聖なる帰還
ここのところ姿を見なかったので、そろそろ秘境めぐりにも飽きて故国でおちついてでもいるのだろうかと想像していたのだがさにあらず、またもや来日してしまった。
おまえはまだ小説を書いているのかと開口一番問いかけ、こちらの返事も待たずに幻想小説の題材にぴったりの奇怪な体験をしてきたところだなどと大仰な口調でのたまわり、例によってぜひその話を文章にしろときかないので、仕方がないから小説にする。
話は一年ほども前のこと。舞台はインド。ついにきたかといった感じの、神秘の大地だ。インドといえばマハーバーラタやラーマーヤナに語られる神話中の超兵器に関する記録や、クトゥブ・ミーナールの純度百パーセント近い鉄柱、前世の記憶をもつ子どもが多数存在するなど、うさんくささふんぷんとただよう神秘的事象にはことかかない国であるが、なんといってもまっさきに思いうかぶのはヨガの行者の存在だろう。
燃える火の上を裸足でわたる、火炎トーチをまるのみにする、からだじゅうの関節を自在にはずしてみずからを折り畳んでしまうなど、その大道芸的神秘力の実践は一度耳にすれば強烈な印象をもって記憶に刻印される代物だ。針山の上に座禅を組んでいる奇怪な隈取りをした半裸の老人の姿など、だれでもどこかで目にしたことがあるだろう。
実際のところは、それほど奇矯な光景が日常的にごろごろしているわけではないらしいが、たとえば座禅を組んだままヒマラヤを一周したとか逆立ちしたまま何年も暮らしているなどと自称して喜捨を強要するうさんくさい行者になら、私自身が遭遇したこともある。
ともあれ、折り畳み人間や火炎まるのみ男、巨大針体じゅうぶっさし野郎などがデリーやカルカッタの町中を跳梁跋扈しているかとなると、実のところそうもいかない。それこそ人間離れした超越者との遭遇を期待して、酷熱の大地をおとずれたジョヴァンニに失望がおとずれるまでに、それほどながい時間を要することはなかったらしい。
それでももとからが楽天的な男である。神秘にはめぐりあえずとも、自堕落な安逸とお手軽な享楽はそこらにごろごろあふれている。はっきりとはいわなかったが、どうやら半年近くはカルカッタあたりの安宿街でうさんくさい旅行者に立ちまじり、これまたさらにうさんくさい売人からドラッグを仕入れてはトリップ三昧の毎日を送っていたようだ。
それでも神秘に対する探求を忘れないところが、この男のよいところ、というより悪いところだ。いい歳をして家族ももたずにあちこち放浪しては実りのない神経症的事象を渉猟してまわらねば気がおさまらないのだから始末におえない。
ともあれ、カルカッタの自堕落生活からは不承不承とはいえみずからの意志で腰をあげ、神秘の都ヴァラナシへと居をうつすこととあいなった。
ヴァラナシときくと耳におぼえはないかもしれないが、ベナレスといえば日本でもある程度は知られた地名だろう。ガンジス川のほとり、インドじゅうからヒンドゥーの信者が死に場所とさだめてつどう聖なる町だ。沐浴のためのガートが無数にならび、河中にはワニが棲み毎年何も知らない観光客が襲われ、岸辺を寝ぐらにする野良犬はすべて狂犬病もちで火葬された死体はもちろん、ときには路上生活者やそこらをうろつく観光客にまでその牙をむき、死にいたらしめるという混沌中の混沌うずまく聖地である。
そのためか、死地を求める敬虔なヒンドゥー教徒はもとより、インド全土から聖者行者が無数につどい、祈祷や聖歌やシャクティ踊りがそこかしこでくりひろげられ、さながら神秘の叩き売りといったおもむきがあるそうだ。
それほどの聖地であるのなら、とてつもない荒行を実践している行者にも山ほどめぐり会えるだろうという、例によって無根拠きわまりない推測をもとに過大な期待を能天気に抱きながらジョヴァンニは聖地入りした。
しかし、神秘などそれほど無造作に道ばたにころがっていようはずもない。聖地とは名ばかりの、観光地化された俗っぽいインド人が山ほどひしめくばかりで、駅についたらさっそくオートリクシャの運ちゃんに相場の十倍以上の料金をふんだくられるわポケットにいれておいた金をすられるわ子どもに泥を投げつけられるわ立てつづけに不愉快な目に遭いまくることとなる。もっとも、インドという国はどこへいっても大なり小なりこの調子であるらしく、ことさら彼が不運だったとかヴァラナシがひどい町だとかいうわけでもないことは事実ではあった。
だからそれらのことどもには、多少の気落ちはあってももとより能天気な男でもある。すぐに忘れて気をとりなおし、あちこちのぞきまわってはだまされたり、現地のひとの気分をさかなでたり犬に吠えられたりしてまわったわけだが、一向にヨガの行者にはめぐり会えない。いや、顔に奇怪な隈取りをして髪もひげもぼうぼうの、行者と自称するうさんくさい男であればそれこそ叩き売っても売りきれないほどそこらじゅうにころがっているのだが、だれも口さきでは偉そうなことをほざきながら関節ひとつ外すことなく、ただただ小理屈をこねては喜捨をあつかましく強要するばかりで、期待の人間離れした超越行為にはいっさい遭遇することがなかったのである。
あげく、河畔でのんだヨーグルト飲料にあたって激しい下痢にみまわれる始末。
もともとインドの衛生事情はあまりよくないらしく、生水のみならず氷やなまもの、きょくたんな場合だと火をとおしたものですら雑菌の繁殖地であるそうなのだが、特にこのガンジス河畔で営業している露店のヨーグルト飲料やチャイなどは、なんと地元住民が水浴、洗濯から排泄の用にまで使っているという聖なるガンジス川の水を使用しているという噂もあるほどで、食中毒にならないほうがおかしいらしい。
生きかたからして世界放浪には慣れているジョヴァンニである。水や食物があわずに下痢や腹痛に見まわれることなど特にめずらしくもないはずだが、このときはほんとうに真剣に死を間近に感じるほど、苦しくつらい想いをしたというのだから相当なものだったのだろう。
まあ、それほどの苦痛に見まわれながら、医者にもかからず絶食だけで自力で乗りきり、三日後にはけろっと回復していたというあたりはいかにもこの男らしいが、そのあいだにも渉猟はつづけていたとくるから、どうにも自殺的な生活信条のもちぬしにはちがいない。
だが執念の甲斐もなく、あいかわらずペテン師のような喜捨強盗ばかりが入れかわり立ちかわりあらわれるだけで、一向に求める神秘には出会えない。インドの就学率はかなり低いそうだが、それでも日本のラジオ体操よろしくヨガの授業が小学校で義務化されているというのに、どうしてこうもろくでもない口先行者ばかりしかいないのかとさすがのジョヴァンニもいささかげんなりしはじめたある日。ひとりの男と知り合うことになる。
見た目は、さほどほかのインチキ行者と異があったわけではないらしい。ただおどろいたことに、腹痛に苦しむジョヴァンニに祈祷をほどこしたにもかかわらず、喜捨を要求しなかったというのである。これはたしかにおどろくべきことだ。
もっとも、ジョヴァンニがすすんでさしだした金銭はありがとうもいわずにとうぜんのごとく受けとったというから、私にはほかの泥俗行者とさしてちがわないとしか思えないのだが、ジョヴァンニはそうは考えなかった。ぺらぺらとよく舌のまわる似非ヨーギたちとはちがって、この静かなる男にはまちがいなく本物のにおいを感じたと主張してゆずらないのだ。
かといって、この男がほかの連中とちがった行為を見せてくれようとしたわけでは決してなかった。素手で腹を裂いたり首をとりはずして小脇に抱えて歩いたりとか、そういうことを期待し、水をむけてみるのだが、行者はカタコトの英語で「そんなことのできる人間はいない」と至極常識的な意見を静かに微笑みながら口にするばかりで、それこそ日がな一日ガンジス河畔のガートのへりに腰をおろして、きらきらと輝く水面をただ無言でながめやっているばかりだったのだそうだ。行者のくせに座禅ひとつ組むわけでもなく、ジョヴァンニのおごりならチャイばかりでなくコーラやミリンダなども喜んで口にしたそうだから、そこらの叩き売り行者となんらかわりないじゃないかと私は抗議したのだが、そうするとジョヴァンニはにやりと笑ってチッチッチッと指さきを小刻みに左右にふり、ところがそうではないのだと余裕たっぷりに笑って話をつづける。
どうやらその行者を相手にジョヴァンニは一ヶ月近くも、何をするでもなく麻薬入りクッキーや麻薬入りカレーライスを口にしながらひねもす、ガンジス川をただぼんやりとながめるばかりの時間を過ごしたのだという。くだんの行者と禅問答をかわすでもなく、ただ口にすることといえば、やあ、元気か、おまえは、暑いな、うむ暑い、腹がへった、眠くてたまらん、なんだかかったるい、そうかおれもだ、といったような、脱力しきりの会話程度を一日に数度くりかえすばかりだったそうなのだから、あまりの無為さにあきれるのを通りこして感心すらしてしまう。
ともあれ一ヶ月ほどの時間をすごしてようやく粘着質のジョヴァンニもあきらめがついたらしく、というよりはさらなる神秘を求めてさらなる秘境へと腰をあげる心境になったといったところなのだろう、行者に明日旅立つ旨告げることとなった。
すると行者はほんのすこしだけさびしげに微笑み、そうか、とうなずいたのだそうだ。「それならおれもうちへ帰るか」
ぽつりとヨーギはそうつぶやいた。年齢は本人にもよくわからないらしいが、きいた話から推測すると五、六十といったところらしい。まごうかたなき老人だが、求道の生活に入ったのはほんの七、八年前というからさほどの古株ともいえない。ましてそれ以前には家も家族もあったというのだから、帰るというのもその実家(それも案外裕福そうな生活であったらしい)をさしているのだろうとジョヴァンニは考えた。
やがて陽も暮れようというころあいに、いつもなら路上を宿としていた行者が、根がはえているとしか思えなかった腰をあげて立ちあがり、それではおれは帰るよ、達者でな、と短く告げて背中を見せたときには、さすがにジョヴァンニも哀惜の念に耐えかねた。
だからこっそり、あとをつけた。六十近い老人相手にストーカーまがいの行動など、およそこの能天気な男には似つかわしからぬ行為にはちがいないが、本人にいわせると勘がはたらいたのだそうだ。
べつに仙人が歩くように宙を滑空したりもせず、行者はごくふつうに、やや軽い足どりでヴァラナシの裏町の入りくんだ雑踏をぬけ、裸電球をぶらさげた街路が停電でまっくらになるときちんと灯りが戻るまでたたずんで待ち、というようなことをくりかえして、ごくふつうに町をぬけ、人どおりのない廃墟らしき一角にたどりついた。
どう見ても人が住まうには適さない廃屋のなかへ老行者はすたすたと歩みいり、なぜか内部においてあったろうそくに火を灯して腰をおろす。
やはりなにひとつ特別な行為をするでもなく、かといって想像していたようなふつうのインド家庭に帰るでもなく、いったいどうしたわけだろうとジョヴァンニは首をひねる。もしかしたら、ジョヴァンニが旅立つことで急にひとさびしくなったか、あるいはこのおだやかな行者にして、帰る家を実はもっているのだとささやかな見栄でもはったのだろうか、といささか憐憫をもよおし、そのまま声をかけずにそっと立ち去ろうとした矢先のこと。
「さて、ずいぶん長居をしてしまったな」
行者はカタコトの英語でそうつぶやくや、邂逅以来はじめてみせるみごとな座禅の姿勢をとったのだった。
お、と目をむき、それでもさほどのことを期待してはいなかったジョヴァンニの前で、おそるべき光景が展開する。
ふむ、ふむ、ふむ、と最初はなにやらひとりうなずきをしているだけのように思えた。渉猟していながら、みずからも信じきれていなかったのだろう。気がついたとき、あまりの常識はずれの光景に脳が理解を拒んだという。それでも強烈きわまる神秘の開陳は容赦なく進行していく。手足の指からはじまり、手首、足首、ひじ、ひざ、腰と、老人の肉体は端から順にくたくたと折り畳まれていき、ひとつひとつの動作が終了するたびに、ふむ、ふむ、ふむと棋盤をにらむ町のおじさんよろしく、気のぬけたような鼻息をひびかせた。
折り畳み椅子のような光景を想像していたそうなのだが、現実に眼前につきつけられたのは、むしろ紙を畳んでいく行為に近かったらしい。
ともあれ、正味五分と経たなかったろう、とジョヴァンニはいう。最後にはあとかたもなく消えてしまい、これぞまさに神秘の顕現と喜びいさんでよさそうなはずだが、なぜか素直には喜べなかったそうだ。
よくわからないが、そんなふうに順番に折り畳んでいくとなると首はいったいどうやって収納したのだろうかとか、手を収納し終えてしまったらどうやって作業をつづければいいのかとかいろいろ疑問がうかぶのだが、そのへんはよく覚えていないのだとお茶を濁されてしまった。ともあれ手足から首から胴から手際よく機械的につぎつぎに折り畳まれていき、くだんの行者の肉体は、あっというまに睾丸のなかへ。
(了)