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ガジェット ボックス GADGET BOX

ガジェット ボックス GADGET BOX 恩返し

恩返し


 夢だったにちがいない。ぼくはふりかえらない。夢だったのだから。

 より正確を期すなら、幻覚だ。
 ひとは幼いころ、幻想と現実との区別が明確につかぬまま、どちらも等分の体験として記憶していくのだと何かで読んだことがある。それならば説明はつく。
 たしかにあれと出会ったとき、すでにぼくは幼いという形容の境界からはややはみ出した年齢だったかもしれない。でもあれが現実のできごとであったはずなどないじゃないか。
 そうとも。
 あれが現実であったはずなどない。決して。
 決してぼくは、ふりかえらない。


 いま思うとずいぶん草深い田舎だった。学校へいくには渓流をはるか眼下に見下ろす吊り橋をふたつも経なければならなかったし、隣家へとどけものをするにもずいぶん時間がかかった記憶がある。
 ああいった前近代的な風習が根強く残っていたのも、そういった地勢的条件が大きく影響していたのだと思う。
 その祠は、村からはやや離れた位置にひっそりとたたずんでいた。存在を知ったのは、父につれられて山菜をとりにいったおりのこと。軽く道に迷った末にたどりついたのがあの場所だった。
 何の神様がまつってあるの? と問うた記憶がある。
 父は短く、タタリガミだ、と口にした。そのときの苦々しげな、それでいてどこか怯えの入り混じった奇妙なしかめ面を、いまでもぼくははっきりと覚えている。
 拝もうとあわせたぼくの手を父はすごい勢いでふり払い、そんなことをすると祟られるぞと叫ぶようにいった。それからぼくの手を引いてあわただしくその場を後にしたのだ。手をひっぱられてひどく痛い思いをさせられたのだが、幼いぼくの抗議になど父はきく耳持たず、一刻もはやくその場を離れようと必死になっていた。
 それからどれくらい後のことだったろうか。そんなことがあったとはすっかり忘れていたから、ずいぶん経ってからのことだったのかもしれない。
 広大な山中は遊び場に事欠かなかったし、仲間同士でも単独でも、幾度となく探検はくりかえしていたつもりだったから、その踏みわけ道を発見したのはなかばは偶然のようなものだった。
 そのときぼくは、ひとりで行動していた。最初からひとりでいたのか、仲間とはぐれたからなのかは覚えていない。ふと気づくと、知らない道を歩いていた。
 獣道とも見まがう、下生えが申しわけ程度に左右に倒れただけの草深い道。
 周囲の景色にもまるで見覚えはなかったのだが、不思議とぼくには迷ったという感覚が欠落していた。なぜかはわからない。ただひとつだけ――はっきりと覚えていることがある。
 奇妙なことなのだが、呼ばれた、という気がしていたのだ。
 丈高い藪をおしのけるようにしてぼくは進み、不意にひらけた場所に出た。
 目の前に、祠があった。
 背後は崖。三方にはぼくが出てきたのとは別の、道らしき踏みわけ跡がいくつか。そのうちのひとつが、痛いほど手を引かれながら父とともにたどったものだとわかったときも、さしたるおそれは感じなかった。ここにきたことは内緒にしておけばいい、と打算じみたことを考えただけ。
 せっかくの機会だからと、祠やその周囲をじっくりと観察した。崖はむきだしの岩塊で構成されており、頭上にはせりだすように樹々がこうべをたれる姿があった。
 見上げるだけで圧搾感と――そう、どこか底なしの穴へとすごい勢いで落下していくような眩惑感とが、ぼくをわしづかみにした。
 祠はふるびてところどころガタがきていたが、汚れてはいなかった。大人はむりだが、ぼくくらいの年齢の子どもなら充分に隠れられそうなほどの大きさ。観音開きの格子の扉は閉ざされていて、その前にしおたれた花が一輪、供えられていた。
 ぼくが立つ位置からだと中がよく見えなかったのは、祠が大人の高さにあわせてつくられていたからだろう。好奇心の命ずるまま、ぼくは石づくりの土台によじ登って格子扉に顔をよせ、中をのぞいた。
 が、ふるびた木枠で囲まれた狭苦しい空間には、空虚以外の何もなかったのでひどくがっかりした。
 ほかにはめぼしいものひとつ見あたらず、小さな好奇心を満足させたぼくは何事もなくその場を後にした。
 それからその場所を訪れたのは、二度だけ。
 一度は友だちと一緒に山野をかけめぐっていて、ふとした拍子にその場所に出てしまったときだった。
 たまたまそのときもぼくは仲間とはぐれてひとりきりで、遊びに夢中になっていたぼくは祠のことなどより仲間と合流することで頭がいっぱいだったから、特に何をするでもなくその場を離れたはずだ。ただこの前とは別の花が供えてあったのには気づいていた。父はおそろしい場所のように話していたがちゃんとお参りにくるひともいるのだな、というようなことを思いながらその場を離れ、それっきりながいあいだ祠のことは、思い出すことすらなかった。
 だからあの日、なぜあの場所のことを思い出したのかはいまでもよくわからない。  都会からの垢抜けた転入生の女の子に、生まれて初めての胸のうずきを覚えた午後だった。六年生の夏、休みあけの一日のこと。
 もちろん田舎育ちで純朴そのもののぼくが、光を放つと見まがうばかりにきれいなその女の子と簡単に仲良くなれるはずもなく、彼女のまわりに群がる有象無象を遠巻きにながめやりながら、都会の女なんかに興味はないさというような顔をしているのがせいいっぱいだった。
 帰路についたときは陽も高かったはずだから、もしかしたら始業式の日だったかもしれない。くだんの女の子はやっぱり大勢の人垣に囲まれて笑いの中心にいて、まるで無視されたような悲しい気持ちでぼくは「さよなら」と大きな声で叫びざま教室をあとにしたのだった。
 後ろ髪をひかれる想いで校門をくぐり、そのまま家へ帰る気にもなれず、かといっていく当てもないまま吊り橋をわたり、ふと祠のことを思い出した。
 扉をあけてやろう、と考えたのは、祠へ向かう道すがらだったか、あるいはそう思いついたからその場所を目指したのだったか。
 ともあれ、迷うこともなくぼくは祠のあるあの小さな空き地にたどりつき、燦々とふりそそぐ陽光のもとでしばらくは扉を前にたたずんでいるだけだった。
 逡巡していたような気もするし、ただ呆然としていただけのような気もする。  ふと気づくと、陽は西に傾きかけていた。夕暮れにはまだ間があるものの、あまりながい時間とどまってはいられない。
 意を決してぼくは古びた扉に手をかけ、左右にひらいた。ぎい、ときしむ場面を思い描いていたが、予想に反して格子戸は音ひとつ立てなかった。
 薄暗い空間にはやはり、神体はもちろん石ころひとつなく、ひどくがっかりした。いま思えば塵ひとつ見あたらなかったことからしてそもそも異常なのだという気がするが、あのときのぼくはそんなことなど思いつきもせず、何かおもしろい兆候でもないものかと目を皿のようにして内部を隅から隅まで見まわし――
 気がついたのだ。
 奥側の板壁が、少し――ほんの少しだけ、傾いていることに。
 身を乗り出して祠に頭をつっこみながら、板の端にほんの小さな手がかりを見つけて指をかけ、不自由な姿勢で慎重に板壁を外しにかかった。
 板はかなりぴったりとはめこまれていたらしく、しばらく格闘しても動く気配すら見せない。ふとふりかえれば西の空も染まり始めていて、そろそろタイムリミットというころあいだ。
 もう一度試してみて、だめだったらあきらめて帰ろう。そう思いながらぼくは板壁の端につっこめるだけの指を全部かけ、力の限り引いた。
 ぎ、と大きな音を立てて板壁が蠢く感触。
 ぼくは目をむき、勢いに乗ってさらに力をこめた。それからかなりながい時間、そのままの姿勢で祠と向きあっていた。
 いい加減限界だ、と自身感じた瞬間、壁はあっけないほど一気に外れ、勢いのままぼくは草地にころがった。
 外れ落ちたのっぺらの板を前に、尻餅をついたまましばし呆然とし――ふと、これからどうしようと考えた。
 ふりかえる。山稜に陽の下端が触れるか触れないか。そろそろ帰途につかないと、ほんとうに山中で夜を迎えねばならなくなりかねない。村からさして離れていないとはいえ、道らしい道ひとつない場所だ。陽が落ちてから移動するのは危険すぎる、ということは経験上よく知っていた。
 のぞくだけ。
 そう自分にいいきかせてぼくはのろのろと立ちあがり、板壁の外れた堂内に顔を差しこむ。
 暗くてよくわからなかったが――冷えた深い空間が広がっているように思えた。  試しに手をのばしてみるが、手前側の石壁以外に触れるものはない。
 思い切って上半身を闇のなかへとつっこんでみた。だがやはり、のばす手の先には漆黒の闇がわだかまるばかり。
 なかへ入ってみよう。差し迫る時間のことも忘れてぼくはさらに前進する。成長したぼくには、祠の大きさはかなりきつかったが、どうにか尻までぬいて頭から内部にたれさがる格好になった。
 手がついたので、マット運動の前転の要領で内部にころがりこみ――
 あまりの広さに呆然とした。
 もちろん――灯りひとつない密閉空間でその広さがどれくらいかなど、正確にわかるはずなどないのだが、闇になれた目であたりを見まわしてみても壁らしきものが見あたらない。
 外は崖になっているのだから天井も存在するはずなのだが――背後の岩壁を目でたどってみても、当然上限があるはずの位置に境らしきものはみとめられなかった。
 祟られるぞ――と、いつか父にかけられた言葉が脳裏によみがえる。
 田舎育ちとはいえ年齢も教育も、祟りなど迷信に過ぎぬのだと充分に思い知らされていたのだから、そのとき感じた恐怖は理性のタガが外れた証にほかなるまい。だからありもしない虚空に過剰におびえて――そう、幻覚を体験したのだ。
 幻覚を。


 最初それは、音として届けられた。
 ちり、と、何か金属のようなものが触れあうときに立てる、硬い音。
 ぎくりとして頭をめぐらせ、音源を懸命に特定しようと試みた。
 何か小動物のたぐいでもいるのだろう、と自分にいいきかせながら。
「だれかいるの?」
 間のぬけた質問も、刻一刻と増大する不安をまぎらわせようとの苦渋の選択にほかならない。
 応えるごとく――もう一度、ちり、と何かが鳴った。
 おそるおそるぼくは身を乗り出し、闇に向かって懸命に目をこらす。下半身は、いつでも逃げ出せるよう逆を向いていたかもしれない。
 深い漆黒の奥に、何か曖昧模糊としたもののりんかくを見たように思う。
 ごくりと喉をならしてぼくはそれにもう少し近づき――
 声をのんだ。
 子どものように見えたから。
 かつて、初めてこの祠の前に立ったときのぼくくらいの、背格好の子ども。
「だれ?」
 出した声には明確に、ヒステリックな響きがあったのを自分でも覚えている。
 闇の底で子どものような姿をしたりんかくは、かすかに身じろいだようだった。
 呼応して、ぼくの腰がひける。
 でもぼくは逃げ出すかわりに、気の遠くなるほどのながい逡巡を経て、よつんばいのへっぴり腰の姿勢のまま、そろそろと前進したのだ。
 手をのばせば届くほどの距離まで接近したが――そのおぼろな影にはっきりとした動きはなかった。
 ただほんのときおり、ゆらり、と、かげろうのようにかすかにゆらめくだけ。  目をこらす。
 頭の大きさが、やけに巨大に見えた。
 それに比して、異常にほっそりとした四肢と赤子のようにちいさな胴体が見える。
 やはり赤ん坊のように不安定な体勢で、あぐらをかいていた。
 よく見ると、巨大な頭部はほんのわずか、前後左右に不規則にゆらゆらと揺れている。いや――そんな気がしただけだったかもしれない。どう見ても、その巨大な頭部を支えるにふさわしい胴や手足や首の太さではなかったのだから。
 そして何よりもぼくの恐怖感を刺激してやまなかったのは――顔。
 顔、といっていいものかどうか。
 背後からさしこむ光も定かには届かぬ深い深い、どぶ泥のような闇のなかだったのだから、顔の造作がよくわからなかったとしてもさして不思議ではあるまい。
 それでも――どんなに目をこらして凝視しようとも、その顔面には目鼻や口といった、当然あるべきものがどこにも見あたらなかったのだ。
 ただ不規則なでこぼこが、血の色を思わせる桃色の濃淡にあわせた巨大な顔面の上に盛り上がっているだけ――。
 そのときのぼくには、そうとしか見えなかった。
 悲鳴をあげて逃げ出さなかったのは、勇気ではなく奇跡に近かったかもしれない。
 あるいは――魅入られていたのか――
 いや、そんなばかげたことなどあるはずがない。いたちか何かの小動物のたぐいを、豊かな想像力でおぎなった結果以外の何ものでもあり得ない。
 ともかく――そう。
 ぼくは逃げ出さなかった。
 かわりに、ちり、ともう一度立てられた音の源に視線をとばし――
 かぼそい足首に、鎖のようなものが巻きつけられているのに気がついた。
 さして重量があるわけでもない、さびてさえいなければおもちゃのそれとも見まがうばかりの、ちゃちな鎖だった。固定されているわけでさえない。ただ――
 そう。ただ、その鎖には、細い足首を一周して小蛇のようにとぐろを巻いた部分に、何かぼろぼろの紙片のようなものが、はりつけられていたのだ。
 文字とも、図像ともとれるような、得体の知れない文様が描きこまれていた。
 それも幻影の一部だったかもしれない。
 もう一度、巨大な頭部に視線を戻すと、闇の底に座したそれは――無言のまま足もとの紙きれを指さした。
 ぼくは、目をむくことしかできずにいた。
 異形の幻はうながすでもなくただ、目鼻のない顔面をぼくに向けたまま自分の足もとを指さしつづけた。
 これに捕縛されているのだ、とでもいいたげに。
 なぜそんなことをしたのかもわからない。
 いや、そもそもそんなばかげた行為を、ぼくが本当に決行したのかすら、いまとなっては定かではない。
 でも覚えている限りでは――ぼくは夢うつつのような気分のまま、その化物の足もとに歩みより。
 そう。
 紙片の端に、指をかけたのだ。
 紙きれは、驚くほど簡単にはがれた。
 濡れたような、異様な感触をはっきりと覚えている。
 異常に湿気ったその紙きれが――はがしきった瞬間、風に吹かれる塵くずのようにぼろぼろになって消失し果てたのも、映画の場面のようにこびりついている。
 そのままぼくは、凍りついた時の牢獄にからめとられたかのごとく硬直して身じろぎひとつできずに膝立ち――
 眼前の影が、ゆらりと、身を乗り出した。
 前方に手をついた。
 ただそれだけの動作だったが、暴発寸前の恐怖に火をつけるには充分だろう。
 初めて我に返ったごとく、ぼくは身をひるがえし、一目散に逃走した。
 祠の狭い入口にむりやりからだをつっこみ、なかなか抜けられぬことに底知れぬ恐怖を感じながらわめきまくった。いましも尻をつるりとなでられそうな予感がして、死にもの狂いで身をよじり、はじき出されるように外部にまろび出るや立ちあがるのももどかしく、ただ一散に走った。走りつづけた。夕陽がやけに赤かったことだけ、覚えている。堂内にころがりこんでから、それほど時間が経ってはいなかったということなのだろう。
 そのあとの記憶はない。いまもこうして暮らしていられるところからすれば、何事もなく家に帰りついたのだろう。


 父の都合でその地を転出したのは、高校一年のときだった。ぼくには幸いなタイミングだったかもしれない。
 昔日の少年にほのかな恋心を抱かせた都会からの少女は、その美しさにますます磨きをかけて思春期のぼくを悩ませていたから。そして、にもかかわらず、焦がれるほど欲したその存在に手など届くはずがないのだと、痛烈に思い知らされた直後だったのだから。
 田舎の学校だからたいした人数でもなかったし、学年どころか校内全員の顔と名前を知っていたので、大部分の男子がくだんの少女に恋心を抱いていたことはそれとなくぼくも察していた。もちろん純朴さが災いしてか、だれひとり積極的に彼女にアプローチすることはなかったし、自分の気持ちを素直に認める者さえほとんどいない始末だったので、だれもが満たされぬジレンマに苦しみながらも、保たれる均衡に安堵もしていたし、自分こそはとありもせぬ幻想に酔ってもいられた。
 ただひとりの例外を除いては。
 そいつは小学校のころは学区のちがうやつだったから、もともとなじみはなかった。里よりの、名前だけは“町”を冠せられた地の少年で、そのあたりの連中はぼくらのことを山出しだの田舎ものだのと嘲笑っていたのだが、そいつは特に露骨にぼくらを中傷していた。自分は垢抜けているのだと鼻にかけてぼくら山のものを遠慮会釈なくせせら笑い、はらわたの煮えくりかえるほどの嫌みを日に五回や六回は口にしていたし、まあはっきりいって嫌われ者だったのだけど――当時の町長の息子ということを除いても、もともとが彼の家は一帯ではかなりの権力者だったようで、とりまきはもちろん大人である教師たちですら、一種腫れ物にさわるような対応をしていたことを覚えている。
 そんな田舎じみた人物関係はともかく、もっとも問題なのはそいつがしつこくぼくたちのあこがれの君にアタックをくりかえしていたことだった。
 もちろんくだんの少女は鼻にすらかけない態度で、ひそかにぼくらの喝采をあびていたのだが、町長の息子はまるで動ずる気配すら見せず彼女につきまとっては己の権力をひけらかしたりと、まったく厚顔無恥の至りであった。
 内心はひやひやしながらも、特にどうするあてがあるわけもなく、あの聡明な美少女があんなやつになびくはずもなかろうと己をあざむきながら時を過ごし――
 その噂が流れたのは夏休みがあけてからのこと。
 いつも堂々としてさわやかな風のあった少女からやけに輝きが失われたな、と思い始めたころに、その噂はぼくの耳に届けられた。
 あの嫌みな町長の息子がついに、くだんの少女をものにしたのだと。
 とてつもない焦慮を押し隠しながらききだしたところでは、どうも当の本人がそう吹聴してまわっているらしい。得意の嫌みをきかせて、おまえらにはもう永遠に手が届かなくなったのだから見るのもやめろ、などと豪語しているという。
 クラスがちがっているのであまり確認できなかったが、確かにふたりの関係が以前とは微妙に変化していたことはぼくも認めざるを得なかった。
 少女が町長の息子の積極的な態度にめいわくそうにしていたことは変わらない。だから最初はだれもが、噂はやつが流した虚報だとせせら笑っていた。
 けれど――以前は常に凛としていた少女の態度がどこか曖昧な、拒否しようとしてしきれないとでもいいたげなものに変わっていることに気づかされるまで、それほどながい時間はかからなかった。
 そう。たとえていえば、つきまとうオスを存在すらしていないかのごとく扱う誇り高いネコのようだった彼女が、いつのまにかネコにもてあそばれるネズミのような立場になりさがっていたのだ。
 もちろん二人がそこまで露骨に行動していたわけではない。変化は注意して見なければわからないくらいさりげないものではあったが――でもそう思って観察していれば明らかに違いを認めざるを得ない変化でもあった。
 そして大人たちから別の噂が、流れこむ。
 町長の息子がとりまきどもの手を借りて、くだんの少女をレイプしたのだという、身も蓋もない噂。
 その噂はとてつもない波紋をぼくたちに投げかけたが、証拠があるわけでもなく、当の本人から告発がなされたわけでもないのだから、もともとが権力者の息子であるやつに面と向かって質したり、まして叱責したりする者など皆無であった。
 でもそれが事実なら、まだましだったかもしれない。
 むりやりものにされて、いやいやながら少女が従わざるを得なかった、というのならまだぼくらも救われる。
 現実はさらに卑しく、醜悪だった。
 それを知ったのはぼくだけだったかもしれない。なぜなら、彼女はとてもうまく立ちまわっていたから。
 あの日――転校する一週間前、最後の別れとともにせめて自分の気持ちを告げるだけでも、と彼女がひとりきりになるのを待って放課後の校舎裏へと少女の背中を追ったあの日。
 目撃したのはほんの一瞬だ。
 だが、決定的だった。
 憎んでも憎みたりないあの嫌みな町長の息子が、そこにはいた。
 焼却炉裏の、ふつうならだれも入りこもうとはしないような狭い空間。そこでふたりは、前から秘密の逢瀬を楽しんでいたのかもしれない。
 にやにやといやらしい笑いを浮かべて華奢な腰に手をかけるやつの顔よりも、むしろ彼女の態度のほうがぼくには衝撃だった。
 いやがるどころか自らしなだれかかりながら少女は――とても下品な笑い顔で、町長の息子を見つめあげていたのだ。
 ぼくは息をのみつつ、のぞかせた顔をひっこめる。それしかできなかった。
 たとえば噂のようにやつがむりやり彼女をものにしたのだとしたら、実際には不可能だとはいえ正義の味方よろしくやつに殴りかかる、といったような場面をひとり夢想したこともある。
 けれど彼女がいやがるどころ、むしろ積極的に迫っているようにすら見える場面を見てしまっては――そんな卑近なぼくの夢想など粉微塵に破壊されないわけにはいかなかった。
 でも――そのままその場を立ち去ってしまえば、まだよかったのだろう。
 だけどぼくはわけのわからない動悸にさいなまれたまま、凍ったようにそこに釘づけにされていた。
 あのときに女が立てる声を、きかされたからかもしれない。
 動物的で、とてつもなく下品でありながら、どうしようもなく男をかり立ててやまない声。初めてその響きを耳にしてぼくは、蛇に呪縛されたカエルよろしく硬直してしまったのだ。
 それほど大きな声だったわけじゃない。むしろ抑えられた、ひかえめなものだっただろう。それでも、初めて耳にした女のあえぎは、まして狂おしくあこがれてきた少女の立てる大人の声は、未熟で純朴なばかりのぼくには魂の底の底までうちのめすのに充分以上だったはずだ。
 息をふるわせながら立ちつくすよりほかにないぼくの背後で、ひそやかなあえぎはしばらくつづいた。永遠にも等しい時間だったが、実際には一分にもみたない寸時のできごとだったと思う。
 不意に声のリズムがせき込むようにはやまった、と息をのんだ瞬間――
「だめだって!」
 強い、だが甘えるような響きを伴った少女の制止がかかったのだ。
「ここじゃだめだって。うちの親にばれたら、何もかもぶちこわしよ」
「だれもきやしないって」
 下卑た笑い混じりの声がいって、しばしもみあう気配がつづき――
「だめだってば!」
 今度はかなり強い調子で少女がいった。
 なんでえ、と鼻白んだ声音が響き――ふたたび沈黙。
 立ち去れなかったのは、ふたりの関係をもっとはっきりとつきとめたい、という衝動にわしづかまれていたからだ。
 しばらくの静寂ののち、今度は町長の息子が口をひらいた。
「またきのう、むしりとっておいたぜ。もうかなりの額だ」
「あんたの親父も、甘ちゃんだね」
「一人息子だからな」
「その跡取り息子が最大の裏切りを目論んでるなんて、夢にも思ってないわけね」
「よせよ」跡取り息子が下卑た笑いをあげる。「おれはおまえのいいなりになってるだけだぜ。なんだよ、この夏まで絞れるだけ絞って、手も握らせなかったくせに」
「安売りはしないのよ」
 口にされたセリフは、娼婦のそれのようにぼくには感じられた。
 もちろんそんなことには気づきもせず、少女は憤った口調でつづける。
「まったく。こんな田舎はもううんざり。山以外になにひとつありゃしない。はやく東京に帰りたいわ。ね、もういいでしょ?」
「まだだ。まだ東京でふたりで暮らしていくには、心細いぜ」
「もういいわよ。一日でもはやく、あたしはここを出たいの。山も川も、田舎もんのクラスメートや近所の連中も、何もかももう心底うんざり!」
「ひでえいいぐさだな」
「あんたは別よ。でもまだまだだけどね。すこしはまし」
「とんだあばずれだぜ」
「いいお嬢さんぶってるのも飽き飽きだわ。パパにもママにもうんざり。あたしがこんなことしてるって知ったら、どう思うかしら。卒倒して、そのまま死んじゃうかもね。財産でもあるんならそれもいいけど、失敗しておちぶれてきた親にそんな期待してもねえ」
「おいおい。自分の親だろ」
「あんただって似たようなもんじゃない。ねえ、もういいでしょ。東京にいけばどうにでもなるって。仕事だっていくらでもあるし」
「苦労はしたくねえだろ」
「まあね」
 会話はそこでうちきりだった。しばしの沈黙ののち、ふたたび、ふだんの彼女からは想像もつかないほど動物的な声音が、しめやかに響きはじめる。
 ぼくはだまってその場を離れた。
 ひどく冴えた気分だった。現実感が根こそぎ欠落したような。衝撃に叫び出してもおかしくないのに、なぜこんなに冷静な気分でいるのだろう、と自分でも不思議なくらいだった。
 が、手足は小刻みにふるえていた。自分で感じている以上に、ぼくは動揺していたわけだ。
 そのままぼくは教室に帰り、居残っていた連中にじゃあな、と声をかけて帰宅した。後日その連中からきくと、夢遊病者のようでかなり不気味だったらしい。能面のような顔をしていた、と評された。容易に想像できる光景だ。
 家に帰ってもぼくは、一言もないまま飯を食い、部屋にこもった。いつものことだったから、両親は特に不審にも思わなかったようだ。
 勉強机を前にスタンドを点灯した状態で、ぼくは何時間も無言でいた。昼間のふたりの会話と、彼女の立てる衝撃的なあえぎ声とが頭のなかにこびりついたまま、幾度も、幾度もくりかえされた。
 その言葉をつぶやいたとき、ぼくは何も考えていなかったと思う。
 ただ形にならないどろどろした想いが、溶岩のように心の中で渦まいたあげく、排泄物のようにかたまりになって口からこぼれ落ちただけだったと思う。
 それでもぼくは、その言葉を口にした。
「死ねばいい」
 と。
 たぶん、能面のような顔をしていたのだろう。何も考えられない、苦悶だけでうめつくされた、しんしんと冷えた頭のなかでその言葉が反響し、反響するたびに増幅していくような気がしながらぼくは、やっぱり同じ姿勢のままで硬直していた。
 視線を感じたのは、ずいぶん経ってからのことだったような気がする。
 ふりかえると――壁にかけられた小さな鏡の向こうにそれはいた。
 巨大な肉色の、のっぺらぼうの頭部。
 異様にひょろながい四肢と、赤ん坊のようにちんまりとした胴体。
 それはゆらゆらと、不安定に頭をゆらめかせながら、声もなくたたずんでいた。
 ひっと喉をならしてぼくは逆側をふりかえり――
 あけ放たれた扉の向こうに、夜の屋内のよどんだ闇が広がっているのを見つける。
 異形の姿はどこにもない。
 喉をならしながらぼくはもう一度ふりかえり、鏡のなかに視線をとばした。が、そこにも同じ闇がくろぐろとわだかまるだけ。
 一瞬前とはうってかわって、激しく波打つ心臓を抱えながらぼくは鈍い動作で立ちあがり、あけ放たれた扉に歩みよった。
 部屋に入るときに、たしかに扉をしめて施錠したはずだった。思春期の少年の、何年来の習慣だったからまちがいない。通常の心理状態でなかったことは確かだが。
 どうあれ、いくらさがしてもこの世のものならぬものの姿など、どこにも見出すことはできなかった。
 少女と町長の息子が死んだのは、その翌日のことだ。


 転出した先は平凡な田舎町だ。草深い山中よりはましだったけど、思い描いていたような華やかさとはまるで無縁の退屈な場所だった。たいした事件もなくその町で、ぼくは平穏に過ごした。
 遊ぶ場所もなかったし、一生をその町で埋もれて暮らすのもたくさんだったから受験勉強には熱心だった。外に出るなら国公立、という条件を課され、一年を棒にふったがぼくは無事東京の大学に合格し、つぎの春からひとり暮らしを始めた。
 大学で大過なく四年を過ごし、そこそこの企業に就職し、だれにでもできる仕事を日々こなして過ごした。
 彼女ができたのは就職して四年めのことだ。だれがセッティングしたかも覚えていない合コンの席で、やけに積極的だった相手になかば押し切られる形で関係を持った。とはいっても、まんざらでもなかったかもしれない。封印した記憶のなかの、あの少女にどことなく通じる面差しを、彼女はしていたのだから。
 町長の息子と少女の死にざまは凄惨の一語につきた。
 夏休みに入る直前あたりから、ふたりはそういう関係になっていたらしい。逢瀬はもっぱら、町長宅。それも昼間からだったそうだ。少女のところはなかなか厳格な家庭だったらしく、陽が落ちてからの帰宅にはかなり喧さかったのもその理由だったという。
 町長一家は、それとなくふたりの関係に気づいていたみたいだ。もちろんひとり息子に激甘と評判だった両親がふたりを咎めるはずもなく、気づかないふりをする周囲を尻目にふたりは宅内ではかなり大胆にふるまっていた。
 噂は入っていたのだろう。夜になっても帰宅しない少女の両親が町長宅に電話を入れ――ことは発覚した。
 伝えきいた話だから事実かどうかはわからない。少女も少年も――顔と性器をずたずたにされた見るも無惨な姿で発見されたという。
 それをきいてもぼくには現実のこととは思えなかったし、その前後は引っ越しのあわただしさにまぎれていたからそれほど強い印象を残していたわけでもない。ぼくの腕の中で激しくあえぐ彼女の顔を見ながら、ふと思い出しただけだった。
 ふってわいたように訪れたふたり暮らしの日々は、月日を重ね――いつしか執着心ばかりが膨れあがる。
 同棲するようになってから三年も経てば、互いを異性と意識することもなくなる。会話は減って不機嫌が顔をだし、ののしりあいが定期的に訪れるようになった。からだを交えることさえ奇妙な義務感を伴うようになったころ、妊娠が発覚する。
 結婚に踏み切れないのはお互いさまだったが、中絶には彼女が強い抵抗を示した。堂々巡りのわめきあいは何日もつづき、そうでないときは互いにむっつりとだまりこんだ。子どもといっしょに死んでやる、と彼女が口にしたときも、つまんねえこと吐かしやがってと、苦々しい想いしか浮かばなかった。
 いっそそうしてくれれば面倒がないと、一瞬でも思わなかったといえば嘘になる。
 口にしたセリフは売り言葉に買い言葉だったのはまちがいないけれど。
「ああ死ねよ。勝手に死にゃあいいだろう。てめえが死んでくれればおれもすっきりするぜ。死にたきゃとっとと死ね。死ねよ」
 一言一句覚えている。ぼくがそういうと彼女は、瞳に涙をいっぱいにため、かみしめた唇をふるわせながらぼくをにらみつけ――走り出ていった。
 衝動的にかけ出ていくのはいつものことだった。最初は後悔してさがしに出たこともあったが、駅前のゲームセンターで五十円のゲーム台をやみくもに叩きつけているのが常だったし、いつしか追うこともやめていた。しばらくすればむっつりと戻ってくるだけだったから。
 でもその夜は、彼女は戻らなかった。かわりにぼくが呼び出された。警察に。


 彼女の死体を見たわけじゃない。見たい、ともいわなかったし、警察のひとも見るか、ともきかなかった。ただ少し血らしきものに汚れた自殺者の所持品を見せられ、見覚えはあるかときかれただけだ。
 もちろんパステルカラーの、マジックテープのついた少し子どもじみた財布やその中身のレンタル屋の会員証、学生証、実物よりは幾分不細工に微笑む免許証の写真などもすべて彼女のものだったから、正直に何があったのかを話して終わりだった。叱責の言葉ひとつかけられなかった。もちろん自殺だと断定された。
 どういう死にかたをしていたのかはきいていない。ただ近所のビルから飛び降りたらしい、といわれただけだ。屋上への扉は施錠されたままで、ほかに飛び降りることのできる場所などないビルだったというのが不審といえば不審だったそうだが、特にぼくが疑われたわけでもない。
 それはそうだろう。彼女が死んだ、とされる時刻、ぼくはアパートの部屋にいたのだから。それだけははっきりと覚えているし、アリバイもある。
 そう。はっきりと覚えている。
 暴虐に扉を叩き閉めて遠ざかる彼女の足音をききながらぼくは座椅子のなかに飛びこんで、きわめて不愉快な気分で腕組みをした。怒りばかりがふつふつとわきあがって何をする気にもならず、しかたなくテレビのスイッチを入れた。夜八時台の愚劣きわまる番組ばかりで視聴する気になどもちろんならず、一分と保たずにスイッチを切ってリモコンを投げ出し、座椅子に背をあずけてへたりこんで――
 視線を感じたのだ。
 今度は、反射的にふりかえるようなことはなかった。
 予感を感じていたのかもしれない。
 磁石に吸い寄せよられるような気分で、彼女が使っていた姿見に視線をとばし――
 否。幻覚だ。幻覚なのだ。その証拠に、映りこんでいた窓は確かに気づかぬうちにあけ放たれてはいたものの異形の影などどこにもなかったし、あわてて窓からつき出した視線の先にはひとつおいた隣に住むアマチュアミュージシャンのフリーターの、いぶかしげな表情しかなかったのだから。
 そう。あり得ない。
 あり得ない。
 走り出ていったばかりのはずの彼女が、十五分も離れたビルの屋上から落下するのを目撃されることも。
 おしよせた混乱には、いくばくかの後悔も入り混じっている。幸福だった時間を、気がつけばしみじみと思い出している自分に気づく瞬間だって何度もあった。会社にはいっていない。様子を見にきた同僚に支離滅裂な対応をして以来、質問や叱責の電話も入らなくなった。気をつかわれているのかもしれない。どうでもいい。
 そう。ぼくは確かにつぶやいた。いま思えば混乱に乗じて顔をのぞかせた自己憐憫が、甘ったるいロマンチックなセリフで衝撃を緩和しようとしただけのこと。
 でも、つぶやいたときは本気だった。本気で、後悔していた。彼女の死を。
 混乱していたのだろう。いまも混乱している。幻覚が原因だ。
 そう。幻覚だ。現実であるはずなどない。
「おれが死ねばよかったんだ」
 たしかにぼくは、そうつぶやいた。
 つぶやいてから、気がついた。その言葉の持つ意味に。
 まさかそんなことはないだろう――ひとりそう口にした瞬間から、つづいている。
 そうとも。
 現実であるはずなどない。あり得ない。決して。
 決してぼくは、ふりかえらない。なぜなら幻覚だから。幻覚以外のなにものでも、あり得ないのだから。そうだろう?
 狂気がぼくを蝕みはじめている。そうに決まってる。だからこんな幻覚を感じるんだ。だってほかに説明のつけようがないじゃないか。だからふりかえらない。ぼくは絶対にふりかえらない。

(了)


			

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