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ガジェット ボックス GADGET BOX 雪月花

雪 月 花


 二十歳の春。奴は呑んだくれていた。

 おれはといえば、散りしだく花のもと、半端な酔いにさだまらぬ足で当てもなく歩いているだけだった。新歓コンパと称する茶番劇にはどうにもなじめず、節操なしによってたかって仲良しごっこを展開しようと努力するカスどもに媚を売る気にもなれずに、二次会に人をひきずりこもうとするお節介な仲間意識を強引に断ち切って罵声を背にひとり、気がつけばひとけの絶えた大学構内を歩いていた。
 二年間のモラトリアムでずいぶんしたたかになっていたような気もしていた。望まぬ結果への妥協にひねくれていたのもまちがいない。醒めきっていたのは周りの連中が馬鹿にしかみえなかったからだが、ひとりの巣に戻ることなく当てのない深夜の散策に踏みだしていたのは、やはりなにかを求めていたからなのだろう。
「めぐみぃ」
 酔い痴れた声音にふりかえると、無節操に咲き乱れ散りしだく大樹の幹に、奴はいぎたなく酔いつぶれていた。
 見返すおれの視線にどんよりとした双眸が焦点を結ぶまで、はてしない時間が経過したような気がする。あげくのはて、
「だれだてめえ」
 ときた。トラッドも着くずれてちゃ貧相にしかみえない。おれは軽蔑もあらわに口端を歪め、
「てめえこそだれだ」
 訊いた。これがおれと奴との出会いだ。
 ろれつのまわらない奴のくだまきは内容の半分も理解不能だったし、残りの半分はまるで意味がなかった。いく当てがあればうっちゃっておいただろうが、一升瓶から直のみで奴の消費に手を貸し、へべれけの勢いでいまどきの四畳半、奴の城へとなだれこんだときはなにもかも、どうでもよくなっていた。
 明け方まで呑んだくれて正常に理解できたのは、奴がおれと同い歳の学年は一個上で、哲学科の学生であるということだけだった。なにしろ奴ときたら口にするのは、埒もない嘲笑と孤高を気取ったまやかし、それに世界に対するひねりにひねった呪咀ばかり。意味と自信の欠落した言葉は愚痴になることさえ拒み、斜にかまえた分だけより空虚さを増していく。それでもおれが奴を見かぎらず、むしろおもしろみと親近感とある種の尊敬さえ覚えつつ肩を抱きあいこづきあっていたのは、奴の内部におれのなかの淀みと奇妙に同調するどろどろを見ていたせいかもしれない。中村宏樹という奴の名は奴自身の口からではなく、狭い部屋に開封もされずに無造作に放りだされた段ボール箱の、宅急便の送り票から得た情報だった。
 小便したさに目を覚まし、偏頭痛と格闘しつつ共同便所の小汚い便所下駄をふらふらとつっかけたとき、黄色い太陽はすでに中天を通過しつつあった。流せばよけいに汚くなりそうな手洗いを忌避して、これもお世辞にも清潔とはいい難い炊事場の水道をめざしたところで、おれははじめてその女の存在を認識した。
 その微笑をどう表現すればいいのだろう。魅力的ではあったが、どうにも投げやりな笑い方だった。油と埃のこびりついたガスコンロで湯をわかしていたその女は、
「あんたも飲む?」
 おれにむかってそう言った。なんのことやらわからずリアクションに窮してただ佇むだけのおれに、どうでもいいけど、とでもいいたげに女はくりかえした。
「コーヒーよ。あんたも飲む?」
 判断のつかないままとりあえず「あ? ああ」と間抜けな応答を返すおれに、さっきとは微妙にちがう笑いをくすりともらして女は湯のわきたった鍋をコンロからおろし、火をとめた。そして当然のように先に立って奴の部屋のドアを開けたとき、初めておれはこの女が「めぐみ」であるということに思いあたった。
 コーヒーは出がらしでひどく不味かったが、きりりと痛む酔い明けの頭には多少の効果を発揮したらしい。
 乱雑な部屋のなかには何も架けられていないイーゼルがひとつ、そしてスケッチブックの破れ端に描かれた無数の素描。絵の内容にはまるで一貫性がないが、ただひとつ共通した雰囲気は、投げやりな病的さだった。
 おぼろげに浮かびあがる記憶のなかで、「なんだこの絵は? おまえが描いたのか?」と奴に訊いたことを覚えている。そうだ、というので徹底的にこきおろし、罵倒のかぎりをつくしてやったのだが、描き手が実はめぐみであったということは後に知った事実だ。
「めぐみい」
 おれの尻の後ろであがった声はあまりにも不明瞭だったので、寝言かと思ったが、奴はずいぶん前にすでに目覚めていたらしい。
 醒めた昼さがりに赤の他人の部屋でコーヒーをすすっていることに居心地の悪さを覚えたのは、ほんの一時のことに過ぎなかった。奴はうーむとうめきながらずずずと半身を起こし、なれなれしくおれの肩から腕をまわしてよりかかりつつ、
「おれのコーヒー」
 甘ったれた口調で吐きやがる。めぐみは軽くいなすように、
「いれてやっても飲まないくせにさ」
 言いながら手近の湯のみに色の極度に薄れたコーヒーをそそぎ、おれにむけてさし出した。おれがそれを受け取るまでわざわざ待ってから、奴は肩にまわした手でそれを受け取り、おれの首にまきつけるようにして肩ごしにず、とひとくち、
「糞まずい」
 吐き捨てて畳の上にカップをおろした。
 さびれた喫茶店でピラフの皿を前に、三人で気だるい午後を気だるくやり過ごし、それから公園へいった。口数の少ない、奇妙にみたされた時間だった。


 共同便所の小汚いアパートを次に訪れたとき、おれは二十一になっていた。奴はあいかわらず素面でもへべれけだったし、めぐみはめぐみで酔ってるときも醒めていた。
 そのころおれは、おれたちに共通するのはやる気のなさだと思っていたが、それはまちがっていた。
 きっかけがなんだったのかはわからない。会えばいつものようにない金をしぼり出しては呑んだくれていたし、彼女がふいといなくなるのもいつものことだった。奴がまるでそれを気にもしていないふりをして杯を傾けつづけているのもおなじみの光景だと思っていたが、めずらしく正体不明になる前に奴は、
「帰るぞ」
 唐突に宣言して飲み屋の席を立った。
 奇妙な違和感を覚えつつ、妙にむっつりとした奴の後をなんの気なしについていった。かさかさと落ち葉を踏みならしつつ帰りついたアパートの部屋には電気が灯され、なかではめぐみがヒトの頭大の無骨な石と、格闘をくり広げていた。
 美術のことなどなにもわからないし興味もなかったが、彼女が彫刻を刻みあげているのだということはわかった。そしてひどく真剣だということも。妙に遠慮がちに闖入したおれたちには目もくれずに、彼女は刃物をふるいつづけていたし、二級酒の瓶を無言で酌み交わしていたときも、おれたちは完全に無視されたままだった。
 一度だけ、奴が彼女にかけた言葉を覚えている。
「やめっちまえ」
 どぶ泥に唾を吐くような口調にも返答はなく、長い間をおいて奴は言葉を重ねる。
「おれが食わしてやる」
 おいおい本気かよ、と目をむくおれを無視して、奴は真剣だった。
 彫刻にとりくんでいた間中、終始伏せられていた目が、そのときはじめてあげられた。
 奴を真正面から見すえながら彼女が浮かべたのは、嘲笑のような気がしたが、いまではどうなのかよくわからない。それに対して奴が、圧力に負けるようにして視線をそらし、無言で酒杯を口もとに運んだ光景は、まるで写真のように鮮明に覚えている。
 やがて奴はいつものように酔いつぶれて眠りこみ、おれは無聊相手に酒をやりつつ、がつがつと荒々しく石を造形していく彼女の姿を見るともなく眺めやっていた。
 破局点は唐突におとずれる。機械的にふりおろされていた繊手の動きに淀みが出てきたかと思われる数刻の後、ふいに彼女はヒステリーを起こしたようにがんがんがんがんと目茶苦茶な勢いで刃物を石にたたきつけ、その動作の延長のように足踏みならして立ちあがると、窓をすらりと開いた。
 月光に刻まれた影が、ぐいと石を抱えあげ、むん、とうめきながら頭上にさしあげる。そして手にしかけたシュールレアリスムを思いきりよく、路上に叩きつけた。アスファルトの上で造形途上の芸術は、微塵に砕けた石くれの破片へと瞬時に磊落。
 そのときの彼女の顔に無上の恍惚を見たのは、おれの気のせいでは断じてなかった。もしかしたら、この瞬間のためにめぐみは石を彫りつづけていたのかもしれない。なんの根拠もなくおれは、そんなことをおぼろげに考えていた。
 長い沈黙のあと、ふいに彼女は埋めた膝から顔をあげ、お酒ちょうだい、と妙に少女めいた口調で呼びかける。しばらくのあいだ、中村宏樹の寝息を肴におれたちは酒を酌みかわしていた。が、やがてふいに彼女が言った。
「あたし、ヘン?」
 質問の真意はよくわからなかったが、おれはべつに深い意味もなく、
「おお」
 正直なところを答えていた。めぐみはさもおかしそうに鼻をならし、そして黙りこむ。
「美大にいってたんだっけ」
 沈黙を破るだけのためにおれは返答のわかりきった質問を口にし、意外な解答を得た。
「やめた」
 あ? と喉まで出かかった疑念をのみこみ、おれは間のぬけた一拍をおいて「へえ」と息をもらしただけだった。
 重い、濃密な静寂を切り裂いて彼女が口にしたつぎのセリフも、おれにとっては意想外だった。
「絵本作家に、なりたかったんだ」
 たぶんおれは、渋い顔をしていたと思う。小汚い四畳半に乱雑に散らされためぐみの感性の吐潟物は、おせじにも子どもの情操によいものとは思えなかった。
 は、は、は、と彼女は渇いた笑いをあげ、その余韻を微笑みにとどめたまま、立てた膝の上で細めた目をおれに向けていた。
 蟲惑的なその微笑みに、少女のようだというおぼろげな感慨を抱き、ついで彼女がいったいいくつなのか知らなかったことにおれはふと気づく。
「抱いて」
 表情をとどめたまま彼女はため息とともに言った。
 どう答えていいかわからず、傍らで目を閉じる宏樹にちらと視線を走らせると、めぐみははじけるような笑声を短く発した。
「寝てるよ。大丈夫だって」
「……そういうことじゃなくてよ」
 ふてくされたような口調が口をついて出るのへかぶせるように、
「浮気したってなんにも言わないよ、そいつ」
 浮気、だ。二人の関係が明示されたのは、このときが初めてだったように思う。
 宏樹の寝息は規則的で、いっさいの乱れはなかった。
 起きているのかもしれないなと、ふと思った。
「そんなような気はしてたがよ」
 既成の常識をことさら吐唾したがる宏樹の寝顔を見ながらおれがつぶやくと、めぐみは鼻で笑った。
「インポなのよ、そいつ」
 意味をはかりかねつつ、疑わしげにめぐみと宏樹を交互に見やる。
 寝顔は微動だにせず、女の微笑みは消えてただ細めた瞼の隙間から、黒いふたつの視覚器官が、おれをじっと見すえていた。
 逡巡を背にしがみつかせたまま、おれはあやつり人形のように彼女にいざり寄り、抱きよせ、唇を重ねた。
 その夜、おれも勃たなかった。


 それからもおれたちは以前と同じように顔をあわせては酒をあおり、くだをまき散らしながら当てもなく街をさまよっていた。冬をこもり、春にふらつき、夏にうだり、そして秋をうろつく。時を経るにつれて二人に会う頻度は下降の一途をたどり、そして二年目の冬を迎えるころにはふっつりと糸も途切られていた。
 それは、なじめなかった学生生活への距離がゆっくりと、だが着実に縮まっていった過程と連動していたかもしれない。茶番劇を茶番劇としてではなく、相手の内面へとより深くわけ入るための手段として認識し、どこにでもころがっているありふれた関係を肯定し、そしてそれらを満喫さえしはじめていた代償のように、奴と彼女はおれから、あるいはおれのほうが奴と彼女から、遠ざかっていった。
 孤高をきどった牢獄から不器用に踏みだしたときすでに、正常な形での卒業は不可能になっていたが、リタイアする気もなかった。べつに勉学に目ざめたわけでもなかったが、一年遅れであろうととにかく卒業はできるように下工作をはじめた。気分だけは未来に備えた日常の、そのくりかえしに倦んだとき、奴の顔を、あるいはめぐみの顔を思いだすことはあったが、そこまでにしておいた。
 そうしてまた春を、夏を、秋を、冬を、足かせのように重い一日の、羽毛のように吹き過ぎていく集積をもがき、やり過ごし、どうにか形だけはつけられそうな目処がたった二十四の冬、めぐみがひとりで、おれの部屋を訪ねてきた。
「よくここがわかったな?」
 二年ほど前にひっこしたとき、二人とはすでに疎遠になっていたから、正直おれは驚いていたし、すこしばかりうれしくもあった。そして意外なことに、彼女はおれと同じゼミの娘と知り合いだということを知った。
 ひどく寒い夜だった。敷きっぱなしのうす汚れた万年床に平気であぐらをかいて彼女はすわりこみ、ひさしぶりだね、と照れたようにつぶやく。
「まだあそこ、いんの?」
 奇妙に遠ざかってしまった距離を手探るような気持ちで発した質問に、
「ひっこしたよ。去年」
 彼女はそう答えた。そしておれの次の言葉を先どるように、言った。
「そん時、わかれた」
 答えに窮しながらおれは、夕暮れにおき去りにされた子どものようなその姿に、胸をつかれていた。
「コーヒー、飲む?」おれは立ちあがって流しにむかいながら口にし、つけ加える。「トラジャの出がらしじゃねえけどよ」
 笑いが子どものようにはじけた。そのなかに哀しみがひそんでいたかなんて、おれにはわからない。
 沈黙はおれたちの味方だったし、すきま風はエッセンスだった。「ふとん、買いなよ」おれの耳もとでめぐみは笑いながらささやき、奴のことを思いだしたり忘れたりしながらおれたちは朝まで過ごした。
 梅の花が咲くころだったと思う。それきり、彼女はふたたび現れはしなかった。


 彼女の名まえを雑誌で見かけるようになったのは、それから四年後のことだ。
 員数確保でなんとかもぐりこめた印刷会社でまさにくりかえしの毎日を送っていたおれは、薬品会社に就職した友だちに「おれんとこだってまったく一緒さ」と医療関係者と業者の癒着具合や尊大な医者の異様な行状、そしてそういう連中を相手に太鼓もちをつとめるやりきれなさ等を、たまに会うたびに切々と列挙され、自分の毎日と照らしあわせて、果てしなくやる気を喪失していたころだった。
 マイナーとはいえ全国誌の一角にイラストレーターとして印刷された彼女の名まえは、おれにとってはひどく輝いてみえたし、思い出や嫉妬や手のとどかない存在への揶揄まじりの憧憬やらで妙に切なくもあった。あいかわらず病的な絵柄は、しかし誌面のうえで見るとなぜか昔とはまるでちがっているような気もしたが、それでも懐かしい友と対面したような気分だった。
 つてをたどって連絡先を手にするまでに、しばらくのタイムラグができてしまったのは忙しさのせいばかりじゃなかっただろう。じっさいに電話を入れるまでには、さらなる逡巡が待っていた。そしてそんなおれの逡巡を笑いとばすように、電話口に出た彼女は屈託がなかった。
 ひさしぶりだね、いまどうしてるの? 彼女の言葉におれは、夏の暑気へと呪いの言葉をあびせかけつつ汗をぬぐい、さえない自分の近況を笑いとばし、彼女の活躍をほめそやす。
「そうでもないよ。食ってけないもん」
 そう言いながらも彼女の声はうれしそうだった。愚痴も聞かされた。こえられなかった壁をやっとのことでこえたとき、新しい壁にいきあたるまではすぐだった。そしてその壁は前の壁とはちがって、挑むべき闘志をかきたてる対象ではなく、安住と限界と、実像への失望からくる虚脱感のいりまじった、実にやっかいな壁なのだそうだ。おれにはなんのことやらよくわからず、ただでくの棒のようにふんふんと電話にむかってうなずくだけだったが、それでもなんとなく彼女の気分はわかるような気がしていた。
 話しているうちに、奴のことを聞く気は失せていた。気にかかっていないわけじゃなかったが、たぶんもう奴と彼女とは、接点のないそれぞれの世界にいってしまっているのだろうと思ったからだ。
 だから彼女が「覚えてる?」と奴の名まえを口にしたとき、あまりの意外さに、「まだつきあってんの?」とすっとんきょうな声で質問さえしていた。
「そうじゃないけど」昔とはちがって、めぐみは不機嫌な響きをその言葉だけにとどめ、そしてつづけた。「死んだよ、あいつ」
 返す言葉を失い、おれはただ沈黙した。「ちょっとかけてみただけ」の電話は、思いがけない長話にかわった。
 彼女とわかれた後、あいつは大学もやめて駅裏の繁華街の住人となり、数年後には一端の無頼漢をきどっていたらしい。本人は街の世話役のつもりでいたんだろうが、実際はただのチンピラだった。虚像と実像の遊離は時を経るにしたがって拡大していく。そういった風聞は彼女の耳にも入っていたが、会いにはいかなかった。
 見かぎったわけじゃないけど、と、彼女は言った。あたしがいるとあいつ、もっとひどくなってくから。昔は――あんたと会ったころは、そうじゃなかったんだけどね。
 だから、わかれたんだ、と。
 そして彼女の名まえがいくつかの雑誌にのるようになった時、というから、おれがそれを見つけたのもそのころだったのかもしれない、電話がかかってきたのだという。
 奴に連絡先を教えていたわけではない。たぶん、奴はずっと、彼女に気づかれないように彼女のいきさきを追いつづけていたのだと思う。そしてめぐみもまた、奴が追いやすいように痕跡を残しておいたのかもしれない。
 雪のふる夜だった。白い息がただよってきそうな口調で奴は、「来いよ……会おうぜ……」そう言った。どこにいるの、と聞く前に電話は途切れ、めぐみは夜の街に闇雲に歩を踏みだした。
 噂だけを手がかりに奴の足跡を追い求め、やっとのことで見つけたときはもう、死んでいたらしい。
 袋小路にふりつもった雪は、反吐や小便や靴あとにまみれてうす汚さを強調していた。かたまりかけた灰色の雪と血が入りまじって、そのなかに奴はたおれていたという。くだらない意地のはりあいで、くだらないチンピラに衝動的に刺されたって顛末。
「葬式にいったよ。びっくりするくらい、普通の家族だった。外から見ただけじゃ、わかんないんだろうけどさ。そんだけ」
 そういって彼女は話をしめくくり、後味を濁すための雑談にきりかえる。
 また電話してよ。あんまり暇ないけどさ。そういう彼女に、暇がないのはご同様さと答えてさよならをいい、送受器を架台に降ろした。
 遠ざかっていた蝉のわめき声がやがておれの耳に戻り、煙草に火をつけた。奴のために冥福を祈ろうか、とガラにもないことを考えたが、どうもうまくいかなかった。たぶん実感がわかなかったせいだろう。
 それからも彼女とはときどき電話で話している。貧乏暇なしというやつでなかなか直接会う機会もないが、このくらいがいまのおれたちにはちょうどいいのかもしれない。たぶん、おれも彼女もまだ、奴の呪縛から脱けきれてはいなかったから。
 そして奴を置きざりに春はゆき、それからはなやぐ夏がくる。そのときのことを思いながら、おれは昨日と同じように今日をやり過ごしている。明日を手にするために格闘している彼女と、いつかふたたび出会う日をおぼろげに想いながらさ。

雪月花―了


			

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