花 畑
霧のように、それは立ちこめていた。あわく、かすかな紫色に。
夜だった。むせかえる。無数の会話。神経組織。甘い。死のにおい。うずまく。つつまれる。抱かれる。声。思考。感情。意志。意思。甘く。甘く。死を呼びよせる。深い地の底から。
とび交う無数の花粉が、一帯を紫色におぼろに染めあげる。背後には森。前面には、おなじ色の無数の花。丘のつらなり。
そのつらなりのかなたから、ひとつの人影が姿をあらわす。
月光に照らされて、夜の闇の底におぼろにうかびあがる、ちいさな人影。
シャフトは身じろぎ、目をすがめる。樹木の幹に背をあずけたまま。
人影は、ゆっくりと丘を横ぎってくる。ふみつけられた花片が、そのたびにまぼろしのように舞いあがる。紫色の微粒子を霧のように、四囲の大気にまき散らしながら。
「シャフトさま」
やがてたどりついた男は、目をすがめてシャフトをながめやりながらそう呼びかけた。
「ピエルか」
シャフトはこたえる。
「さがしました、シャフトさま。お会いしとうございました」
無表情にピエルはいって口をとじ、じっとシャフトの美貌を見つめる。
美貌。悪魔のように。ナイフのように。あるいはナイフに刺しつらぬかれてとび散る鮮血のように。底知れぬ蠱惑にみちた美貌。ただ一点――その額に無惨に刻みこまれた、えぐったような傷跡をのぞけば。
――否。
あるいはその傷跡こそ、その美貌に刻まれたもっとも美しいアクセントであったのかもしれない。
それをじっと見つめるピエルの、まるで対照的なその容貌。四角い、石畳のような顔。削ぎ切ったように刻まれた、蛇のような目。ずんぐりとした、力強いがバランスに欠けた肉体。むくんだ指。短い足。
おのれのその醜貌を知りぬいたがために、とどかぬ美貌を体現した眼前の〝貴種〟にかぎりない憧憬を抱けるのだ――とでもいいたげにピエルは、じっとシャフトを見つめる。
紫色に染めあげられた夜を背にして、無骨に腰にまわされたガンベルト。そこに無造作につっこまれた鈍色のレイ・ガンが、異様に熱にみちた輝きを放つ。不吉で、うつくしいまでにまがまがしさを秘めたその輝き。
身じろぎもせず樹幹に背をあずけたまま、シャフトもまた無言で、そんなピエルを見かえした。
やがてびくりとしたように目を見ひらきながら、ピエルが口をひらく。
「けがをしておいでですか?」
半歩をふみだそうとして――硬直する。
とほうにくれたように宙で静止する、ずんぐりとした手のひら。
まるで、自分のようなみにくいものがふれれば、その美が風に散ってしまう、とでもいいたいように。
切なげな顔が、その魁偉な風貌をうめつくす。
シャフトはうっすらと微笑む。
ピエルのそんなとまどいを――そう、まるで愛玩する小動物の愚かな行為を、いとおしさをもって嘲弄でもするかのように。
「もう治りかけている。気にすることはない」
微笑んだまま、シャフトはいう。
そうですか、とピエルはつぶやきながら、なおも哀切にみちた視線を眼前のうつくしい生きものに投げかける。
そしてふいに――その全身から力がぬけ、棒立ちの姿勢に戻る。
敷石のような無表情。
シャフトは微笑んだまま、口にする。
「ジェルダンの命令で、おれをさがしにきたのか?」
「いえ。ジュジュさまです」
岩のような声でピエルはこたえる。
ジュジュか、とシャフトは笑った。
「そうか、ジュジュがか。あいつもそういえばサライに魅入られた者のひとりだったな。なるほど。では、サライを殺したこのおれを、あいつもまたさぞ憎んでいることだろうな」
瞬時、ピエルの面貌に苦痛のようなゆがみが走りぬける。
すぐに岩の無表情をとり戻し、こたえる。
「おっしゃるとおり、ジュジュさまはあなたのことを憎んでおられます、シャフトさま。わたくしのような者の前で、煩悶に涙を流す姿を隠すことすらしないほど――ジュジュさまはあなたのことを――」
「おれを、殺したいほど憎んでいるのだな」
いって、シャフトは声を立てて笑った。
ピエルは――かなしげに首を左右にふる。
「憎んでおられます。愛しておられるのと、おなじくらいに」
「利いたふうなことを」笑いながらシャフトはいった。「おまえがそのような口をきいていると知れば、ジュジュは烈火のごとく怒りだすだろうさ」
「おっしゃるとおりでございます、シャフトさま」
うっそりとこたえてピエルは、ねばつく視線をシャフトにからませる。
うす笑いを口もとにとどめたまま、シャフトもまっすぐにそれを見かえす。
「わたくしも〝貴族〟に生まれとうございました、シャフトさま」やがてピエルが口をひらいた。「あなたのように、美しく、自由に」
「〝貴族〟は自由ではないぞ、ピエル」シャフトの顔から笑みが消える。「もっとも不自由なやつらだ。おれもそうだった。これをとり除くまでは」
と、その額に無惨に刻みこまれた、異様な傷口を指さしてみせる。
いたましげに、ピエルは顔をゆがめる。
「〝智の真珠〟……」
「おぞましい名だ」シャフトは口もとをゆがめて吐きすてる。「見張りだよ。おれたちの心の底まで見張るために、埋めこまれた器官だ」
「それはしかし――〝大聖母〟さまの御子さまたちへの、慈愛の証でありましょう」
それをきいてシャフトは、心底おかしげに声を立てて笑った。
ただよう紫の微粒子が、すずしげな声音にふるえて世界をゆらめかせる。
ピエルは笑いつづけるシャフトをぼうぜんとながめやり――
ふいに〝貴族〟は笑いやめて、ぎらりとピエルに視線をむけた。
凶暴な、憎悪にみちた野獣の視線。
「慈愛?」そして叫ぶようにしていった。「慈愛だと? おまえはまちがっているぞ、ピエル。〝大聖母〟は、おれたちを愛してなぞいない」
「そのようなことが――」
ぼうぜんと口にするピエルを激しくさえぎって、シャフトはなおもつづける。
「おまえにはわかるまい。〝智の真珠〟にしばられた、ほかの貴族どもにもな」
「ですが」とピエルは悲鳴のようにいう。「あなたがた〝貴族〟はその〝智の真珠〟で〝大聖母〟さまとつながれているのではありませんか。偉大なる力をもってあなたがたを慈しみ、つねに見守り、みちびき、守りたもう〝大聖母〟さまの――」
「慈愛! 慈愛か! 笑わせてくれるな、ピエル」
たまらぬように、シャフトはたかだかと哄笑した。
それはまるで泣き声のように四囲を狂おしくふるわせる。
「だがな、ピエル。おまえの言葉のえらびかたはまちがっているぞ。根本的にまちがっている。見守っているのではない。あいつは、おれたちを監視しているのだ。みちびいているのではなく、おのれの思いどおりに動くよう制御しているのだ。守っているのではなく束縛しているのだ。慈しんでいるのではない。だんじてちがう! あいつは、おれたちに執着しているだけだ。人形のように、自分の好きなようにもてあそんで悦に入っているだけだ。愛という名のもとに、あいつはおれたちをじりじりと抱きつぶしているだけなんだ」
言葉もなく、ピエルは激昂するシャフトを見つめた。
荒い息をつき、シャフトはわき腹に手をやる。
血がにじんでいた。
シャフトさま、と、二三歩ふみだしかけるピエルを、〝貴種〟はするどく視線で制する。
「たいしたことはない」
うなずききれず、ピエルは苦しげに顔をゆがめてシャフトを見やる。
が、やがて力なく首を左右にふりながら、視線をそらす。
「わたくしにはわかりません、シャフトさま」そしていった。「あなたがた〝貴族〟は、どなたもみな愛憎に心を引き裂かれているように見える。ジュジュさまがそうだ。あのかたはあなたを愛しておいでだ。口にだされることはないが、見ていればわたくしのような者にもわかります。あなたもそうだ、シャフトさま。あなたもジュジュさまのことをおなじように考えておられる。いや、ジュジュさまだけじゃない。ジェルダンさまも、サライさまも、アンリさまも、そしてほかのすべての〝貴族〟のかたがたも。あなたがたはみな、たがいに、愛し、憎み、そして蔑みあっておられる」
「そのとおりだとも、ピエル」口もとに嘲笑を刻みこみながら、シャフトはこたえた。「おまえのいうとおりだ。なぜなら、おれたち〝貴族〟はすべて、おなじ胚から生まれた、兄弟よりもなお強いつながりをもつ同胞なのだからな。おなじ血を抱く、分裂した無数の自己――それがおれたち〝貴族〟なのだからな。そして――」と、シャフトは刺すような視線をピエルにむける。「そんな〝貴族〟たちに側近く仕えている者どもも、気づかぬうちにおなじ種類の倒錯に染めあげられているのだぞ。ピエル、むろん、おまえもだ。おまえはジュジュを愛し、憎み、そしてジュジュに蔑まれ、うとまれ、高みから汚物を見るような目で見おろされることに陶酔している。そうだろう」
ピエルは口をとざし、じっとシャフトを見つめる。
そしてうなずく。
「おっしゃるとおりです、シャフトさま」静かな口調でそういった。「わたくしはジュジュさまを愛し、憎んでおります。はいつくばって辱めをうけることに、無上のよろこびを感じております。そして――あなたさまにも、おなじ気持ちを」
「おぞましいな、ピエル」シャフトはあざけり笑いをうかべたままこたえる。「おぞましいな、ピエル。おまえのような者に、そんな言葉を投げかけられるとはな。だが、こんなふうにいわれるのも、おまえには心地よいのだな。それとも、この程度ではものたりないか?」
ピエルは、その醜貌を切なげにひきゆがめただけで、なにもこたえようとはしなかった。
そして、また石のように無機質な顔をとりもどし、抑揚のない声でいう。
「わたくしはあなたをお迎えにあがったのです、シャフトさま」
「ちがうだろう、ピエル」笑いながらシャフトはいう。「おまえにももうわかっているはずだ。ジュジュが望んでいるのは、おれの死だ。だが、ジュジュは自分の手で死の鉄槌をおれにくらわすことはできない。なにしろ〝智の真珠〟によって四六時中〝大聖母〟に見張られているのだからな。おれを殺すことはおろか、おれを殺したいと思うことすら考えることを許されはすまい。おれたちのだれもが、子どものころからその精神を制御されてきたように、そんなことをちらりとでも思いうかべるだけで、ひどい頭痛と、そして罪悪感をむりやり呼びさまされるのだからな。だがな、ピエル、それでも抑えられないものもある。愛。憎悪。……そして後悔」
はっと、ピエルはその顔をあげてシャフトを見つめる。
にやりと〝貴種〟は笑う。
「わかっているはずだ、ピエル。おまえには、ジュジュの真の望みが」
そしてシャフトは、笑うのをやめて真顔でピエルを見つめる。
あわい月光に照らされて、大気をうめつくさんばかりに舞いおどる紫色の花粉。
風に、かすかにゆれる花片。
まるで、ふたりの会話に耳をかたむけてでもいるかのように。
「おまえは、おれを殺しにきたのだ。そうだろう? ピエル」
やがて静かに、つぶやくようにシャフトはいった。
ピエルは、その硬質の醜貌に感情をおしかくしたまま、それにはこたえなかった。
ただ、いった。
「〝大聖母〟さまはあなたの存在をどこにも感じることができぬ、とおっしゃっていたそうです。だからだれもが、シャフトさまはもうこの星域にはおられぬのだろう、と考えていらっしゃいました。だが〝大聖母〟さまの目を逃れてこの〝イサティス〟をあとにすることもまた、不可能とはいえないまでもきわめて困難です」
「そのとおりだ」と、シャフトはふたたび嘲笑をとり戻しながらうなずく。「おれはここにいた。傷を癒すために」
「そう」
と、ピエルは四囲をながめまわす。
シャフトの背後の森。
自分の背後にひろがる、無数の花片。
宙にただよう紫色の微粒子。
「まるでまぼろしのような光景だ」とピエルは、ため息のようにつぶやいた。「このように美しい場所がこの星にあるとは、わたくしはついぞ知りませんでした。おそらくは、わたくし以外の多くの人々も――〝貴族〟のかたがたも、そうでない者どもも、ほとんどの人々が、ここにこんな美しい風景があるのだとは知らずにいることでしょう。広範な宇宙をその足下にひざまずかせ、あらゆる美をきわめつくした〝イサティス〟に属する、ほとんどすべての人々が」
「おまえはなぜ、それに気づいた?」
シャフトの問いにピエルは無表情にこたえる。
「あなたさまをさがしたからです。わたくしは信じていた。あなたさまはまだこの〝イサティス〟から――それどころか、この星からさえ、立ち去ってはおられないのだと。なぜそんな確信があったのかはわかりません。単なる思いこみだったのかもしれない」
「あるいは」と、シャフトはからかうように口にした。「愛する者の勘、か?」
応じず、ピエルは真顔でつづける。
「わたくしはこの星の全域を地図にとり、ひとつひとつ細かく検討していった。そして空白の場所がいくつかあることに気づきました。都市もなく、〝貴族〟の館も、実験場もなく、〝隷民〟たちも踏みこまず、まるで手の加えられていない不思議な土地があることに。多少は山奥にある場所だが、さしておもむくのに不便でもない。自然の峻厳さなどかけらもないような場所なのに、そこにはなぜか人のおとずれた形跡がほとんどない。しかも、今の今まで、だれもそのことに疑問すら抱くことをしなかった。わたくしもまた、あなたをさがすという目的がなければ、とうていそのことには思いいたりもしなかったでしょう。だがわたくしは見つけた。そしてひとつひとつ、自分の足で確認して歩くことにした。そこで気づきました。その奇妙な〝空白〟の土地には、かならず、このあわい紫色をした花畑があることに」
「シェルヴュ、と名づけたよ」
「シェルヴュ、ですか」と、ピエルはくりかえした。あいかわらずの無表情な目の奥に、なぜかうっとりとした光が宿っているようだった。「うつくしいひびきだ。とてもこの花に似合った名です。だが――そう。おそらく、シャフトさま、あなたがこの花に名をおつけになるまでは、これほどあちこちに点在している花畑のなかの花に、名前すらつけられていなかった」
「だろうな」
シャフトは静かにこたえる。
ピエルはそんなシャフトをまぶしげに見つめながらつづける。
「わたくしはこの旅に出る前に、ジェルダンさまに頼んで、この〝空白〟の土地を透視していただきました。こたえは――」
「なにもない。そうだろう?」
「おっしゃるとおりです、シャフトさま。見るべきものはなにもない。ジェルダンさまはそうおこたえになられました。だが――ここにあなたはいた」
「そうだ」
とシャフトはこたえ、四囲をながめまわした。
その視線を追って、ピエルもまたゆっくりと視線をめぐらす。
「ここは〝貴族〟のかたがたや〝大聖母〟さまの力――われわれにははかり知れぬ、目に見えぬ超能力ネットワークからは、完璧なまでに隔絶されている。なぜです?」
いって、じっとシャフトの顔を見つめる。
こたえなど期待していないかのように、陶然とした顔をして。
シャフトは、目をとじてこたえる。
「簡単だよ、ピエル。この花たちが、それを望まぬからだ」
と。
ピエルは、いぶかしげに眉根をひそめる。
「望まぬ? 花が?」
「花たちが、だ。見ろ、ピエル」とシャフトは目をひらき、右手をおおきくひろげて紫色にゆらめく花畑をさし示した。「この花たちは、言葉をかわしているぞ。わかるか?」
ピエルは目をむき、背後をふりかえる。
つらなる丘のかなたまで、夜の微風にゆらめく無数の花々。
大気まであわい紫色に染めてしまおうとでもいうかのごとく、周囲にただよう無量の花粉。
うすきみわるそうに、ピエルは目を細めながらくちびるをかみしめる。
「どういうことなのです? シャフトさま」
口にした言葉が、やけによわよわしげにひびいた。
シャフトは短く声を立てて笑った。
「ネットワークさ、ピエル。この花たちは、つながれているのさ。ひとつなんだ」
ますますわからぬ、といいたげにピエルは、さらに眉間にしわをよせる。
シャフトはつづける。
「わからないか、ピエル。そうだろうな。おれもながいあいだ気づかなかった。だが、ここにこうして身をひそめて、風に粒子をとばす花たちを見ているうちに、かれらの交わす言葉がきこえてきたのだ。いいか、ピエル。地の下に複雑にのび、からまりあう根のネットワーク。これは神経組織とおなじだ」
ピエルはすがめた目を、ゆっくりと見ひらいていく。
それにはかまわず、シャフトはなおも言葉を口にする。
「この花たちは、ひとつの頭脳なのだ」
ざわ――と、森が身じろいだ。
そこにまるで意志がはたらいたかのように感じて、ピエルは思わず背筋をふるわせていた。
「そんな……ばかな……」
それをきいて、シャフトは笑う。苦く。まるで自分のおろかさをつきつけられたかのように。
「なぜそうなったのかは、おれにはわからない。だが、ピエル。おまえには信じられなくとも、そうなのだ。この花畑は、ひとつの生きものなんだ」
ぼうぜんとしたまま、足もとの確固たる地面が急激に動けば崩壊してしまうとでもいいたげにおそるおそる、ピエルはふりかえった。
つらなる〝シェルヴュ〟の花々に視線をむける。
うなずきあうかのように、風にゆらめく無数の花片。
かすかな月光。
じわりと、胸の奥底から狂気がわきだす幻像を、ピエルは頭のなかにうかべた。
そんなピエルのようすには委細かまわず、シャフトは花畑に遠い視線をやりながらいう。
「季節がきて花粉をとばすとき、その思考はもっとも活性化する。おれのような、まったく異質の生命にさえその言葉がもれきこえてくるほどにな。ピエル。シェルヴュは、おれたちを恐れている。〝貴族〟をではなく、もちろん〝大聖母〟でもなく――おれたち、人間という種族そのものをな。だから人の視線をひかぬよう、無意識に呪界をはたらかせているのだ。人間という種族が、この楽園を土足でふみにじることのないようにな。だが、それは完璧にはほど遠い。おまえはさっき〝空白〟の場所がいくつかある、といったな。最初はこのシェルヴュの花畑は、この星中、いたるところにあったはずだ。それを人間がふみにじり、ほろぼしていった。だからこそ長い時間をかけて、シェルヴュたちは人の意識を自分たちからそらすすべを獲得していったのだろう。それでも、まれには迷いこむ者がいる。おれのようにな」
シャフトはいとおしむように花畑をながめやる。
そしてつづける。
「最初におれがここにきたとき、おれは〝智の真珠〟をとおして〝大聖母〟の叱責――いや、拷問をうけてもうろうとしていた。だが、このシェルヴュの群生に足をふみ入れたとき、おれはいつのまにかその拷問から解放されていることに気づいたのだ。いや、拷問から、だけじゃない。ものごころつくずっと以前から、つねにおれの心の底にひそんでいた、愛という名目の凝視そのものから、解放されたのだということにな」
ぼうぜんとした思いで、そんなシャフトの言葉を背中でききながらピエルはシェルヴュの群生をながめやっていた。
ひとりごとのような口調で、シャフトはつづける。
「そのとき、おれは初めて気づいたんだ。おれたち〝貴族〟は、〝大聖母〟の生み出した理想の子どもたちなのだ、とな。大きな力をもちながら、決して母には逆らわず、いつまでもその庇護のもとに母の思いどおりの生きかただけを生かされているのだとな。ピエル。〝イサティス〟は、永遠のゆりかごという名の地獄だ。そしておれたち〝貴族〟は、自由意志すらもつこともできずに甘やかされた地獄で生かされつづける人形なのだ」
「だから」と、ピエルは、シャフトに背をむけたままぼうぜんとつぶやく。「あなたは大聖母さまにそむいて……」
「そうだ」と、凶猛に笑いながらシャフトはこたえた。「おれはそのことに心の底で気づいていたのだ。いや、おれだけじゃない。イサティスの〝貴族〟どもは、おれの兄弟たちはみな、心の底ではそれに気づいているはずだ。そのいらだちがおれを、そしてやつらを、あれほどまでに残酷に、無慈悲な存在にしたてあげているのだ。〝智の真珠〟をえぐりだし、ほんとうにひとりになったときに、おれはようやくそのことに気づいたんだ」
背中でききながらピエルは、言葉さえなくただたたずんだまま花畑に茫漠とした視線を投げかけているばかりだった。
が、やがて追跡者は、ゆっくりとふりかえっていった。
「ですが――〝大聖母〟さまは強大です。特殊能力を発達させて生まれてこられた、あなたがたすべての〝貴族〟をあわせたよりも、なお強大です。あなたのその反逆は絶望的だ」
「どうかな」と、シャフトはくちびるの端をゆがめながらそういった。「おまえは知っているだろう。〝貴族〟の死など、〝イサティス〟がかたちをなしたころから絶えてなかったはずだ。それがサライの死によってくつがえされたのだぞ」
「それはあなたさまが……〝智の真珠〟の束縛から……」
「そうだ」とシャフトは凶暴に笑いながらそういった。「それもまた、〝貴族〟が生まれ出てきてから絶えてなかったことだ。そしてサライを死にいたらしめるきっかけをつくった〝外界〟からの侵入者の存在も、な」
反論を口にしようとしてピエルは――丘にうちあげられた魚のようにあえぐことしかできない自分に気づいていた。
声を飲み、くちびるを閉じ、じっと、眼前に腰をおろす美貌の反逆者の姿を見つめる。
そしてながい間をおいて、口をひらく。
「そう……あなたなら、できるかもしれない。ただし――ここで生きのびることさえできたなら」
にやりと、シャフトは笑った。
「そして、おまえはおれを殺しにきたのだ。そうだろう? ジュジュの、心の底の望みをかなえるためにな。そしてここでなら、おまえにもそれが可能だ。大聖母の視線はここにはとどかない。それに――」
「それに」とピエルがあとをつぐ。「シャフトさま、あなたご自身の〝力〟もまた、ここでははたらかない。シェルヴュの群生の〝呪界〟にさまたげられて……」
「そのとおりだ、ピエル」シャフトは、樹幹に背をもたせかけた姿勢のままそういった。「おれが〝貴族〟をはじめて殺した者となったように、おまえは〝貴族〟をはじめて殺した〝隷民〟となることができる、というわけだ。もっとも――おまえがおれを、殺せれば、の話だがな」
そして嘲笑でそのくちびるのはしをゆがませながら、シャフトはピエルをじっと見つめる。
その視線を受けるピエルの双眸のなかに――何かがうごめく。
かなしみとも――愉悦ともとれる何かが。
「シャフトさま」と、かすれた声音でピエルはいう。「わたくしはあなたさまを愛しています。……憎んでいるのと、おなじくらいに」
その醜貌を、笑いのかたちにかすかにゆがませた。
つぎの瞬間――
銃声。
白熱の光条が夜の闇をまばゆく切り裂いた。
そのまま、ふたりは硬直した。
ながい時間。
白い煙が、静かに夜空に立ちのぼる。
そしてふいに――ピエルの醜貌が、歯をむきだしにして笑う。
「シャフトさま」かすれた声音で、呼びかける。「わたくしはあなたさまを――」
そのまま、静かに崩れ落ちる。
紫色の花弁が群がるただなかへと。
花びらが夜に音もなく舞いあがり、あわい色の微粒子をつめたい大気のなかへとまき散らす。
そして――紫一色に染めあげられた景色のなかに、ただ一点。血の赤が、地をゆっくりと染めはじめる。
ピエルの岩板のような胸につきたてられたナイフのあいだから、滝のようにふきだしながらその赤は、ゆっくりとその輪を大きくひろげていく。
半身をのりだした姿勢から、シャフトは糸が切れたようにどさりとふたたび背後の樹幹に身をあずけ、ながい、ながいため息をつく。
遠い空のかなたを、見透そうとでもいうようにながいあいだ無言のままながめやり――
そして静かに、たおれ伏したピエルに視線をむけて、ささやきかける。
「おれは奇跡を起こすだろう」そして、あらたにつけられた肩口の傷口に手をやり、わずかに顔をしかめる。「〝貴族〟も〝大聖母〟も、この世界からとり除いてやる。かならずな。そのときまで、おれは死なない」
たおれ伏したからだはぴくりとも動かず、ただ流れだす血流ばかりが音もなくひろがっていく。
そのうしろで、無数の花たちが声もなく、いつまでも風にゆらめいていた。
シャフトは静かに目をとじる。
(了)