニーヴルの手からからのグラスを受けとるとふたたびバーに歩みよった。
 ジュニーヴルは片ひざをたてて頬づえをつき、ひらいた手のひらで顔をおおう。
「あんた、人殺しをしたことはある?」
 おおった手のひらの指のあいだから、ちらりとバーのなかのシャフルードに視線をむけた。
 無造作な手つきでシャフルードはシェイカーをふる。
 ジュニーヴルは息をつきながら、口をひらく。
「愚問だったね。あんたには、血の臭いがぷんぷんただよってる。たぶん、感覚が麻痺するくらい大勢の人間の命を、奪ってきたんでしょうね」
 シャフルードは、肩をすくめてみせただけだった。
 ふたたび手わたされたグラスに口をつけ、そしてジュニーヴルはつづける。
「あたしもそうだわ。職業柄ね。日常茶飯事、とまではいわないけれどね。でも――」
 そして、言葉をとぎらせる。
 おおった手のひらのなかで、目をとじ、歯をくいしばる。
 ふたたび――ふれればとどきそうな距離に、シャフルードが静かに腰をおろした。
 強化ガラスのかなたから、かすかにひびく轟音。
 交錯する天空の光輝。
「むかしの恋人だったわ」
 やがてぽつりと、ジュニーヴルはいった。
 シャフルードはこたえず、遠い目を窓外に投げかけたまま。
 かまわず、ジュニーヴルはつづける。
「まだ警察機構にあたしがかかわる以前。あいつも、ただのちんぴらでヤクなんてヤバいものに手がとどくような大それた立場にはなかった。子どもだったわ。あたしも、あいつもね。すさんだ、ひどい暮らしだったけど、しあわせだったわ。ふたりでいる時間は、みたされていた。最高にね。ながくはつづかないってわかってた。それでも……しあわせだった」
 そして、声をつまらせる。
 ながい沈黙。
 ふいに、シャフルードが口をひらく。
「いくぜ」
 と。
 夢からさめたような想いでジュニーヴルは顔をあげ――窓の外に視線をさまよわせる。
 公園からうちあがった蒼白のかがやきが、ゆっくりと上昇をはじめるところだった。
 空間をびりびりと振動させ、重い轟音をまきちらしながらそれは、雲間をぬけてふりそそぐ光輝の輪を地上に徐々に、そして着実にひろげつつ、さらに上を、上をめざしつづける。
 上層の雲をさらに割りさいて、またたく星空へと、ゆっくりと、遠ざかっていく。
「たどりつくな」
 静かに、シャフルードがいった。
 ええ、とかすれた声でジュニーヴルはうなずきかえす。
 光輝はやがて、漆黒の天へとすわれて消える。
 下界から、歓声がきこえたような気がした。
 空耳だったかもしれない。
 まぼろしのようだった。
 闇にすわれて消えた光輝が、自分のはなったレイ・ガンの光条とかさなる。
 いまでも愛していたのかはわからない。
 うわさにはきいていた。裏街でいいように使われながら、いっぱし面して大言を吐きまくっていたらしい。むろん、ちんぴらどもにとってさえ陰口の対象でしかないような地位だったが、本人はそれでも相当なものだと思いこんでいたのだろう。
 ヤバい橋をいくどもわたらされ、僥倖だけでそれをのりこえてきたのだろう。その運も、きのうの取引でつきた。幕をひいたのはジュニーヴルだ。ためらいもなく。
 そう。
 ためらいもなく。
 自分が撃たれていればよかった、などとはかけらも考えてはいない。
 だが、なぜあのとき、ひきがねをひくことができたのだろう。
 こたえはどこにもなかった。
 否。
 それは明白だった。
 条件反射? ちがう。あの一瞬――かつての恋人であるあの男が銃を手にして自分にむけたあの一瞬、たしかに自分はかれを、犯罪者としてしか認識していなかったのだ。
 銃を手にした犯罪者はためらうことなく撃ち殺すこと。
 麻薬課の刑事として生きてきた過程で、本能よりも深いところに根ざしたものだった。
 それが、この上もなくおぞましく思えたのだ。
 かつての想い人を、撃ちぬくべき一個の物体としか認識できないほど深く根ざした、おのれの存在規律。
 自分が殺されていればよかったとはかけらも思ってはいない。だが、ふつうの感覚なら相手をかならずしも殺す必要はなかっただろう。射撃には自信がある。手でも肩でもねらえばねらえた。だが、それでもためらいもなく心臓をぶちぬいていた。
「うんざりだわ」
 手のひらで頬をつかみしめ、吐きすてるようにジュニーヴルはつぶやく。
 シャフルードがふりむき、ジュニーヴルを見つめる。
 氷河。湖水。暗黒の穴。
 深く、静かで、底しれない。
 それでも、地獄の記憶をうすれさせるには力がたりないようだった。
 ジュニーヴルは視線をそらす。
 その視界のかたすみで、シャフルードがこまったように嘆息するのを確認した。
 くすりと笑う。
「あんた、野暮天ね」
 むけなおした視線のさきで、黒ずくめの男がこまったような顔をして後頭部をかく姿があった。
 とほうにくれたようにジュニーヴルを見つめ、とまどいのかたちに眉をよせる。
 それから、
「わかった」
 つぶやくようにいって、身をのりだし、不器用なしぐさでジュニーヴルを抱きよせた。
 おずおずとくちびるを重ねる。
 目をとじ、ジュニーヴルは感触に身をゆだねる。
 つよい力で抱きすくめられ、乱暴なほどの不器用さでシャフルードはジュニーヴルのくちびるをむさぼりはじめた。
 嵐のような愛撫にしばし身をゆだねていたが――こみあげてくる記憶を忘れることはできなかった。
 よわよわしくあらがうと、すぐにシャフルードは力をぬいてジュニーヴルを解放する。
 顔をふせ、視線をそらす。
「ごめん。だめだわ、やっぱり」
 床にむかってそうささやいた。
 ふふん、とシャフルードは鼻をならした。
「色男ぶっても、やはりおれじゃだめだったかな」
 笑いをふくんだセリフがいう。
 顔をあげることもできず、ジュニーヴルは無言できき流した。
 つい、とシャフルードが腰をあげ、みたび静かに部屋の中心部をめざした。
 ジュニーヴルはため息をつき、視線をさらにそらして窓の外へとさまよわせる。
 いくつもの花火が、満天に炎の饗宴を展開していた。祭りもクライマックスにさしかかっている。
 今宵も静かに、音もなく通りすぎつつあるのだろう。
 そしていつもとかわらぬ明日がおとずれる。
 だが、そこに居場所を見つけられず、ジュニーヴルはとほうにくれていた。
 もういちど肩からさげたストラップに銃をさして犯罪者に対する気には、なれそうにもない。
 だからといって、ほかに新しい一日に対処すべき自分の姿を思いうかべることもできなかった。
 どうすればいいんだろう、と、かたく目をとじる。
 天空で鳴りわたる破裂音。地上にひろがるさわめきと歓声。
 ガラス一枚へだてたむこうの別世界。
 が――そのときふいに、
 それらの音とはまるで隔絶した、切迫した音が彼女の背後でひびきわたった。
 なじみ深い音だ。
 がしゃり、と、金属と金属が重くすれあう音。
 一瞬で、ジュニーヴルは無意識にみっつの行動をとっていた。
 見ひらいた目で、強化ガラスにうつしだされた背後の様相を確認し――
 同時に、窓わくから腰をずらして落下のいきおいのまま床をけりつけ、側方に身をおどらせる。
 チュニックのわきの下に反射的に手をやりかけ、銃を返却してきたことを思い出して反撃はとりあえずあきらめ、すばやく四囲に視線をはしらせて障害物をさがし――
 一角に鎮座ましました応接セットの陰に身をすべりこませたときにはすでに――警戒体勢をといてもかまわないことに気づいていた。
 ホームバーの前でブラックメタルのにぶいかがやきを月光に反射させる、異様にごついブラスターを手にしたシャフルードの姿には、まるで殺気が感じられなかったからだ。
 それでも疑わしげな顔をはりつけたまま、ジュニーヴルはディヴァンの陰から用心深く呼びかける。
「どういうつもりよ」
「色男ぶっても、だめだったからな」
 笑いをふくんだ声が、そうかえしてきた。
 眉根をよせつつ、憤然とジュニーヴルは立ちあがる。
「って、その非常識な行動があんた流のはげましかただってわけ?」
 炎のような視線を受けて、シャフルードは肩をすくめてみせる。
 かみつくようににらみつけてみたが、こたえたようすもなく黒ずくめの男は、手にしたブラスターのセイフティをかけなおすと、それをはばのひろい赤の腰帯のあいだに無造作に落としこんだ。
 しかたなく、憮然としたままジュニーヴルはふたたび、つきだした窓わくに腰をおろした。
 シャフルードはなにごともなかったようにとなりにおさまり、口もとに笑いをとどめたまま無数に夜空をおおう炎の饗宴に視線をむけた。
 やがて、口をひらく。
「なぜ刑事をえらんだ?」
 ジュニーヴルはいぶかしげに眉根をよせて、シャフルードの横顔を見つめる。
 それからため息とともにこたえる。
「知らないわよ、そんなこと」
 むっつりとおしだまり――そして自問する。
 なぜ刑事をえらんだのか。
 理由なら、いくつかあげることはできる。
 だが、本質的なものはひとつだけだ、と彼女には思えた。
 荒れさわぐものが、胸の底にうずまいていたからだ。
 法や正義をまもることに情熱を燃やしているわけじゃない。いや、そういった、口にするには少々気恥ずかしい理由も、たしかに存在しないことはない。
 だがもっとも根源的な部分には――まったくべつの理由が存在していた。
 凶暴な、制御不能の荒々しい何かが、ものごころついたときから徐々に、徐々に、ジュニーヴルの胸の奥底で育ってきたからだ。
 肉体を酷使し、精神を研磨し、限界ぎりぎりの状況で危地を切りぬけていくこと――そんな、ただの日常ではつかみきれない状況を求めている自分を狂おしく意識していた。そしてさがしあてたのが、いま自分がつかりこんだこの世界なのだ。
 目をとじ、もういちど、みずから招来した地獄を想起する。
 ひいたトリガーと同時に一直線にのびた火線が、かつておなじ時間をすごした、自分のからだの一部にさえなっていたはずの男の胸をつらぬく。
 苦痛よりは驚愕に顔をゆがめて、自分を見つめる見知った、そして見知らぬ男の顔。
 狂おしい後悔はいささかも減じてはいない。
 それでも――
「きみの魂はいま死んでいる」
 シャフルードの、低くよくひびく声音が、ふいに静かにそういった。
 ジュニーヴルは視線をあげる。
 窓外に目を投げかけたまま、シャフルードはつぶやくように言葉をつぐ。
「だが、きみの力はつきたわけじゃない。生きていられる。いやでも生きていける。そして生きていけるかぎり、いつか痛みはやわらぐだろう」
 そして黒ずくめの男は、氷河のように凍てついた、刃のように鋭利なその顔をジュニーヴルにむけて、静かに微笑んでみせた。
 それから、つけ加えるようにして口にする。
「その痛みは、消えることはないかもしれないがな」
 ジュニーヴルは、シャフルードの視線を受けてしばし無言で見つめかえし――やがて、ぷっとふきだした。
「にあわないわ」
 苦笑に頬をゆがめながら、口にする。
 シャフルードは、肩をすくめてみせただけだった。
「にあわないわよ」
 もういちど呪文のように口にして――
 ジュニーヴルは口をつぐむ。
 暗い虚空に目をさまよわせ、こみあげてきたものを懸命にのみこんだ。
 そのとき、シャフルードがいった。
「むりすんな」
 歯をくいしばってジュニーヴルは男をにらみつけ――
 静かな表情で微笑みながら見つめかえす顔にいきあたって、言葉を喪失した。
 くちびるをかみしめ――
 一瞬後には、涙をあふれさせていた。
 おどろくほどあっけなく、まるで洪水のように泣いた。泣いている自分が、まるで他人のように感じられた。
 ふいに肩に、ためらいがちにおかれた手の感触を感じる。
 水が高いところから低いところへとなだれこむようにして、ジュニーヴルはそのままシャフルードの胸にとびこんだ。
 そしてただ泣きつづけた。


 ラシフド郊外に位置するバスクの私邸にたどりついたときは、指定の時間をややすぎたころあいだった。
 短くなりはじめた陽が地平線をめざして波長のながい光で世界を染めはじめ、殺気だった表情で広大な敷地をとりかこんだ警官たちをあざわらうように切なげに、一帯をつつみこんでいる。
 玄関口でそわそわとしていたザシャリが、ジュニーヴルの姿をようやくといった感じで発見し、うれしそうに笑いながら歩みよってきた。
「おそいよ、ジュン」
「あんた、あいかわらずくそまじめよねえ」
 あきれたセリフをおきざりにしてザシャリの接近を軽くかわし、ジュニーヴルはバスク邸の門をあっさりとくぐった。
 玄関口でいそがしげに部下たちに指示をとばすトラ主任の姿を見つけて足早に走りよる。
「おそくなりました」
 神妙な顔をとりつくろって声をかけるジュニーヴルに、一見ひとのよさそうなおじさん顔のトラ主任も、そんなことはどうでもいいとでもいいたげにあっさりとうなずいてみせただけで、すぐに事務的な口調でいう。
「わるいな、休暇つぶしてしまって。さっそくだがきみたちには……そうだな」
 ジュニーヴルのうしろから息をきらして走りよってくるザシャリの、いかにもひとのよさそうな顔にちらりと視線をはしらせた。
「比較的、楽なところをやってもらおうか。問題の指輪は、露骨だが大人数をさいてとりまいてる。屋敷のまわりもだいたい配置は完了しているから、きみたちには屋敷内の手うすな場所を順に見まわってもらう役をやってもらおう。いいか?」
 ふたりが無言でうなずきかえすのを待って、トラ主任はこまかい指示をあたえはじめた。
 やがて四囲をとっぷりと夜の闇がおおいつくすころ、ふたりはいちどめの巡回をおえて問題の宝物“双翼の天使”がほこらしげに展示された応接間の広大な空間に歩をふみ入れた。
 室内いたるところに無数の警官がたたずみ、ケースのなかに展示されたちいさな指輪に緊張にみちた視線を投げかけている。
 バスクとゲックが、先代から平等と協力の証としてゆずられた至宝だ。指輪にはそれぞれ、むかいあった天使が刻みこまれて一対をなし、ならべると一対の翼を背に肩を組みながら飛翔する図柄になる。マルシラ・レティスという名の、数世紀前の芸術家が双子の恋人におくったといわれる品だ。指輪自体の金銭的価値はさほどでもないらしいが、それに付随する芸術的価値には金額に換算しがたいものがあるという。
 トラ主任以下、派遣された主だった顔ぶれがそれぞれ所在なげに室内にちらばり、意外なことにバスクはそれらのひとびと相手に上機嫌に話しかけていた。
 ゲックのほうは警察関係者にもそつなく接するだけのこずるさをもっていたが、バスクは日ごろから明確に一線を画す傾向があった。あからさまに敵対心を顔にだすわけではないが、こういう場合に警察がしゃしゃりでてくることにはあまりいい顔をしない、という印象があった。それが、今日はすこぶる機嫌がよさそうなのだ。
 ライバルであるゲックが労せずして排除されたからだろう。
 トラ主任を相手に、ラシフド警察の捜査力の優秀さをほめたたえ、“双翼の天使”の奪われたかたわれも近いうちにとり戻されるにちがいない、などと笑いながら口にしている。もちろん、とり戻された至宝のひきとり手はとうぜん自分であると決めつけているらしい。
「ひどく能天気ね、かれ」応接室をあとにしながら、そっけない口調でジュニーヴルは感想をもらした。「とても自分のほうの至宝がねらわれているようには見えないわ」
「武装した警官が、これだけ厳重に警戒してるからね」ザシャリも緊張感に欠けた口調でいう。「強盗ふぜいが気軽にふみこむわけにはいかないよ」
 どうかしら、とジュニーヴルは鼻をならしていった。
 ゲックの私設軍隊が、今日の警戒に匹敵する規模とまではたしかにいえない。だが、けっして簡単に撃破できるようなものでもないこともまた、まちがいない事実だったはずだ。
 そしてそれ以上に――
 氷河の黒瞳を、ジュニーヴルは思いうかべる。
 首を左右にふって、その幻像をぬぐいさる。
 二度めの巡回。屋敷内の、警戒のうすい場所をおもに見てまわる仕事だ。わかりやすくいえば重要度の低い仕事にはちがいない。わざわざ助っ人としてかりだされた身には、わりにあう仕事ともいえないが――かたわらでのんきな顔つきをして鼻歌をうたっているザシャリの存在を思うと、トラ主任の判断にケチをつける気にもなれない。
 ひそかにため息をつくジュニーヴルに、そんなことには気づきもせずザシャリがふと、思いついたようにいった。
「そうだ。ちょっといまのうちにトイレにいっておいていいかな。集合時刻の三十分前についてて、それからずっときみのこと待っていたから、すましておく時間がなくって」
 いいわけのつもりすらないだろう、愚にもつかないセリフをにこにこと口にして、邪気のない目でジュニーヴルを見つめる。
 あきれてものもいえず、ジュニーヴルはため息とともに「どうぞ」と口にしただけであらぬかたに視線をむけ、腕を組みながら背後の壁に背をあずけたのだった。
 いそいそと、広大な建物内を見物でもするようなものごしで遠ざかっていくザシャリのうしろ姿を疲れた目つきで見おくり、するべきことも思いうかばずどこへともなく視線をさまよわせる。
 そしてふと、違和感をおぼえた。
 なにかに見おぼえがあったからだ。
 いぶかしさを抱きつつ、ジュニーヴルはもういちど、意識して四囲に視線をめぐらせる。
 目についたものの正体はすぐにわかった。
 一角に、あけはなされたままの扉があった。そのあいだから、室内のようすが見てとれたのだ。
 豪奢な調度にうめつくされた、ある種悪趣味ともとれるその部屋は、婦人用の寝室と見てとれた。さっき巡回したときに、おどろくほど容貌のととのった若い女がこの部屋に入っていくところを目にしたことを思い出す。
 歩みより、ちらりとのぞきこむ。
 灯りはともされたままだが、内部にはだれもいないようだった。一瞥しただけで、ちらかった印象がある。豪邸内部には召使いが多数目についた。部屋の整頓などもこの召使いたちに一任されているのだろう。ちらかっているといっても大したことはないのだが、ごく短時間でそれがなされたとなると、その部屋の使用者がいかにずさんであるかが容易に想像できる。
 が、ジュニーヴルの意識をひいたものは、そんなことではなかった。
 なにか、既視感に類するような感覚を惹起するなにかが、そこに見えたような気がしたのだ。
 その正体にいきあたるよりはやく――
「やあ、おまたせ、ジュニーヴル」
 いつものごとく、きわめてタイミングわるくザシャリが戻ってきたのだった。
 舌をならしてふりかえり――
 ジュニーヴルは眉をひそめる。
 ひとがよさそうな笑顔をうかべながら、ザシャリはこくりと首をかしげてみせた。
 ジュニーヴルは、能天気な顔つきをしばし見つめていたが、やがてまたもやため息とともに憤然とザシャリに背をむけ、むっつりとした顔でさきに立って巡回を再会する。
 ジュニーヴルの不機嫌な態度などザシャリにとってはいつものことであるためか、かれもまたいささかもたじろいだりはせず、早足で歩く同僚刑事のあとをあたりまえのように金魚のフンよろしく追いはじめる。
 つぎにおなじ場所にたどりついたとき、やはりひらいたままの扉を見つけてザシャリがふいに、「不用心だな」とつぶやいた。
「だれの部屋なんだろう」
 いいつつ、無神経にのぞきこむ。
「ご婦人の部屋、のぞきこむのよしたら」あきれた口調でジュニーヴルはつぶやいた。「さっき見たとき、若いきれいな女のひとが入ってくとこだったわ。バスクの愛人かなにかでしょ」
「へえ」
 と感心したようにザシャリはうなずき、こともあろうに扉を全開にしてずかずかと踏みこんでいった。ぎょっと目をむき、瞬時あまりの無神経さに棒立ちになったあと、ジュニーヴルはあわてて同僚刑事のあとを追って部屋にふみこみ、ものめずらしげにあちこち視線を投げかけるザシャリをむりやりひきずりだすはめになった。
 あらためて扉をきっちり閉じなおし、きょとんとするザシャリに憤然と説教をかましながら巡回をつづける。
 そしてふたたび、応接室へと回帰した。室内のようすはあいかわらずだ。つめている警官の何人かの顔からは、剥落したように緊張が欠けてきているようすがうかがえる。
「異常なさそうね」
 口にし、ジュニーヴルは部屋をあとにしようとした。
 瞬間――
「おい!」
 叫び声があがった。
 なにごとかとのぞきこむと、ガラスケースを前にたたずむトラ主任が、目をむきだしにしている姿があった。
 指さすガラスケースに――紙が、はりつけられていた。
 たちまちつめていた警官たちの群れが殺到する。
 人山の背後から、ジュニーヴルも状況を把握しようと近づいていった。小柄さがわざわいして、ようすがよくつかめない。しかたなくザシャリの姿をさがすと――殺気だってなだれこんできた、廊下をかためていた警官の一団につきとばされて、きりきり舞いをしている始末だ。
 無能刑事に期待するのは瞬時にしてあきらめ、どうにか状況をつかみとろうとかわされる怒号に耳をかたむける。
 そして――困惑の雰囲気が、徐々にひろがっていくことに気づいた。
 いったんは殺到した警官たちが拍子ぬけしたような顔つきで輪をときはじめ、ようやくガラスケースを中心とした一帯のようすが目に入った。
 視線をこらし――ジュニーヴルもまた眉根をよせる。
 展示ケースのなかに、問題の指輪はまったく異変も見られないまま鎮座ましましているからだった。
「主任、なんと書いてあるんです」
 たたずむ警官をおしのけるようにしてわりこみながら、ジュニーヴルはきいた。
 わけがわからない、といいたげな顔をしてトラ主任は手にした紙きれをひらひらとふり、
「〝目的の品はちょうだいした〟――そう書いてある。が……」
 困惑もあらわに、ガラスケースの中身に視線をむける。むろん、百分の一ミリと移動したようすさえない。ケースを動かしただけで警報がなりわたるようにしてあるはずだし、どれだけ気をぬいた者が多かろうと、これだけの人数がつめている部屋のどまんなかで警報機をならさずに中身をすりかえ、手紙まではりつけるような器用なまねができる人間が存在するとはとうてい考えられなかった。
「バスクさん、念のため確認してもらえますか。これはたしかに“双翼の天使”なんでしょうな」
 首をひねりつつトラ主任が問いかけるのへ、バスクは余裕の表情で首を左右にふってみせる。
「いや、だいじょうぶですよ。まちがいはありません。これは最初からここに入っていたものとまったく同一の品だ」
「だとすると、この手紙の意味がとれませんな」むずかしい顔をしてトラ主任はあごに手をかける。「それとも犯人のねらいは最初からこの“双翼の天使”ではなかった……? いや、そんなことも考えられないが……どうです、バスクさん」
 うーむ、と芝居がかったしぐさでバスクは腕を組み、
「心あたりがない、というわけではないが、まあ、この屋敷でいちばん価値のあるものといえばやはり“双翼の天使”だから――」
 そこまでいって――バスクは絶句した。
 口をあんぐりとひらいて宙をにらみつけ――
 だしぬけに、バネにはじかれたように立ちあがった。
「まさか!」
 叫ぶように口にし、意味がわからず立ちつくす警官隊をおしのけるようにしてとつぜん走りだした。
 つきのけられるのをさけてぱっと身をひいたジュニーヴルの目の前を、必死の形相ですりぬける。すぐに、ジュニーヴルも反応した。あとを追う。
 さらにほかに数人の警官がすばやく動き、それからトラ主任をふくめた一団がようやくあとにつづいた。
 ある予感があった。
 そのジュニーヴルの予感どおり、バスクは、巡回路にふくまれていた、愛人の寝室とおぼしき部屋にとびこんだ。
 つづいてとびこむジュニーヴルたちの目の前で、バスクは鏡台にむかって文字どおりとびは思い出していた。
 昨夜のことを。
 うす闇に沈みこんだ展望室の一角に――あの鏡台とおなじ形のものがたしかに存在していたのだ。
 そう――月灯りのもとで、見るともなしにながめやっただけのことだ。さだかに、とはいえないかもしれない。
 それでも、確信があった。
 なぜなら、泣きつかれてうたた寝をしていたとき、あのシャフルードがその鏡台のあるあたりで何かをしていたことを夢うつつに見たおぼえがあったからだ。
 つまり盗賊は――ジルジス・シャフルードは、最初から“双翼の天使”の――ほんものの“双翼の天使”の隠し場所を把握していたのだろう。それは化粧品のひとつにでも偽装されて、愛人の鏡台のなかに隠されていたということか。その偽装されたものをいちはやく見つけるために――シャフルードはおなじ品がおさめられているであろう鏡台をあらかじめ検分していた、ということか。
 ぎり、と奥歯をかみしめ――ジュニーヴルは四囲をながめまわした。
 ザシャリの姿が見あたらないことを確認して、手近にたたずむ警官に短く指示をとばした後、部屋から走りでる。


「動かないで」
 かたい口調で声をかけられ、ザシャリは硬直した。
 声に殺気がこめられていたからだ。
 バスクの私邸からはずいぶん離れた、閑静な住宅街の一角だった。
「ジュニーヴル? ぼくは――」
 とぼけた口調でふりかえろうとするザシャリに、
「動くと撃つわよ」
 さらにきびしい制止がかかる。
 ふりむきかけて、ザシャリはぴたりととまる。
 肩をすくめ、両手をわざとらしいしぐさで頭上にさしあげた。
「まいったなあ。もち場を離れたからって、脅迫することはないだろう?」
 能天気なものいいに、くすりとジュニーヴルは鼻をならした。
「けっこううまいわよ、あなたのものまね」
「なんの話だい、ジュニーヴル。ぼくは――」
 いいかけるザシャリのセリフをするどくさえぎり、ジュニーヴルはいう。
「そこがちがうわ。ほんもののザシャリなら、あたしのことはジュン、と呼ぶもの。なれなれしくね。ほんとうに無神経な男なのよ」
 言葉をのみこみ――ザシャリは、否、ザシャリに変装した男は、くちびるの端を笑みのかたちにゆがめてみせた。
「勉強がたりなかったか」
 声色もがらりとかわっていた。
 底ひびく、低い声音に。
 ゆうべ、ふたりだけの闇の底でこころよく耳にした声音だった。
 ゆっくりとした動作で片手を顔面にかけ、何かをひきはがす。ユニフレッシュ、人工肉とメディスキン、人工皮膚をひきはがしたのだろう。ひとのよさそうな顔の下から、盗賊の氷河を思わせる鋭利な顔貌が姿をあらわす。
「会いたくなかったわ。こんなかたちで」
 銃をかまえたまま、ジュニーヴルはいった。
「おれは会いたかったよ」笑いをふくんだ声が、そうこたえた。「どんなかたちでもね」
「愛の告白、と受けとっていいのかしら」
 くちびるの端を苦い笑いでゆがめながら、ジュニーヴルは問う。
 男は――シャフルードは肩をすくめてみせただけだった。
「真正面からどかどか乗りこむばかりじゃないってことは、ゆうべのうちに見学させてもらったからね」
「遊びがすぎたみたいだな」
 興深げな声音がいった。あせりはみじんもふくまれていない。
「観念しなさい」
 いいながら、自分の言葉に説得力が欠けていることを自覚していた。
 正体は不明だが、シャフルードの自信はゆらいではいない。
 油断なく身がまえ、口にする。
「まずは、あの無骨なブラスターを応酬するわ。ベルトのあいだにはさんでいたわね。動かないでね」
 いいながら一歩をふみだしかけた。
 瞬間――シャフルードは、頭上にかかげた右手の指を、ぴしりとはじいてみせた。
 パシッ! と、ジュニーヴルの背後でかたいものを断ち割ったかのような鋭利な音が、ひびきわたった。
 鉄の自制が、かろうじてふりかえろうとする反射行動を抑制する。が――意識がシャフルードからそれることまでは、おさえきれなかった。
 ほんの一瞬――
 ふりむいたシャフルードの手のひらのなかに、魔法のようにブラックメタルのブラスターが握られている光景を視覚がとらえる。
 トリガーをひきしぼったが、盗賊の身のこなしは常人ばなれしていた。
 レイ・ガンの吐きだす白熱の光条はシャフルードの肩口をかすめ――思い暗黒の銃口が吐きだした深紅の熱線もまた、からくも前方にたおれこんだジュニーヴルの頭上を通過した。
 さらに移動しつつ交錯する火線。
 それぞれに、たたずむ門柱と塀の陰に難を逃れたとき、たがいの勘と僥倖とに驚異の念を胸に抱いていたはずだ。
 ジュニーヴルは白熱する銃口に息をふきかけ、呼びかける。
「シャフルード! 逃げられないわよ!」
「逃げられるさ」笑いをふくんだ声が、おだやかにそうこたえた。「だれもおれをとめることはできない」
「甘くみないでよね」
「甘く見てなんかいない。きみはおれがいままでに出会ってきたなかでも、最高位に属する手ごわい相手だってことはたしかだぜ。勘も、動きも一流だ。それに射撃も正確だな。大会じゃ、さぞいい成績だろ?」
「大会じゃ劣等生よ。いつもさぼってるからね」
 ははは、とシャフルードは快活に声をたてて笑った。
「でてきて、シャフルード」ジュニーヴルは、むだと知りつつ、もういちど呼びかけてみる。「あなたを殺したくはない」
 すると――シャフルードはいったのだった。
「だいじょうぶだよ」
 と。まるで、死地へと旅立とうとする恋人にすがりつく娘を、安心させようとでもいうような口調で。
 目をむき、ジュニーヴルは息をのむ。
 そんなジュニーヴルに、ジルジス・シャフルードはつづけた。
「おれは殺されない。絶対にな」
「ばかいってるわ」
 苦笑とともにジュニーヴルは口にした。
 どう考えてもばかげたセリフだ。それでも――
 あいつなら、ほんとうに言葉どおり実行してしまうのかもしれない――そんな、まるで根拠の欠落した確信を抱かされてしまうような、自信にあふれた口調だった。
 ぎり、と奥歯をかみしめ、凶猛な笑みをうかべてジュニーヴルはいった。
「試してみるわ!」
 叫びざま――とびだしていた。
 ほぼ同時に、眼前に移動する黒い影にむけてたてつづけにトリガーをしぼる。
 光条が舗道をつぎつぎに灼きあげた。まぼろしのようにすばやく移動する影が――ふいに頭上におどりあがる。
 ――ばかげてるわ!
 狂おしい後悔は、今度はトリガーをしぼるよりさきにジュニーヴルにおとずれた。
 重力のくびきにしばられている以上、たとえほんの一瞬であろうと、飛翔の頂点で動作が静止する瞬間がおとずれることから逃れられる人間は存在しない。
 かっこうの標的に、ほかならないのだ。
 が――胸をかきむしるような哀しみにさいなまれながらも、ジュニーヴルの手にしたレイ・ガンは冷酷に宙に舞う影をトレースした。
 ためらいもなくひきがねをひく。
 きのうとおなじように。
 ――あたしはこの世界以外で生きられない。
 苦しみにみちた認識が胸をしめあげる。
 自嘲と、ふたたび増幅する地獄の日々への、重力にみちたあきらめの念。
 白熱の光条は影を一直線に撃ちぬき――
 ――だしぬけに眼前にあらわれた氷の微笑とともに、銃を握ったほうのジュニーヴルの手首が力強く握りしめられた。
 天に飛翔したのは、シャフルードが身につけていたザシャリの上着だった。
 痛覚にゆるんだ手のひらからレイ・ガンがこぼれ落ちる寸前――ジュニーヴルはむりやり、トリガーをひきしぼっていた。
 光が切り裂いた。
 シャフルードの頬を。
 擦過する高熱に、瞬時、盗賊の顔貌に激烈な苦痛がはしりぬける。
 が――すぐに凶暴な、野獣のような微笑がその満面にうかんだ。
「あぶなかったぜ」
 頬にぶすぶすと煙をあげる異様な傷を刻みこんだまま、盗賊シャフルードはこともなげにそういったのだった。
 自失は一瞬にとどめて――ジュニーヴルはすぐさまつぎの行動に移ろうとした。シャフルードの手をもぎはなし、逃走する。可能ならばレイ・ガンを保持し――
 ――それよりはやく、シャフルードの姿がふたたび移動する影と化していた。
 一瞬にしてジュニーヴルの視界から消失し――首筋に打ちこまれた衝撃とともに、つぎの言葉はジュニーヴルの背後からかけられた。
「また会いたいな、ジュニーヴル。何度でも」
 それは、あのラシフディン・タワーの下で朝、右と左にわかれるときに男が口にした言葉だった。
 会いたくはないわ――あのときジュニーヴルは哀しげに笑いながらそう口にした。
 男の正体を、直感が知覚していたからだ。会えば、命のやりとりをしなければならなくなる――まちがいなくそう確信していたから。
 だが、いま――昏倒の深く暗い淵へとおちこみながら胸の奥底にうかんだ言葉はちがっていた。
 それを口にすることはできず――ただ反射的にジュニーヴルはつきだした掌底を、遠ざかりつつあるシャフルードのあごにむけてはねあげたていただけだった。


 気がついたとき、真白い天井を背にしてザシャリが心配そうにのぞきこんでいる顔がまず目にとびこんできた。
 べつに見たくもない顔が最初に見えてしまったな――とドライな感想を胸にしながら、ひとのよさそうな顔がおどろきに、ついでよろこびに激しくゆがんでいくのをひどく遠い世界のできごとを見ている気分でながめあげる。
 もうろうとしたジュニーヴルの手をとってふりまわしながらザシャリが口にする歓喜と感謝の言葉にはいささかの感慨もおぼえず、ただジュニーヴルは、もういっぽうの手がなにかを握りしめていることにふと気づいた。
 腕ひとつあげるにもよわよわしい動作になるか、と予想していたが、意外に力づよく手は移動してくれた。
 おおげさな歓喜の表現をもぎはなし、ジュニーヴルはゆっくりと上体をおこして背もたれにあずけ――あげた手のなかに握りこんでいたものを見つめる。
 ちぎれた鎖に、深紅の宝石。
 ジルジス・シャフルードの首にかけられていた、ネックレスの残骸だ。
 最後の一撃は、かろうじて一矢むくいたことになるらしい。
 ぼんやりと、ジュニーヴルはそのあざやかな紅に視線をそそぎ――
 ふと、あわい微笑を無意識にうかべている自分に気がついた。
 ふしぎそうな顔つきで自分を見つめるザシャリは無視して、ジュニーヴルは無言のままながいあいだ、その深紅の宝石を見つめていた。
 やがてふいに、病室の扉をあらあらしくひらいてベール課長がふみこんできた。
「お、ジュン、もう目がさめたのか。せっかくの機会だからもうすこし眠っていればよかったのにな。盗賊の変装対象に選ばれてトイレの個室に気絶したままおしこめられていたどこかのうすらばかとちがって、おまえさんはすんでのところまで犯人を追いつめたんだからなあ。ま、ふたりとも、命があっただけでもめっけもん、てところはかわらなかったろうが」
「盗賊はどうなったんです?」
 ジュニーヴルは淡々とした口調でそう問いかけた。
 ベール課長はぎょろ目をぎろりとむけてくやしげに眉根をよせる。
「まんまと逃げられたよ。おまえさんの指示した包囲網は、かなりいい線までやっこさんを追いつめたらしいんだがね。ツメの甘さをつかれたらしい」
「そうですか」
 平然とした顔をしてジュニーヴルは軽くうなずいただけだった。
 まるで、それがあたりまえのことででもあるかのように。
 それから、うっすらと微笑をうかべる。
「課長、星際警察機構に永久氏名手配を申請すべきだと進言しておきます」
「永久警察に?」ベール課長は、ぎょろ目をこぼれ落ちそうなまでにむきだした。「それほどのタマなのか、あの盗賊は」
「ええ」と、確信にみちてジュニーヴルはうなずきかえす。「名前はジルジス・シャフルード。モンタージュの作成にはあとで協力します。それと、もうひとつお願いがあるんですけど」
「なんだ」
 いぶかしげに課長が問いかえすのへ、
「わたしを推薦していただけませんか? 星際警察機構の、広域捜査員として」
「永久刑事になろうってのか、ジュン」
 すっとんきょうな声をあげてベール課長はききかえす。
 ザシャリもまた、あけっぴろげな驚愕を顔面にはりつけながら、まじまじとジュニーヴルの顔を見つめた。
 ジュニーヴルは、微笑みながらうなずいてみせる。
 課長はぼうぜんとした顔のまま、口をひらいた。
「そりゃ、おまえさんくらいの実績があれば、むこうさんも諸手をあげて歓迎してくれるだろうが……そうなると、おれのほうがきついな。優秀な刑事をひとり、ひっぱられちまうことになるからよ」
 じろりと横目でザシャリをにらみつけ、わざとらしくため息をついてみせてから、ジュニーヴルにむかってにやりと笑いかけた。
「いいだろう。生涯かけて追いたい仇敵を見つけたってわけだな。いっとくが、あっちのほうがこっちより給料はやすくて仕事がきついんだぜ。もちろん、休暇なんかほとんどとれやしねえ。こっち以上にな。覚悟しとけよ」
「それは知りませんでした」笑いながらジュニーヴルはいった。「とつぜん、後悔の念がふつふつと」
「撤回するか?」
 にやりと笑いながらベール課長がいう。ジュニーヴルにそんな意志などかけらもないことを理解している顔だ。
 とそのとき、これもいつもどおり唐突にザシャリが口をひらいた。
「あの、それじゃぼくもついでに」
 ぽかん、と、左右から自分を見つめる二対の視線を前にして、ザシャリは小首をかしげてひとのよさそうな微笑みをうかべる。
 そしてふいに、ジュニーヴルが、はじけるように笑いだした。
 ベール課長は仏頂面で「まあ、いちおう話だけはしておいてやるよ」といかにもしぶしぶといった調子で口にした。
 それだけで、もう永久刑事になれたのだとでもいいたげな能天気な微笑をザシャリがうかべるのを見て、ジュニーヴルはさらに笑いを激しくする。


 のちに伝説の盗賊と呼ばれることとなるジルジス・シャフルードと、その伝説の盗賊に匹敵する非情さで〝氷の乙女〟の異名をささげられるはずの永久刑事、ジュニーヴル・カーレオンとの、これが出会いの物語。


(了)


			

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