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ガジェット ボックス GADGET BOX ポプラ並木

ポプラ並木


 もう戻れない。うしろには。わかっていた。ポプラ並木の遊歩道。噴水わきのペーパーナイフ。ふたりで刻んだイニシャル。そしてゲランの香り。戻れない。戻りたいのかどうかも、もうわからない。

 駅をおり、ホームの端からの出口をくぐるとさびれた小さなゲート。そして遊歩道。
 商店街からははずれているし、どこかへいく道路や何かに通じているわけでもない。
 それでも、そのポプラ並木にかこまれた道にはいつも不思議なほどにたくさんの、それでいてひっそりとしたひとびとの姿が行き交っていた。
 この街にぼくたちがひっこしてきた夏、荷物の梱包もとかないうちにきみとふたりで最初に歩いたのもこの遊歩道だった。
 地図から見ればたいした距離でもないのだろう。けれど森閑とした深い空間は、その途中に位置する公園との相乗効果もあいまってか、奇妙なほどの奥行きを感じさせる。
 まるでいつまでもおわりがないかのように。
 今夜は特にそうだ。ぼくはひとり、もうずいぶんとながい時間、この遊歩道をどこへいくともなく、ただぼうぜんとさまよいつづけているような気がしている。
 枯れた噴水。うす汚れたコンクリートのへりに腰をおろして、きみとふたり、時を忘れたまま夏を、秋を、そしておとずれようとしている冬をながめていた。遠い昔の記憶のようだ。手がとどかない。気がとおくなるほど遥かな記憶。
 きみがいなくなってから一月しかたっていないのに。
 そう。まぼろしのようにその記憶はいつでもぼくの眼前にうかびあがる。
 噴水わきにいつまでも放置された自転車のただよわす、鉄錆の感触。季節がゆっくりと枯れていくなかで、冴えた刃のような月光が幅の広い葉を夜にふるわせるさま。その月のかたちに官能を刺激されるぼくの感覚。
 そう――月の刃はそのまま別の記憶と直結していた。
 駅にたどりつくまでのほんの短い時間と空間をくりかえすたび、きみの存在はぼくの内部で圧力を増し、そしてぼくの魂はきみの鳥かごのなかにがんじがらめに、狂おしくとらわれていった。もう決して、あともどりができないほど。
 そしてきみは、何のまえぶれもなくぼくの前からいなくなってしまったんだ。
 気が狂いそうだ。
 ボクシングデー。
 クリスマスの翌日をそう呼ぶのだということをぼくははじめてきみからきいた。
 そのときから、一生くりかえし思い出すだろうとわかっていた。それもきみの戦略。わかっていた。それでも逃れられなかった。クリスマスがくるたびに、きみの誕生日がボクシングデーとよばれる日であることを、ぼくは強烈にインプリントされた。
 そう。おぼえている。きみにさしだす贈り物のこと。ぼくの魂。口にしたときは冗談のつもりだった。だれだってそう受けとるだろう。でもきみはちがった。
 花が咲くように笑い、きみはぼくの頬をひとさし指でちょんとつく。うれしいわ、忘れない。それで契約は完了。笑っているきみの黒瞳の奥深さがぼくの魂に売却済みの烙印を刻みこむ。
 そしてそのことに、強烈で逃れがたい恐怖と官能とを感じるぼくもまた。
 けれどもいま、きみはいない。
 ぼくの魂に女王のごとく占有を告げたまま、きみはその日がおとずれるのを待つことなく去っていった。
 いま、一本のポプラの木を前にしてぼくは、コートのポケットに両の手を深くつっこんだまま立ちつくしている。
 その幹の陰にたたずむだれかの肩を、ぼうぜんとながめやりながら。
 かすかにただよう、ゲランのトップノート。
 息をころし、イマジネーションの内部から残酷な期待をこめてぼくを見つめるだれかの視線。
 ぼくはポケットの中につっこんだ手をわれ知らずかたく握りしめる。かたい感触がぼくの手のひらを冷たく押しかえす。右のポケットには指輪。左のポケットには――さっき、手にしたばかりのペーパーナイフ。
 非現実感が溶けたバターのようにぼくのまわりにまとわる。ここはどこだろう。きみとふたりで歩いたポプラの並木道。あるいは、遠く去ったはずのきみが最後に用意した罠の中。ぼくをとらえるための。ぼくの魂をとららえるための。きみの鳥かごの、中。
 ぼくはくちびるをかむ。奔流のようにおしよせるきみに関する記憶。きみの奔放さ。きみの無邪気さ。きみの不実。きみの微笑み。
 ブラックライトの下に陰影をくっきりと刻んでほかの男にその胸を、腹を、そして足をむさぼらせながらぼくに飛ばされるきみの流し目。気分しだいで拒むキスと抱擁。
 愛している。まるで呪文のようにきみは口にする。あるいは台本を棒読みするように。あるいは天使の笑顔とともに。あるいはきつくよせられた眉宇の下で。あるいは泣きはらしたまぶたをふるわせながら。そしてあるいは、さげすむ奴隷のようにぼくを見おろしながら。
 きみの言葉はすべて、翼のはえた天使のように軽々と空を舞う。
 そして言葉より重く、雄弁に、ぼくの喉もとにあてられるナイフのエッジ。
 忘れられない。
 きみの吐息。ぼくの肩に、腕に、指に、そして首にからめられたきみの細い指さきのみだらなうごめき。
 机の上に、あるいはひきだしのなかに隠れているはずのペーパーナイフがいつきみの手のひらのなかに移動したのか、ぼくにはいつでもわからなかった。エッジのにぶい刃が喉もとにつきつけられるたび、歓喜とも寒けともつかない戦慄に背すじをふるわせながらぼくはその小さななぞをつきとめようと決意し、そしていつでもそれは官能の嵐のむこうに消失していった。
 きみをこのまま抱きつづけるためなら――と、ぼくはいつでも思っていた――世界さえ売りわたしてしまったってかまわない。
 頚動脈にかけられたエッジは冷徹にひとすじの直線を描く。それがペーパーナイフではなく研ぎ澄まされたバタフライか何かであったなら、ぼくは噴水のように血を噴きながら究極の官能と恐怖とを味わえただろう。
 そしてぼくの魂は永遠にきみのものとなったはずだ。
 ボクシングデーの夜に、ぼくはそうなるはずだった。
 訂正。ぼくはそう思いこんでいた。
 きみはたしかに不可解だが、殺人などという直截的な手段などまちがっても選ばない。
 エッジのまるいペーパーナイフで、微灯の下いくどとなくぼくを殺してきたように。
 きみはイマジネーションでくりかえしぼくの魂を切り刻みつづけるだけだった。ぼくの肉体よりは、ぼくの精神にこそきみは、より多くの興味をおぼえていたはずだ。
 ぼくの精神が傷だらけになっていくさまにこそ。
 忘れられない。
 遊歩道をならんで歩いたときの君の肩。ふれあう手と髪のにおい。ゲランの香水。ふりかえり見あげる宝石のように無機質な澄んだ視線。
 このポプラの前でキスをしようとしたとき、きみはすりぬけるようにしてぼくの抱擁のなかから消失し、幹の前にしゃがみこんでいた。
 白いコートのポケットから手品のようにペーパーナイフをとりだし、そしてポプラ
の幹にぼくのイニシャルを刻んでみせる。
 呪文のように。
 永遠という彫像に刻みこむごとく、ぼくの魂をそこに。
 そしてぼくをふりかえり、きみは笑う。
 天使の微笑だ。
 それからつけたしのように相合い傘をかいてとなりの空白に自分のイニシャルを刻みこむと――もういちど、子どものように無邪気に微笑んでみせる。
 一月ほども前のこと。
 その夜きみはぼくのもとから去り――つぎの朝が明け切らぬうちに受話器のむこうの記号と化して帰ってきた。
 なぜきみがいなくなったのかもぼくにはわからない。凍てついた夜のあいだ中、きみをさがしてぼくは街をさまよい、そしてきみは――そしてきみは、そんなぼくの探索の裏をかくようにして、ぼくたちが暮らしていたマンションの屋上から永遠へと飛翔していた。
 なにがきみを夜の空におどらせたのかもぼくは知らない。いまでも現実のこととは思えない。制服の警官から告げられた言葉も医者の事務的な所見も、そして簡素な寝台の上に横たえられた弾けた死体も。すべてぼくには、記号だとしか思えなかった。
 あわただしい日々はまぼろしのように過ぎていく。そのあいだぼくの周囲には忙しさが絶えず荒れ狂い、希薄なヴェールのむこうで早回しのフィルムのように流れ去っていっただけだった。
 そしてこの遊歩道にひとりたどりつき――ながい悪夢から醒めたような感覚をおぼえている。
 それとも、いまこそ悪夢のさなかに陥ってしまったかのような感覚。
 ふだんあれほどひとびとが行き交っていたはずの遊歩道に、いまはぼくひとり。
 どこからきたともしれない野良犬以外にすれちがう人影ひとつ見つからないまま、ぼくはここにたどりついた。
 もう戻れない。
 そんな言葉とともにふいに、喪失していた悪夢の感触がよみがえったのは、公園の枯れかけた噴水池の横に立ったとき。
 あの夜以来、行方の知れなくなっていたあのペーパーナイフが、そこにひっそりと横たわっていたんだ。
 鈍い金の色を街灯にひらめかせてそれは、ぼくの魂を一瞬にしてわしづかみにする。
 ぼくはナイフを手にとり、ぼうぜんと見つめる。
 きみはどこにいる?
 思考能力を非現実感にうばわれたままぼくの脳裏に言葉がよぎり――そしてぼくは歩きだす。人形のように。
 そう。ぼくは人形だ。操り手はきみ。きみなしでは、ぼくはおどれない。ぼくは歩く。あのポプラの木まで。
 幹には、あの日のままにイニシャルが刻まれている。きみとぼくの。契約の言葉だ。
 そしてぼくの鼻さきをいま――ゲランの香りがかすめ過ぎる。
 そう。
 いつもあれほどにぎわっていたこの遊歩道で、今夜は不思議なほどだれにも行き会わなかった。
 そしていま、このポプラの木の幹のむこうがわにだれかがいる。
 それがだれかもわかっている。幹のわきからのぞく肩の線。いつも賛嘆とともに見つめてきたひとの、肉体の一部。
 そしてまぼろしの底から見つめる期待にみちた底なしの視線。
 よく知っている。ぼくにはすべて、わかっているんだ。
 それともこれはぼくの願望か。
 世界からぼくがおきざりにされたことの単なる証左にすぎないのか。
 それでは、この道に歩を踏みいれたときからだれにも行き会わなかったのはただの偶然か。
 噴水池のわきにほうりだされていたペーパーナイフは。
 そして、ゲランのラストノートにまぎれてただよう、きみの体臭は。
 世界に、そしてきみにとり残されてぼくはゆっくりと狂気の内部へ足を踏みいれていこうとしているのか。それとも――それともここは、ほんとうにきみの用意した鳥かごの中なのか。
 ぼくは目を見ひらいたまま、深くため息をつく。
 もう戻れない。
 戻りたいのかどうかも、もうわからない。
 ポケットのなかでペーパーナイフと指輪とを握りしめる。
 魂に刻まれた傷口からどくどくと流れ出ていた血流が、結晶のように凍りついていく。
 ぼくはゆっくりと歩き出す。

(了)


			

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